曖昧ゾーン (27)

第八話 - 4 頁


 保健室は、下駄箱とは反対側の食堂の手前、資材室の向かいにある。廊下は異様に静かだった。
 職員室にも人気がしない。資材室の引き戸は開いていた。そっと端から覗き込んだ。誰もいなかった。
 良かった。佐原君には電話で言う。保健室の中に入り電気をつけた。
 手前に置かれている体重や身長の測定器の前を通り、多少かかっているカーテンの中を覗き込む。
 二つのベッドにも誰もいなかった。デスクの奥の戸棚は開けようとしても閉まっていた。当然ですね……。
 白いタオルはその横のカゴに積んであった。手に取り、顔に当てる。窓の横の大きな鏡の前に自分を映した。
 左の頬から首にかけて泥水がこびりついていた。タオルも茶色かった。身体の震えがまた足元から来た。
 田村さんのニコリとした完璧な笑顔や、半月だらけの顔と顔が頭を巡る。さっきの会話を思い出していた。
 ――雨漏りのために置いていたバケツを持ってきました。
 ――あら、そうなの。
 先生は分かっていても見て見ぬふりでしたか。泥水を避けられもしなかったから笑われていましたか。
 唇を噛み締め、タオルを顔に当てた。泣くな。絶対にここで泣くな。これ以上、自分を嫌いになりたくない。
 私が悪い。ちゃんと自分の立場は分かっていたのに。お花見の会で喧嘩を売って、佐原君が好きだと叫んだ。
 楽しみたい、もう少しだけとか……。昨日なんか誰に見られてもいいなんて思った。
 タオルを新しく貰い、清潔な面に顔を抑え込んだ。もうあんな思いはしたくない。二度と絶対に嫌なのに。
 涙をタオルで抑え込み、頬から首をごしごしとこする。平気だ。彼女たちの要求はひとつなのだから……。
 今なら傷つきまでしない。平気だって頑張れる。どうしようもなくもてる佐原君が私を気にすることはない。
 私は頑張れる。佐原君の足手まといにならないように学級委員をやって、アイドルさんとして見つめていられればいいのだから。本当にそれだけでよかったのだから。
 制服の左側も強くこすった。泥を取り去り、濡れているだけにすれば、雨は降り続いているから分からない。
 リュックを灰色の机の上にドサリと置いた。背負っていたことなど忘れました。水色が汚れました。
 足音に反射的に振り向いた。早くしないとまた誰か来るかもしれない。跳ねた泥を落とし切りませんと。
 タオルをあまり使って、後で犯人捜しをされたら困る。でも、置いても行けない。二枚のタオルは貰っていくしかない。たたみ直し、鏡を見直した。ポニーテールの髪の毛には飛び跳ねていないようだ。顔から下を見直し、
 こんなことで傷つかない。もっと苦しい時もあった。どうってことない。今まで通りにやっていける。元に戻るだけ。何度も自分自身に言い聞かせた。

