曖昧ゾーン (35)

第十話 - 4 頁


「俺と寝てよ。サトコの行動で謝罪の大きさを示してよ」
 佐原君は乱れた布団を投げてどけてベッドの上に腰を下ろし、胡坐(あぐら)をかいている。
 狭くて家具が多い部屋だった。佐原君が座っているベッドと勉強机の間に私は立っている。目の前にソファーとミニテーブルが置かれていても、洗濯物がピンチハンガーごと乱雑に詰まれていて座れない。その奥の大きな窓はベランダに続くのだろうけど、グレーのカーテンがかかり、雨戸が閉まっていた。勉強机の向こうにリビングに続くのだろうドアがある。反対側にはカラーボックスの本棚がいくつか並び、私の真横がクローゼットで、ドアの前に大きい文字のカレンダーが張られている。ベッドの下にも収納ボックスが見えた。
「部屋の観察は終わり?」
「あ、じろじろと見てごめんね」
「さあ、どうぞ」
 佐原君は肩をすくめるようにしてじっと見て来た。
 頷き返しはしなかった。ゆっくりとリュックを肩から下ろした。床に置いて壁側を見る。本棚には写真盾がいくつも飾られていた。
 写真盾は本棚の手前にずらりと大小のサイズがあり、フレームの装飾も色々だ。桜や空を撮影した写真が多かった。学校の広場や裏庭、隣の公園と分かるのもある。ご家族と一緒のもあった。どれも写真部らしい腕前だ。
「かわいいでしょ。俺が好きになったサトコ」
 表情のない声にドキリとした。本棚の下段の隅の写真盾はひとつだけ木製だった。通常のサイズだ。私がこっちを見て笑っている。制服だ。桜が咲いた木の下で誰かと話している。公香や秀美でしかあり得ないけど……。
「わたし」
 振り返る。佐原君は後ろに両手をついて体重をかけてため息をついた。
「話をして欲しい時間は終わった。俺も過去を話したいわけでないし、謝って欲しいわけでもない。脱いだら許すと言っている。子供じゃないのだから、それだけで終わるなんて思わないでね。早くしないと気が変わるよ」
 その強い視線と抑揚のない話し方から逃げるようにして、白のパーカーを脱ぎながら背中を向けた。
「やらないなら帰って!」
 大きい声にうつむいてしまった。分かっている。そのくらいしなかったら許して貰えないことをした。
 雑多に並ぶ本棚にちいさい鏡を見つけた。自分の顔だけが映っている。なんて顔をしているのだろう……。
 自分で自分を睨みつけ、色気のない水色のシャツを床に脱ぎ捨てるのはかんたんだった。学校指定と同じ靴下も同じことだ。ズボンのボタンを外してファスナーを下ろす。
 佐原君の息遣いが聞こえる。背中に視線を痛いくらいに感じる。そっちを見ながら脱ぐ勇気までなかった。
 女は度胸!
 変な掛け声を心の中でかけて一気にズボンを脱いだ。半袖のシャツとガードル姿になる。白のコットン百パーセント。面白くもなんともない。自分で言いたい。それ以上を考えずに脱ぎ捨てた。
 ブラジャーとショーツだけになった。佐原君が止めてくれる様子はない。やさしくする気もなくなった?
 嫌いになった? そんな風に聞きたいわけではないし、私に甘えて欲しいのでもないのは分かる。
 両手を背中に回した。指先が震えてブラジャーのホックがうまく外れない。わざとのようだ。
 でも、怖がることはない。分かっていたことだ。彼氏の自分から部屋を訪ねるのがどういうことか。
「後は自分で脱がなくてもいいですか」
 ベッドに振り返った。佐原君は同じ姿勢で見上げていた。つまらない肌色のブラジャーとショーツ姿で見返す。
 ちゃんと目を見て聞いたのに何も答えてくれない。脱いだことへの感想もない。滑稽(こっけい)だ。
「中学校三年生の時、いじめられていたなんて言いたくなかった。誰にも話したことはないし、分からなくてもいい。考えたくもない。悪かったと思っていない。だからもう謝らない。脱いだら許してくれる約束でしょう」
 どれも嘘じゃない。佐原君と仲直りをしに来たけど、謝ることでもなかった。佐原君は無表情のままだ。
「うん。俺は一緒に寝て欲しいと言ったよ。隣に座って」
 声がやわらかくなった。布団の上に座る。至近距離で目が合った。今日は思うことを思うまま話しに来た。
「これ以上のことが私に出来ないのも分かっているでしょう」
 佐原君は無言のままズボンを脱いでブリーフだけになると横から引き寄せた。背中に冷たい手のひらが当たり、首元の跡を確認するように舐め、また痛いほど唇を押し付け、乱暴に押し倒され、上から抱きしめられる。
 佐原君の心臓の音、体温を感じたかった。ガバリと起き上がられる。ぬくもりを感じることは許されない。
