曖昧ゾーン (28)

第八話 - 5 頁


 佐原君の手のひらがあそこにかぶされる。身体の中の水分がそこに向かって下降をしていくのを自分で感じた。
 いやだ。こんな感覚、味わいたくもない。あそこを覆った手のひらが更に内側に進む。指の先が中央に達しようとした……。いきなり突き立てられた。その指先が冷たい。自分の中の中がビクリと反応し、膝が折れる。
 後ろに倒れそうになった。佐原君は難なく両腕で受け止め、突き出た下半身を私の下部に擦りこませた。
 佐原君の下半身が上下する。何も感じたくないのに熱く鋭く感じる。身体じゅうの力が局部から方々へ抜けていく。横になってしまいたい衝動に駆られる。ダメ、ムリ……。思考で抵抗をしていても、身体が言うことを効かず、ぐらりと着て前のめりに倒れた。佐原君の動きが止まり、両手で強く抱きしめられる。
 荒い息遣い、心臓の音。耳元に吐息が落ち、変わらない温度にホッとした。もう抵抗する気が失せた。
 頭を撫でられる。佐原君の腕の中で彼の定期的に時を刻む心臓の音だけが聞こえた。まだ彼の手のひらが股を通り越し、中央を突き刺した瞬間の感覚が残っている。
「結構、頑張ったよね」
 両腕の力を緩められて顔を覗き込まれる。満面の笑みだった。
「なにその顔、不満なの?」
 からかうようにクスクスと笑う。なにも伝わっていないように見えます。
「不満です!」
 大きく言い返して佐原君を睨みつけた。その視線にも足元にも力を入れることが出来ない。
「あらま」
 佐原君が顔を近づけて来る。慌てて顔の前を手のひらで覆って遮った。
「ち、ちょっと。もう本当にいいから……」
 声がかすれる。擦られた下半身は変にうずいている。心臓の音だけが大きくなっていて他が感じられない。
「名誉は挽回をしておかないとならないでしょ」
 佐原君はやわらかく笑って私の手のひらを顔の前からどけると、そっとキスをした。唇で唇をなぞって行く。
 軽く触れてくるだけのさっきとは違う感覚。なにかを伝えようとするような、やさしいキス。
「サトコ、キスは嫌い?」
 抱きしめ直され、耳元でささやかれる。今度は熱い息がかかった。
「きらい」
 はっきりと答えられる。いつもと違うと安心も出来ない。
「やっているうちに慣れるよ」
「慣れたくないです」
「サトコってさ、思っていたより」
 佐原君が屈んで首筋に吐息を落とされ、唇がつたっていく。
「いじっぱりだよね」
 まだ痣(あざ)が残っているところに振れる。そこに唇を押し付けるのはもう……。
 言葉にならない。ため息が出て、佐原君の腕に頭を乗せてしまった。唇を離されると、心のどこかでやめて欲しくないとも思ってしまった。どうしてだろう。痛いのに、痕(あと)もつけて欲しくないのに。
 ここまでやった私を褒めてあげて欲しい。それでいいわけがない。さっきの私の別れたいという話はどこに。
「あ……」
 視線をあげると佐原君の肩越しに田村さんがいた。きつく睨まれて目を伏せる。ムカついても、きれいな人だ。
「ま、そういうわけなので」
 佐原君は更に私を引き寄せた。首を振るとニヤリと私に微笑み、振り返った。
「俺はアイドルじゃないし、非公認のファンクラブは解散をしてください。今までありがとう」
「何を言っているの? 私たちは佐原君に彼女がいようといまいと、ファンの一人として」
「いやがらせをするの?」
「え?」
「俺に聞き返すの? 自分が中心でしたことでしょ。今までの女には何もしなかったけど、サトコにはする。君たちの目は確かだ」
 田村さんは、長い傘を持って立っていた。なにか言いかけ、口をきつく一文字につぐんだ。
 女子たちの明るい声がして、いつもの五人組になった。二年生は見合たらなかった。後から来た四人は、立ちすくんでいる田村さんとこっちの方をわざとらしく見比べている。佐原君は分かっていて抱き寄せた……。
「俺の方が上手(うわて)だよ。こうやっているうちに去った方がよくない?」
 田村さんの顔は抱きしめられていて見えなかった。佐原君の表情も胸に痛くつけられていて分からなかった。
 振り続ける雨にいくつかの足音が混じる。彼女たちは無言で走り去っていったようだった。佐原君は前に見た時のような表情をして笑い続けていたのだろう。田村さんたちは私にあそこまでやっておいて、今の佐原君が怖いの?
