曖昧ゾーン (26)

第八話 - 3 頁


 お昼前にやっと解散になった。三時間も会合をしていた。学級委員がこんなに大変だと知りませんでした。
「鵜飼さん、マックで食べて帰る?」
 階段を下りながら磯さんに聞かれる。斜めがけの小さい鞄が腰で揺れている。相変わらず荷物が少ない。
「疲れてしまいました」
 少し手すりに寄りかかりたいくらいです。あ、また敬語で話してしまいました。
 井野さんが顧問に許可を取るから交流のために食べて帰ろうと言い出した。はっきり言って迷惑です。
「男子の作業を手伝って帰った方がいいよねー」
 頷きます。後から来た顧問のまとめによれば、学級委員の男子たちは全体が資料室で、各学年の遠足のしおりや配布プリントの仕分作業けがあるとのことだった。女子の特権で先に帰れますのに、食べて帰るのは感じが悪いです。みんなお腹が空いているのは分かっています。気が向いた男子は後から加わる予定も気が重いです。
「大村君は行かないと言っていたけど、佐原君は行くよね」
 磯さんの後ろで立ち止まった。そうでしょうか? 後から加わりまでしない気がします。
 今までは違ったのでしょうか……。田村さんなら行くでしょうし、佐原君も後から来てね、と誘うでしょう。
 生徒副会長の誘いを下級生が断わっているように見えませんでした。ため息がまた出そうになったのをこらえ、階段を速足で降り切った。考えるのをやめましょう。
「鍵を返すのだったよね?」
 廊下で立ち止まり、磯さんに振り返ってコクリと頷かれる。前に佐原君とも放課後にこの辺りの壁側に寄って話していました。五分くらいだったはずでも長い時間に感じました。ずいぶん前の記憶のようです。
「あっ。数学のノートをまだ提出していないの。安達先生いるかな?」
「うちの担任は朝に会って、ノートを出し直せと言われたから、数学クラブが終わっていれば……」
 秀美と公香が相手でないと、普通の話し方が分からなくなります。妹といる時もどうだったか思い出せません。
「だったら受け取ってくれるかな」
 ユウウツそうに斜めがけのバックから二つに折りたたんだ紙を出している。
「ルーズリーフを束ねて出すなと前に言っていたかと……」
「でも、これに書いちゃったから。移す時間までないし、クリップで止めて置いてくる。鵜飼さんは職員室に用がないの?」
「今はないです。お手洗いに寄ります」
「下駄箱で合流をしよう。井野さんと合いそうもないし、疲れちゃったから断わる方向で!」
 笑って言う磯さんに微笑み返した。三年の代表のペアの磯さんが最後に鍵を閉めていたから他の人は移動した。
 下駄箱の手前にあるお手洗いに向かって歩く。この前、数学のノートは新しいのを提出した。
 ノートや下駄箱にあそこまで落書きをすると誤魔化しが聞かなくなると思わないのでしょうか? 私が先生や親に言いつけなさそうでしょうけども、今朝のように他の人も見ると別問題です。ばれても怖くありませんか。
「えー! でもでも!」
 生徒会の二年生の子たちが職員室の前で磯さんと話しているのが目に入った。マックに行くかどうか聞いていそうです。高木さんも映画鑑賞クラブだと言っていましたね。田村さんたちと同じですね。佐原君のファンであり、似たタイプにも見えます。今日の彼女たちの視線は気になりました。睨まれるのでもなく笑われていました。
 これからを考えると気が重いです。お手洗いのドアを開けて中に入った。
 家に帰ると、また小言を聞かされそうでもあったのでした。みんなバカバカしいです……。
 息を吐いて個室から出た。考える間もなく、大きな音がして身体に衝撃を受けた。
 顔に手をあてると濡れていた。
 青いバケツが床を転がる。水をかけられたと分かる。目と目がぶつかった。
「あなた、邪魔なの」
 田村さんがはっきりと言っている。メイクをして長い髪を下ろしている。誰か分かりませんでした。
 セーラー服の袖で顔を拭く。田村さんを睨みつけた。待っていましたとでも言いたげに微笑み返された。その後ろにいるのは、いつも一緒の佐原君のファンクラブの人たち四人組だけではなかった。さっき廊下にいた生徒会の二年生の三人組がいた。
「佐原君と別れてよ。私のものだったの。ちょっとケンカをしていただけなの。意味は分かるでしょ」
 ええ……。佐原君の言い方を真似しているのも分かります。多勢に無勢(たぜいにぶぜい)は卑怯です。そう叫べない。視線すらあげられない。田村さんは隣の子から他のバケツを受け取っている。ひとつでないことに感心します。