「俺を見て答えて」
 上から両方の手首を握り絞めて左右に広げられ、腰の上から跨がれる。
「鈴木はなんだったの?」
 きつい顔で見下ろされた。
「いじめをして来た。中心人物だった。今の季節くらいにいきなり始まった。恋愛の問題にして欲しくない」
 目を逸らしても泣くな。手でこぶしをつくって握りしめる。話したくないと言った。思い出したくもない。
 やり方は今も数年前も変わらない。下駄箱や数学のノートの落書きのように古典的な嫌がらせからはじまった。
 遠巻きに自分を見つめるクラスメイト。誰も目を合わせようとはしなかった。気にしないでいれば、飽きるだろうと思っていたのに、無視されるだけでなくて暴言に繋がっていった。卒業するまで終わらなかった。
「理由がなかったと言っている?」
「オオバカと言われていたでしょう!」
 叫び返した。佐原君の顔に唾をかけ、睨んだ。鋭くて頭のいい人だ。ここまで話したら、分かってくれていい。
 そんな言葉を続けてしまいそうだった。どうしてなの? 抱けば終わるのだったらその方が良いのに。
「約束が違う。私は話したくないの。ダメなら帰る」
 唇を噛み締める。絶対に泣かない。私は頑張った。ここに来るだけでも怖かった。そう褒めてあげながら帰る。
「ダメじゃない……。すぐに抱きたい」
 じっと見降ろされ、掠れ切った声にゾクリとした。パジャマのシャツをボタンも外さずに乱暴に両手をあげて脱いでいる。
「俺はアイドルだからって外見が良かったの? それだけ教えて」
 だけって、脱ぐだけ、話すだけ、だけが多い。股の上に身体を下ろされると、固いものが局部に当たり切った。
「サトコ。俺は好きになった時の話はしてあげたよ」
「い、いつ?」
「あれは高校に入った頃、俺が写真部の活動で桜を撮りに行ったら、友だちと楽しそうに話していた」
 声はいつも通りに戻ったけど、洋服を下に投げている佐原君の表情は見えなかった。
「わたしは話したわけがないから」
 また怒らせそうなことを言ったと思った。顔にかかった髪をはがされる。表情が怒っていても指先はやさしい。
 ベッドに対して横向きに倒れたから、佐原君にまたがれて中に浮いていしまった両足が落ち着かない。
「なに?」
「体制がつらいです」
「サトコはバカだなあ。痛くなくちゃ意味がないよ。何度言ったら分かるの?」
 その笑顔にホッとする。分かっていて笑っているようだ。自分が女子にもてて来た自覚がないわけがない。いつも女子の視線を集めている人だった。佐原君を好きになる前でも、以前に話していたら絶対に覚えている。
「話していないでしょう?」
「あの時はね。わざと声をあげてこっちを見て貰った。よく撮れているでしょう」
 佐原君の上半身は綺麗だった。私の視線を追うようにしてキスをされる。間近で微笑まれた。
「これもいじめ?」
 ささかれて首を振る。甘い表情と不安そうな目。泣きたくなって来た。こんなことあんな人と。今まで誰とも。
「……しない」
 頷かれる。佐原君が私を好きになった理由、それだけなの? 友だちと話して笑っていた。ありすぎる風景だ。
「サトコはもう言ったと思うのかもしれないけど、田村たちが面倒なのは分かる。付き合ってはいたから」
 知っている。それも聞きたくない話だ。顎(あご)を固定され、唇が触れ、目と目を近づけられる。首を左右に振った。
「抱きもしたよ。ここじゃないよ。ラブホテルだよ。でもね、俺はサトコが好きだった。そのせいだった?」
 かすれた声に視界が滲む。首を振る。佐原君がアイドルさんでなかったら、好きにならなかったら、付き合わなかったら。田村さんたちに嫌われていても、敵にまで回さなかった。私の過去もばれなかったかもしれない。
「分からないけど、私が田村さんたちみたいなタイプに前から嫌われるから」
「ムカつくって?」
 頷く。重なり合った下半身の熱さと固さを感じていた。体重と共にめり込んでくるようだ。
「もっと俺だけを感じて」
 甘い声だ。わざと腰を私の下半身のやわらかい部分に局部が当たるように動かしている。両手首を抑え込み、真上から見下ろす佐原君の目を見返しているのがつらい。鵜飼がムカつく。田村さんが言っていたのでしょう?
「俺は俺が可愛いと思って見ていたからだと思った。サトコ、脈はなさそうだったし、それだけだったけど」
 首を傾げている。全く違う。そんな風に私を思って見ている男子はいない。いなかった。

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