 中学校から佐原君のファンクラブをやっていたのに、みんなで帰ってしまうの? 両手で抱き起こされた。
「歩ける?」
 低い声が降って来る。無表情な顔を見上げるのが怖かった。手のひらを差し出される。
「歩けます!」
 目を逸らして背を向ける。佐原君の手を取ることなく、折り畳み傘を広げだした。
「サトコはひどいよね。嫌がらせをされたくらいで別れようと簡単に言って来て、俺だって痛いよ」
「かんたんじゃ……」
 傘を広げて振り返った。佐原君は広げていた傘を下から拾い上げ、真面目な顔でうなずいた。
「さ、佐原君にはたくさんのお友だちがいるし、勉強もすごく出来るじゃない。それじゃダメ……」
 手を強く握りしめられる。目と目が近くなる。言いかけた言葉を遮られた。
「ダメでもないよ。でも、それだけだと足りない。なにをしていても俺の心の奥は満たされない」
 目と目を合わせすぎて世界が滲む。握られた左手がじんじんする。思考が止まってしまったかのようだ。
 ――満たされない心の奥。
 何かの拍子にズキンと音を立てて心の奥が痛む。古傷を思い出した時。すごく楽しい時。今みたいにわけが分からなくなった時……。私を幸せにさせるものか! とでもいうように、確実にその痛みは身体を蝕み(むしばみ)、心臓の奥を冷たい隙間風が吹き抜けるように、忘れさせない。きっと心の奥底を痛み続けさせている。
 わたしは……。その痛みをよく知っている。冷たいままではつらすぎるけど、温まっても奥の方で傷ませる。なにかが足りない。心のどこかが痛い。満たされない。佐原君も同じだというの?
「だから、彼氏の俺をもっと好きになってよ」
「私は、佐原君のことそんなに好きじゃないの」
「へえ? やきもち?」
「していません!」
「つまらない」
「佐原君が面白くなくてもいいのだから」
「だいたい分かったから、もう考えなくていいよ。たくさんキスが出来たからね、許してあげる」
 いつもの笑顔に戻り、手を繋ぎ直されて歩き出した。強い。痛いのはもうやめて……。なにも分かっていない。
 心の中が満たされないって、どういうことですか? 私の考えていたようなことではなくて、男と女の……。
 そんなことを言われても困る。言えないまま、どれも聞けないまま、なにがなんだか分からないまま、歩き続けた。


 家の前に着いた時にはまだ午後の二時だった。信じられなかった。
「痛いってば!」
 グイっと腕を引っ張られた。
「送ってきてあげたのに、何度も腕時計なんか見るからだよ」
 佐原君がずっとうつむいて沈黙して怖すぎたからだ。バスの中では並んでいたけど、他は手を引いて一歩前を歩いていた。やっと振り返って目が合った。
「はなして」
「嫌だよ。痛くないと意味がないと言ったでしょう。今日、俺が気付かなかったらどうなっていた?」
 またその悲しそうなどこかが痛そうな顔。見たくないのです。いつも怒る寸前に見える。
「も、もう飽きたよ。水までぶっかけられたのだから。佐原君にあんなことをされた方が怖かった」
 私はなにを言っていますか。もうノーセイでいいですよ。揉めるのはやめて家に帰っておきましょう。
「もっと話して?」
「佐原君に話したくない」
 抱きしめられた。ここでやめて。両手で抵抗をしても強く引き寄せられて息もうまくできない。
「うん。俺に話したくないというだけでもいいから話して」
 頭を撫でられる。謝るのは私の方だ。でも、首筋に更に痕をつけられて目が合ったらそう言えるわけがない。
「ま……。真面目にして欲しい」
