曖昧ゾーン (36)

第十話 - 5 頁


「サトコ! 教えてくれないの? やさしくなんかしてあげないよ」
 叫ばれて首を振る。もう言いたくない。あの頃のことを話すには、必死に閉じて来たふたを開けねばならない。思い出すくらいなら、佐原君を失うくらいなら。このまま睨みつけられて、痛い思いをしている方が……いい。
「ずるい! 田村と鈴木で相殺されても、疑問が残るでしょう」
「全く違う……」
「嘘だよ。騙されておいてあげないよ」
 泣きそうな顔も狡い。さっきまでの無表情は、泣くのを我慢していた? いきなり抱きしめられる。痛い。
「それでも、好きだった?」
 耳元に落ちる声に頷く。鈴木君は同じクラスでキラキラとしていた。私が話せる唯一の男子に近かった。
「んっ」
 また急に起き上がられ、声が自然に出た。真顔で見下ろされる。折り曲げた両腕を更に広げて置き直され、指と指をゆっくりと絡められる。
「この声、鈴木にも聞かせた?」
「だから彼氏なんかじゃなかった。そんなわけがない」
「男のいじめには色々と意味があるよ。どう言われたって、やらなくて分からないよ」
 いいえ、首を振る。こんなことをいじめって言わない。信じられない。やっても分からないと思います。
「どうしようもなくもてて、いつも彼女ばっかり作っている佐原君だから、仕方がないと思えばいい?」
 淡々とした声に頷いてしまった。知りません。私たちは三人で一緒になって家庭科室であれだけ騒いでいたら、聞いている女子はいたと思いましょう。
「秀美は嫌になって来ちゃったから」
「俺のせい? 恋愛に足を踏み入れるからでしょ。でも俺は感謝している。サトコがラブレターをくれない」
 ラブレター。今も気が付いていないわけがありませんでした。テレビドラマみたいなのを期待してもいました。
「実はいたとか?」
「嘘だよ」
 ガバリと首元に顔をうずめられ痛くされる。両手を持ち上げられた。
「痛い」
 ニヤリとされる。なぜでしょう。どこかうれしいのは。でも、やめて欲しくないと思ってしまう。
「親父だよ。商店街でお花見の会をしていた。俺にも後で余計なことを面白そうに報告してくれたよ」
 ニカッという笑顔を思い出した。
「私は聞いていません」
「だから親父らが地球儀に登ると危険だから注意しに行ったこと自体は本当だよ。地球儀に一緒に乗っても教えてくれなかったくせに!」
 あ、地球儀。また敬語を使ってしまったとも思ってしまった。だから佐原君はあそこでお家の話をしてくれたのですか。でも、私はお父さんとは喫茶店前が初対面です。お父さんに言わせるとそうではなかったのですか。
 首を振る。公園で危険なことをしていません。不良の人たちが遊んでいたはずだと否定をしたら……。
「言いたくないならいいよ。サトコの文字をよく見たら分かった」
 なんてことでしょう。佐原君は傍で手元を見ていた。隣で話す時、ものすごく近くに来ると思っていました。
 ――しおり係は? 鵜飼さん、文字が綺麗だから。
 忘れられない言葉です。今日、佐原君のお父さんに無遠慮に下から上まで見られていると感じたのは、間違いなく夜の公園で見た子だと思っていたのでしたか。そう言えば、お店に来たことがあったかも聞かれました。
「サトコが俺にとってのアイドルでないけど、他の女と同じでないよ。どれもしていたら嫌だなと思った」
 どれも……。他の男子のことを考えていたら。付き合っていたのかもしれないと思ったら……。
「彼の口から直接、ブス、オオバカって言われたときは死にたくなった。それでもってことないから」
「うん。俺は抱きたかっただけだよ。田村のタイプってそういう女でしょ」
 そういう女というのはどういう女ですか。同年代より大人びていて、色気がある美人ですか。
「だけばっかり!」
「母のような女」
 淡々とした声が落ちて来る。それこそ、その固い顔に聞けない。首を振る。それを知りたいわけでもない。
「サトコが知りたいならみんな話してあげる」
 いいえ、唇だけが動いた。喉が渇いてしまって声が出ない。知りたいわけではないけど、フェアじゃない。
「そんなに好きじゃないから」
「やめて!」
 叫ばれる。身体が痛い。目をつぶった。股の上でグリグリと動かれる。感じられない。
 佐原君のお父さん。お昼から仕事をサボったり、パチンコをしたり、お酒を飲んだり、仕事をさぼったりするような人なのは分かったけど。
「わ、わたしは、佐原君のお父さん、嫌いだと思わなかったし、家業がなんだっていいから」
「親父は人が悪いわけではないけど、あんな風なのは昔からだ。うちの経済面はね、今の方が安定している。母親は近所の男と駆け落ちした。探し出して正式に離婚をするまで大変だった。この辺の人ならみんな知っている。田村たちも遊びだっただけだよ。あいつらが俺のファンであり得ないよ。勘違いはしないで」
 たち? あいつら?
 動いた唇を読んで頷かないでください。ファンクラブは真面目なら入ると思っていた。
 え? なんてことのないような、懺悔(ざんげ)はしたからいいというような、堂々とした表情で見下ろして来ていることですか。
「佐原君がファンクラブの人たちに水をかけられるべきだった!」
「分かっている。あいつらファンなんてかわいいものはないよ。そう言ってくれればよかった。数学のノートもお手洗いもただじゃおかないよ。副担任は役立たなかったけど、偶然に見に行かないよ。もっと怒ってよ」
