曖昧ゾーン (34)

第十話 - 3 頁


「俊行はまだ寝ていたと思うぞ。確認してやる。嬢ちゃん、傘を持っていない?」
 タオルを握りしめながら首を振った。背中を向けて歩き出している。速足だけど、見失いようもない。お店の軒下から軒下へついて行った。
「返事が来ないなあ。休日はあいつが店番をしてないとならない日だぞ。ケンカでもしたのか?」
 古い型の携帯電話をいじりながら言っている。でも、この前の日曜日は来てくれた。立ち止まって振り返られ、頷いた。
「お客が来たら出る気はある。ふて寝ってやつだな。もうすぐ着くぞ」
 なんのことはないと言いたげに佐原君のお父さんは笑って前を歩き出している。あ、お花が並んでいる。
「よっ!」
 店の奥に手を挙げて声をかけている。大村君が立っているのが見えた。目が合わない。挨拶をし損ねました。
 お花が前の前を通り過ぎると、すぐに駐車場に出た。大きな看板がある。地図にあったとおりだ。
 その駐車場には簡易な屋根があり、車が二台止まっていてその手前に自販機やベンチもあった。裏道が見えた。そっちにもお店があり、商店街に属しているいくつかは地図に四角い箱で店名や業務内容が書かれていた。
 三軒が立ち並び、パン屋が開いていた。平屋のように低く、三角屋根の四角い昔ながらの家々が並んでいた。
 生ぬるい風が吹き抜けた。雨はやんだようだった。
 改めて歩いて来た商店街を振り返って眺める。佐原君がずっと見て育って来た景色。
 やっぱり静かで暗い。お店がいくつか開いているのに。お店を覗き込めば店員が立っていて、数人のお客さんも歩いているのに。パチンコ屋の音も鳴り響いているのに。風の音のように消えて行く。
 高い建物がメイン通りだけでなく、裏の通りにもない。小さな花が寄せ植えされている鉢植えがところどころに置かれている。桜の木の下に円を描いているのが分かった。桜の木はさっきの絵にも描いてあった。
 噂の通り学校にこの商店街から寄付をしたのなら、この桜が天然記念物の元の木だ。その景観のために同じ造りにする決まりがあるのかもしれない。
 灯りが欲しい。もう夜に近い時間のようだ。雨のせいでしょうか。あ、やみましたか?
 灰色の空を見上げたら、少しだけ雲の間から光が見えた。また前の背中にぶつかってしまった。
「すみま」
「さあ着いたぞ。玄関はマイカーの奥だ」
 ガラス戸のお店は古い二階建ての建物だった。緑色の屋根が前に突き出ていて、シャッターが上がっていた。
 二階も大きな窓が目立つ。緑色の縁取りだけを塗り直しているらしく、白い壁全体は黒ずんでいる。
 お店のガラス戸の横には、白いワゴンが停まっていた。塗装が剥げてドアの一部がへこんでいる。その前にポストがあり、表札が出ていた。“佐原”という文字をまじまじと見た。白いプレートに間違いなく書かれていた。
「俊行が寝てやがるから。店から入れないのだぞ。こっちだ」
 佐原君のお父さんは元気な声をかけてきた。駐車場側に突き出て停まっているワゴン車と自販機の間に身体を挟み込み、横向きにして窮屈そうに通り抜けて行く。
 二世帯住宅のようだった。“サハラ古書店”と車のドアに書かれた緑の文字が目に入った。
「うちの住居は二階だ。一階は店と賃貸の部屋だ。さっきの奴が使っている。パン屋の隣の、隣のなあ、スナックのマスターだぞ。君には教えておいてやる。またビックリされても困るからなあ」
 佐原君のお父さんは紙袋を重そうに持ち替え、コンクリートの急な外階段を軽い足取りで上がって行く。
 手すりに捕まり、私に何度も振り向いて話しながら、ニカッと笑いかけられる。そのたびにタバコとお酒の匂いがした。
「早くしないと置いて行くぞ!」
 後ろについて行くのをためらい、立ち止まってしまった。でも、ここが間違いなく佐原君のお家だ。
 すぐ踊り場にあがった。広めのスペースでドアが前と横にあった。傘立てに何本か傘が押し込まれ、ゴミ袋が積まれていた。その奥に木の鉢植えが置いてあるだけでもホッとしてしまった。名前も知らない緑なのに。
 手すりから階下をそっと覗き込んだ。駐車場が広がっているだけだ。家の脇に花や木が植わってもいなかった。
「ナンテンの木だぞ。敏行が高校に入った年にリフォーム工事をして、花屋がくれた。いい家だろう?」
 振り向かれると妙に近かった。そういうところが佐原君と似ていると思った。じっと見降ろされる。その少し怖い表情、何か言いたげに見下ろして来る沈黙の間すら。
「は、はい……。こちらのドアは?」
「そっちはリビングに直通だ。こっちが玄関だ。君はお客さんだからなあ。ちょっと待て」