 今日はひとりで帰って、自分の部屋で休んで、明日の朝にでも言おうとしたのに無理だった。
 佐原君は下駄箱によりかかって携帯電話を打ちながら待っていた。私が歩いていくとすぐに起き上がった。
「具合は平気?」
 眉間にしわを寄せて心配そうに聞かれる。うなずいた。
「磯さんは待っていたけど、大村と帰って貰った。送る」
 真面目な顔で言われる。声が出ない。廊下から木の踏み台の前に降りると、ローファーを前に置かれた。
「ごめん。サトコが遅いから、確認をしただけだよ」
 佐原君はいつものように微笑んだ。下駄箱の中はきれいにしておきましたのに。またなにかしたのですか。
 微笑みかけられても返さずに視線を落とし、ローファーを履いた。佐原君は傘立ての方に移動をして、紺色のジャンプ傘の音を立てて広げていた。私はリュックを片方のから折り畳み傘を出した。佐原君の視線を感じながら下駄箱前の軒下に行くと、すぐに話しかけられた。
「バスが来ちゃうよ。顔色が悪い」
 屈んで顔を覗き込まれる。眉間にしわを寄せている。佐原君のことを遠くから気が付かれないようにして、ずっと見て来た。暗い表情は見たことがない。やさしくされるとつらい。
 このまま一緒に帰ってよくない。私はこうしていることより、田村さんたちの標的になりたくないのです。
「今日はここでいいです」
 意識をしなくても、敬語になった。
「距離とか交通費なら気にしないで。肌寒いし、早く行こう」
 傘を肩にかけて微笑まれる。やさしい表情だった。
「サトコ。俺は時刻表をチェックしておいた。次までだと待つよ。今日は土曜日だからね? 聞いている?」
 肩に手を置かれてゆるく揺さぶられる。視界がにじんで来た。なにのせいか分からない。
「熱でもあるの? サトコ?」
 雨が激しくなってきた。身体に水が跳ねる。これでばれる心配はないなんて思っている自分がいる。
「サトコ?」
 また名前を呼びかけられて、グラグラと揺さぶられる。倒れそうだった。下駄箱の中にはまた落書きだらけのゴミでも入れられていたのでしょうに。磯さんも一緒に見ていたのだったら、前のことを言いそうなのに。
 なにも聞いても来ない。心臓が痛くなって来た。後ろから賑やかな男女の話声が聞こえ、視線を落とした。
「マックに寄っていこう」
「どこの?」
「横浜まで出ようよ」
「賛成! 買いたいものもある」
「えー。マックのために?」
「明日は遠足だから買いたいものがあるの!」
「もっと面倒くさい」
 数人が話しながら出て来た。ちらちらと視線をこっちに寄こしながら、傘を指して帰って行く。
 三年生でも顔を知らない。部活帰りの六人ですか。佐原君が手を私の肩に置いたままだから目立っている。
 見知らぬ人たちでも視線が怖い。なにを言われるか分からないと思うと、その場から走って逃げだしたくなる。
 そんな恐怖はいつのまにか忘れていたの。このくらいの痛みは、なんてことない。また忘れられる。
 折り畳み傘の理由も知らない人たちに私の気持ちなんてわからない。視線をあげた。佐原君はさっきと同じような表情をしていた。私だけを見ている瞳。心臓が音を立てて痛むほど跳ねた。
「佐原君、昨日までのことは全部なかったことにして欲しいのです」
「全部?」
「はい……。私が言ったことやキスをしたことも全部、忘れたとなって欲しいのです」
 真っすぐに佐原君を見た。表情を変えずに見返してくる。それを見つめ返した。今は目を逸らしちゃいけない。
「忘れた?」
 佐原君が繰り返して聞いて来たので頷いた。これから忘れる、のではなくて、もう忘れてしまってください。
「なにを言っているのか分からない」
 その悲しそうな顔を見ると言葉が出なくなる。でも、ちゃんと言わないとならない。本気だと思って貰う。
「前に言われたように、私は佐原君のことそんなに好きじゃないのです」
 強くその視線を返していたら、すらすらと用意をしていた言葉が出て来た。
「男の子なら誰でも良かったのです。たまたま佐原君だっただけ」
 じっと見降ろされている。私を怒って。私なんかにそんな風に言われたくないよって、嫌ってしまって。
「ごめんね。もう終わりにしたいのです」
 佐原君が見て来るだけでなにも言わないから、言葉を更に吐き出した。ゆずらない。ぜんぶ。私を嫌って貰う。
「へえ」
 にやりと笑った。鈴木君に笑いかけた時のように。
「面白いね」
 捕まれていた肩の手に力が入った。痛いと抗議をしたかったけど、我慢をした。
「そんなに好きでもない奴とキスもするし、告白みたいなのもする。これもなにかの刑なの?」
「そ、そんなものよ」
 笑っている顔に言葉を吐き出すと、片腕を引っ張られた。バランスを失い、後ろの壁に身体が叩きつけられた。
「いたっ」
 乱暴に顎(あご)を手のひらで抑えられる。握りしめていた折り畳み傘が手から落ちた。広げた口から一気に生ぬるいものが入って来た。
「んや」
 舌なんていれないで。気持ちが悪い。
 佐原君の舌は、私の口の中を動き回った。閉じようとしても、舌を避けてもムダだった。捉えられて絡みつけられた。頭と片腕を強く固定されている。動く方の手で佐原君の腕を下ろそうとする。びくともしない。
 壁にぶつかった身体が痛い。疲れ切っていて抵抗が出来ない。舌はどんどん奥に入って来る。
 どうして……。佐原君の考えていることなんかもう分からなくていい。身体が固まってしまって動けない。
 目を強く閉じてなにも考えないように念じた。泣きたい。泣いちゃダメ。力任せに捕まれたところがズキズキと滲んで痛くかった。唇から口の中をわけが分からないくらいに舌で舐め回される。嫌でも熱を感じた。
 身体中が細かく震えた。足に力が入らなくなる。両手で抱きしめられる。ダメだ。立ち続けなくちゃ。ダメ。
 頭を左右に振ってもちっとも動いていない。背に壁がなくなり、足元が浮きそうだ。片手で佐原君の腕を下に押し続けた。私の力で動くわけがなくても、解こうとするのをやめなかった。ダメ……。何度も言い聞かせ、懸命に立っていても、頭の中が考え続けるのを拒否する。両手で抱きしめられた側に体重をかけてしまいたくなる。
 このまま……。頭の中のモヤモヤがなくなり、目を閉じて思考回路の遮断をしていても、涙が出てしまいそうだ。感じていると、はっきりする。
 力が緩んだ。舌が後ろに下がり、唇が少し離れて行った。
「やだって言って」
「関係ない」
 悲しそうな顔でかすれた声を出さないで。その表情は苦手だ。ずるい。また唇が重ねられた。動けない私の両腕にかぶせるようにして両手で痛く抱きしめられる。口を閉じていても、顎を痛く下に引っ張られ、舌が中に入って来た。もうやめて……。
 頭に雨の音だけが響く。足が震える。立ち続けていられない。こんな場所で……。どうして誰も来ないの?
 校舎や校庭のどっかから聞こえていた声すら消えている。佐原君、もう私を嫌って帰ってしまって。顎も腕もでも身体も心も。ぜんぶが痛い。
「んーっ!」
 抵抗し続けていた手首をひねられ、背中に回された。嫌だ。抱き返しなんかしない。痛すぎる。息が苦しい。
 もう呼吸ができない。顎を抑えられていた手で頭を抱えられ、片方の腕が離れ、乱暴にスカートを捲った。
 あっ、と声が出そうになった。やめて! なんでここまでするの? もういいでしょう!
 手の動きを手で追って抑えようとする。どれもムダな抵抗もいいところだ。自分でも分かっている。手は払いのけられ、太股(ふともも)を下へと撫で漁って行く。股の間に入り、上下しながらガードルの上に達する。
 やめて! 声にならない声を叫んだ。恥ずかしくて気持ちが悪い。キスも痛くされ続ける。涙が頬を伝うのが分かった。

ページのトップへ戻る