 声が震えた。どうとも言えない佐原君の表情は真面目そのもの過ぎた。唇を合わせられた時、涙が流れた。
 あったかい。抱きしめられて重なる心臓の音と温度に実感する。今、私は幸せだ……。
 どう言われても、痛くされても、やさしくされても、ホッとした気持ちと同じくらいに怖い。ううん。安心をしたら安心をした分、もっと怖くなる気がする。こういう気持ちはどうしたらいいのだろう。止まりはしない。それを話せるわけでもない。理解をして欲しいわけでもない。本当に誰かに分かって欲しいわけではない。
 言えるわけない。佐原君がそれでいいと言ってくれても、私はそれでよくない。同じでない。そう考えたら、また涙が流れた。
「しょっぱいよ」
 佐原君の呟きに笑い返した……。佐原君が私を見下ろして笑ったから、私が少し笑ったのが分かった。
「じゃあ……。妹が出て来ると面倒だから」
 素直に言わせてもらいます。なにが“じゃあ”なのかは分かりませんけど、モトコより両親の方が面倒です。
「ちょっと待って。なにくれる?」
 また腕を痛くつかまないでください。首を振る。こういう言い合い自体が苦手でストレスです。
「前に永岡のことを親友代表となにか話していたのでしょ。あれも関係する?」
 佐原君を見上げていた。佐原君は長岡君や大村君が女子にひそかに人気があるのは分かっているのに、自分自身がアイドルさんの自覚もなかった。どう説明をしたらいいのか分からない。
「な、永岡君にもファンクラブのようなのはあるのです。食堂で一緒に食べる話は実現をして貰えますか」
「サトコは、それ楽しみ?」
 首を傾げる。どちらかというとやりたくありません。でも、ダメになったと言うとまた秀美が気にします。
「この前、友だちに永岡君を囲む会を話してしまったから……」
「奴を囲む会、って何?」
 首を振る。分かりません。心配そうな表情をしないでください。永岡君は世界が別枠の方なのは分かりました。
「私が勝手に名付けた。親友じゃないと言っていたから、親友代表の方を通すべきかと」
「ケンゴはふざけて言っていただけだよ。どうってことはないよ。俺にもサトコがやぶれない会をちょうだい」
 なにを言っているのか分かりません。寂しそうに笑って見せないでください。
「サトコは真面目だから、そういう会がいくつもあったら、全部を忘れてとはならないでしょ」
 頷いてしまった。佐原君のその表情を私が微力(びりょく)ながらも、少しでもなくせればいいと思っていた。
 みんなで一緒にお昼を食べていた時だ。ついこの前のことなのに、その後に私のせいで何度もその表情をさせてしまいました。
「明日の遠足、楽しみだね」
 私はまた頷くだけだ。手を離されて腕を撫でられる。佐原君のせいであちこちが痛い。帰りたいのに帰れない。
「寝坊をしないでね。可愛い恰好をして来てね」
「え……」
「冗談だよ。頷くかと思った。他の男が見ていてもムカつくから、この前と同じ格好でいいよ」
「お花見の会ですか」
「うん。サトコはあれも会と言っていた」
 アハハと笑っている。正式名が長くて覚えられないだけです。佐原君は思っていた以上に私を見てくれていた。
「朝に電話をしていい?」
 佐原君の笑顔。すぐに頷いた。帰る前にいつものさわやかな笑い方を帰る前に見られてうれしい。
 私が笑い返せば、笑い返してくれる。門を開けてくれた。玄関のドアノブを握りしめて振り向くと、向こうへ歩いていた佐原君も振り返って手を振ってくれる。それだけの今が大切です。

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