 ふっと笑われる。体制を変えて陰部に怪しく当てて来る。かわいいものでなくしたのはご自分のせいでは……。
 でも、違う! あの人たちは佐原君と私が付き合っていなくてもやった。学校のお手洗いでは、外でしか水をぶっかけられなかった。私がお手洗いは壁際にひとつしか個室がない個室に入ると決めているからだ。そのくらいのいじめ対策には慣れた。田村さんたちは優等生で通しているのに、私が前に同じことをやられたことがあるのも知っていたから、バケツを持ってあんな風に笑っていられたわけですか。
 教師が来ても私がなにも言えないことも知っていた。佐原君はそんな私を好きになったと言っているの?
「そうだよ。サトコが好きだよ。俺だけに答えて」
 やさしく言ってくれても知らない。そうだよという中身、私だって同じだったか分からないけど……。
「で、でも、こんな話をするくらいだったら、勘違いされていた方がよかった!」
「分かったけど……。俺が信用をされていないのは」
 また思わず頷いてしまった。佐原君は好きだったし、出来る人だと思ってもいたけど、信じられはしなかった。
「佐原君は忘れちゃったのだよね。ゴールデンウイークが開けた頃。今みたいに放課後に言ってくれていた」
 どこがいいの? と不安にさせたのは分かった。どうして私なのだろう。その理由を聞いても分からない。
「サトコはどこにいたと言っている?」
「廊下。部活の帰りに忘れ物を取りに行った。鵜飼ってかわいいよ、って言ってくれていた。うれしかった」
 今でも覚えている。足早に立ち去った時、響いて来た声。私と同じ中学校から進学した男子が笑い転げていた。
「マジかよって、そっちがおかしいよって」
 変わらない佐原君の表情を見ていたら泣きたくなって来た。言葉にしたくなかった。大事にしまっておきたかった。いつも輪の中にいて笑っていた佐原君は、高校に入った頃から羨ましかったから覚えていただけだ。
「鈴木君は好きだった。私が見ていたのが悪かったのだよね」
「俺が分かるわけがないでしょ。はじめは恋愛の問題だった。分かる」
 片手で両方の手首を抑えたまま背中にもう片方の手で回されてホックを外される。
 この前の遠足で友だちは鈴木君の隣にいた。好きだったのかもしれないし、脈があるようにも見えたのだろう。
「でも、迷惑だったから、やられたのも分かる」
 佐原君の顔が遠くに見える。すぐ終わる。私も悪いのだと思った。自分に自信がなくて、オオバカで良いところもない。ムカつくと言われ続けた。嫌がらせをするメンバーは仲間内からクラス単位にまで広がっていった。
「佐原君には中学校の頃のこと話していなかったけど、同じ中学校から来た人たちと混ざって話していたから」
 軽く聞いても、二年も前のことは忘れたと思っていた。私の両手首を抑えた手から力が抜けて抱きしめられた。
 泣かない。今、泣くものか。そんな卑怯な女にはならない。
「うん……。俺でも謝られたくない」
 強く抱きしめられ、唇を重ねられる。素肌と素肌が擦れ合い、心臓の音、体温が混ざり切っていくのを感じる。
「佐原君のことは好きだったけど……」
 声が暗い天井に消えた。きっかけを話すと、過去話が必要になった。付き合うまでそんなに好きでもなかった。
「ごめん。俺、ここまでする気じゃなかったのに。かわいいから無理」
 ブラジャーをたくし上げられ、胸元に唇を落とされる。突き出た先を舌で舐められただけで身体が跳ねた。
 上から抱きしめられ、両方の胸を揉まれて先端を口に含まれる。顔を隠した両手を元の脇に抑え込まれる。
「好きだよ」
 佐原君の長いまつげが顔に影を作った。
「俺は緑色が一番に好きなのに、水色でおそろいにするくらいね。校則違反まで気がついていなかったでしょ」
 え。ブラウスの色。校則違反のストールの色。私は他まで校則を破っていない。佐原君も一緒だったの?
「そ、それは私が佐原君にブラウスの色とか合わせて来たの」
「へえ。高校一年生の四月頃から両思いだと言っているわけ?」
 覚えていない。自分の方が先に好きになったら嫌だったの? 佐原君だったらそんなことを言い出しそうだ。
「仲直りって思っていい?」
 頷いた。だから笑ってよ。そんなに佐原君が私のことで悩むことはないし、迷うことなんかもっとないよ。
「好き?」
 顎を抑えられて唇まであと数センチという位置で唇を抑えられて止まる。身体じゅうが密着し切った。
「うん……」
「好き?」
 低く強く発せられる声がとても甘美なものに聞こえた。
「すき」
 声を絞り出した。派手なくしゃみをして、クスクスと笑われた。布団をかけていないし、電気の灯りだけだし、この部屋、なんか寒いです。やっぱりホッとする。佐原君が笑うと。私に向けられるその笑顔が好きです。
「いやじゃない? 途中でやめてあげられないよ」
 手のひらで髪をかき上げられる。目が合うと小悪魔のようにニヤリと笑まれる。今からだってやめられない。
「うん。今もおそろいがいい」
 両手を伸ばした。佐原君の固い背中に手を回し、自分から唇を近づけて両手で頭を抱えられ、布団に落ちる。
 今まででいちばん深いキスをする。両足を広げるように促され、心臓がこれ以上ないくらい細胞と共に波打つ。
 抱きしめ合う。ぬくもりを伝え合う。そうやって繋がっていく。

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