 ダボッとしたズボンには、いくつかポケットがついていた。あちこち探してハンカチやティッシュを戻し、キーケースを出している。乱暴に扉を開けると電気がついたのが分かる。確かに新しいです。感心している場合ですか。
「俊行! 帰ったぞ。お土産付きだぞ」
 大声でドアの向こうに話している。返事はない。ダンボール箱の山が見え、埃っぽいにおいが鼻についた。
「まだ寝てやがるのか。ま、あがってよ」
 靴を脱いで投げ捨てている。振り返って目が合った時、後ろに下がってしまった。強引に腕を引っ張られる。
 ドアが後ろで音を立てて閉まる。玄関に入ると靴が散乱していた。すぐに引き戸が見えた。
 家の中は物が多いように勝手に想像をしていたけど、そうでもなかった。下駄箱の上にFAX付きの固定電話機や鉛筆盾や花瓶が置かれているのはうちと一緒だったし、花も綺麗に生けられてもいた。緑色の玄関マットの横に通販のロゴが入った大きいダンボール箱が三つ積まれている以外は、物が置かれていなかった。
「うちにスリッパはない。女の子なんか滅多に来ないし。わりいな」
 佐原君のお父さんにまた振り返られる。もうぶつからないように数歩は後ろに立っていた。
「平気です。お邪魔します」
 何か言いたげな視線に押されて、つっかけサンダルや大きさが違うスニーカーや革靴の間にローファーを揃えて脱いで玄関マットにあがった。
「俊行、サトコちゃんが来てくれたぞ」
 目の前の引き戸は音を立てて開けて、また大声をかけてくれている。何の音も返って来ていないのは同じだった。遅い足取りで台所に入った。冷蔵庫、洗濯機、壁際にちいさいキッチンが見えた。紙袋を四人掛けのダイニングテーブルの上に投げ出し、その中からタバコやお菓子やティッシュペーパーの箱が流れ出て来た。
「俊行! 俺はまた出かけねばならないのだぞ」
 乱暴に佐原君のお父さんは引き戸を叩いていた。それは私に会いたくないという意思表示かもしれなかった。
 手のひらを見つめる。埃がべっとりだった。手すりを触ったし、靴を脱ぐとき、下駄箱に手をついたのを思い出した。私が商店街までついて来た時、佐原君は掃除をしてから呼ぶと言っていたはずだ……。
 キッチンにも物がなかった。ちいさい流しにおけがあり、ワンコンロの上にやかんが置かれている。冷蔵庫の前に今月のカレンダーがマグネットで止められていた。玄関より綺麗だったけど、装飾がなくて寂しかった。
 キッチンと冷蔵庫の間に木製の食器棚があった。手前にいくつかちいさいグラスが並び、お箸やフォークやスプーンが入れられていた。その後ろにごたごたと食器が積まれているのが見えた。電子レンジや炊飯器がその下の棚にある。引き戸の前にはカゴが置かれ、洗濯物が入っていた。家事はそれらで済ませられるのだろう。
 引っ越して来たばかりのような……。引っ越す前の生活をしているような、埃っぽい色味のない家だった。
 けだるげに目の前の引き戸が開いた。暗い部屋から佐原君が顔を出した。白いパジャマだけが灯りのない中に浮かぶ。顔はよく見えなかったのに表情がないのは分かった。
「あいつなんか腐っているから、慰めてやってよ」
 佐原君のお父さんは、くさい息で耳打ちをすると、ニカッと笑いかけてきた。その原因は私に違いないのです。
「じゃ、俺はもう一戦、行ってくるわ。ごゆっくり!」
 ドンと背中を押されて、乱暴に引き戸が閉まった。佐原君の胸に飛び込む形になる。真っ暗だ。
 心臓の音、知らない静寂。佐原君のお父さんが派手な音を立てて玄関のドアを締め、オートロックのキーがガチャリとかかり、階段を駆け足で下りて行くのが聞こえた。
「ご、ごめ」
 佐原君の胸を両手で押して起き上がろうとすると、リュックごと両手で強く抱きしめられた。
「聞いて……」
「俺と話をしに来たの?」
 淡々と聞いてくる。頷いた。ここに来た理由、他に何があるというのでしょう。
「悪かったと思っている?」
 耳元でささやかれるのは今までと同じでも冷静で冷たい声だった。どうしよう。もう遅いなんて言われたら。
「うん。ごめんね。自分のことだけで精いっぱいになっちゃって」
「本当に?」
 引き寄せられているせいで佐原君の顔は見えない。言いわけは聞きたくないと言われているようだ。
「ごめん。謝りに来たから」
 どう言えばいいのか分からない。強い力だ。中に入っても灯りが少しもなかった。身体じゅうが痛い。
「本当に悪かったと思うのだったら」
 佐原君の腕から力が抜けた。電気がパッとついて目をしばたく。至近距離に何の感情もない顔があった。
「脱いでよ」
 きつい声。淡々とした表情。ぬいでよ?
 ――脱いでよ。
 ベッドと勉強机と本棚しかないような狭い部屋の中で、その言葉がこだました。

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