「もう一度だけ言ってあげるよ。私の佐原君と別れて」
 バケツを手前に持ち直して持ち、ニコリとされた。床に水滴が跳ねる。ただの水ではない。泥水だった。
「いいよ」
 私は即答した。田村さんを中心にして三角形に立っている。左右にいるのは、購買で見た子とお弁当を食べる場所の陣取りをしていた子だ。まるでそれが力関係のようです。
「え?」
「いいよって言ったの」
 田村さんは私を見ず、左右の仲間を見ている。後ろもお互いを見合っている。集団でしか動けない。許せない。
「信じられないと言ったら?」
 また田村さんは笑いかけてくる。二年生たちも生徒会室で私を見て笑っていた時と同じ笑みを浮かべている。
 空気が動くたび、お互いの目を見合い、ターゲットの確認に送る視線。面白がっているようにしか見えない。
「私は明日までに別れると佐原君に言います。そちらが仲直りをしてください。嫌がらせの行為は二度としないでください。学級委員の仕事までさぼれませんし、担任にも言わないと思ったら違います。出してください」
 リュックの肩紐を両手で握りしめた。田村さんを睨み続けていた。目を逸らしたら、バケツの中身をぶちまけられるくらいで済むように見えない。いくら女子の集団でも七人を相手に勝てる力など持っていない。携帯電話をリュックのポケットから出しても、どこにかけていいのか……。
 職員室がすぐ傍だ。大声をあげれば教師は来る。それが分からないほどバカな人たちじゃない。
「でも……」
「田村さん! くだらないです!」
 隣の兵隊が何かを言う前に叫んだ。あらゆる力を込めて叫んだ。
「もう一度だけ言います。退いてください」
 スカートの裾を片手でぐっと握りしめる。私が携帯電話をどこに入れているかまで知っているわけがない。
 声を発した方の女子の脇を歩いた。膝が震えた。それを読まれたかのように腕を捕まれた。
「ダメよ。信じられるわけがないわ」
 田村さんが前に出て来ていた。腕をひねられ、叫ばれる。
「オオバカの鵜飼が。いい気になりやがって!」
 目が合った。口を開いて笑われる。やっぱり知っていた。来る。腕を折り曲げて顔をガードした。
「あなたたち、邪魔よ。なにをしているの?」
 大人の女性の声がした。強く捕まえていた腕を放される。ジンジンする。なんて力がある人だろう。
「……あ、ほのか先生。雨漏りのために置いていたバケツを片付けようとしていました」
 田村さんは斜めに振り返り、コロッと笑顔になっている。
「下駄箱の辺に置いていたら危ないと思って」
「私たちも学級委員の仕事を手伝って帰ることにしました」
 他の人たちが口々に我先にと続けている。
「あら、そうなの。でも、男性教師が回っているから。バケツの中身をここで流して備品室に戻してくれる?」
「はあい」
「勝手なことをしてすみませんでした」
 副担任はあっさり騙された。田村さんはまたにっこりとこっちを見て来た。分かっているよね? の顔だ。
 頷いて視線を逸らした。こんな力のない教師に告げ口をしても、優秀な田村さんの主張で揉み消されるでしょう。
 膝どころか身体全体が震えていた。前の三人以外の女子たちは教師と話をしながら、情けない姿とでも言いたげに私を眺めて見合い、後ろの方の人たちはお互いを見合い、私の肩を持ち上げる癖や震え方を真似ていた。
 全員が同じように目や口に月型のアーチを描かせ笑っていた。視界がグルグルとして来た。ここでふらついたらダメだ。視線を落とす。足元に力を入れる。二年生の笑いは視界の隅に追いやり、その脇を通り、廊下に出た。
 誰もいなかった。お手洗いの中では、副担任を中心に雨漏り談義をしているらしかった。
 小池先生は、ほのかなんて名前でしたか。そんなことを思っている場合ではありませんのに。
 身体の震えが止まらない。早く歩けない。また囲まれたらやられるだけだ。でも、追ってこない。ホッとした。
 廊下の小窓からは激しい音が降り続いていた。下駄箱に向かおうとして立ち止まる。磯さんと待ち合わせをしたことを思い出した。もう帰ってしまったかもしれません。時間が経ちました。まだ連絡先も知りません。
 廊下にボトボトと水滴が落ちた。土色だ。後ろから甲高い笑い声がしてビクリとした。
 田村さんたちが出て来る。このまま帰れない……。

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