曖昧ゾーン (18)

第六話 新しい日常


 月曜日になった。いつも通りに早く登校したら、お約束のように下駄箱の中の上履きがなかった。
 その代わりメモ用紙が入っていた。乱雑なマジック文字。予想通りです。一枚ならカワイイものです。傘立てが並ぶ出入り口付近に行って、破ってゴミ箱に捨てた。読んでいない。気にすることじゃない。言い聞かせる。 登校をして来た同じ学年の生徒たちと目を合わさないようにして外に出た。図書館棟まで行って購買で新しい上履きを買った。階段をあがり、教室のドアの前で深呼吸をした。勢いよくドアを開ける。誰もいなかった。
 重いリュックを机の上におろし、自分の席に座る。クラスの人たちはまだ登校をしていない。別のクラスですか。ほっとした。ため息をつく。机に教科書を数冊出していれようとしてなにかにぶつかる。あ、ノートを忘れて言っていました。中から取り出した。
 うわあ!
 思わずノートを放り投げた。私の文字の上にマジックの乱暴な文字が走っている。なにのノートですか? わざわざ開いて入れておいてくれましたか。
 屈んで机の中を見る。数学のノートを置き忘れてしまっただけだ。こっちにメモ用紙が入っていない。
 ノートに散々に書き殴ったのに、下駄箱にメモ用紙まで残す必要はないでしょう。そんな主張が通じませんか。
 人が来る。慌ててノートを閉じて机の中にしまった。心臓がうるさく鳴った。両手を握る。大丈夫……。
 クラスの男子の後に田村さんたちが入って来た。机の上に残っていた教科書も慌ててしまい、参考書を広げる。
 三人がお揃いだ。彼女たちは賑やかに就職活動について話していた。今度の金曜日の見学会がどうたらと。前を通り過ぎる時、私のほうを見てもいなかった。関係がなさそうです。でも、佐原君のファンの人たちでなかったら……。誰の仕業(しわざ)だというのでしょう。
 引き戸が開け閉めされ、次々とクラスメイトがけたたましく入って来る。暗記用の英単語の参考書を広げても、横文字としてしか頭に入って来ない。この席が嫌いです。端だからいいと思ったのに落ち着きません。
 先に来た人たちが会話をふり、教室じゅうで金曜日のことを話しているようだった。今日に限って朝が長い。秀美や公香も登校してこない。水色のペンケースを開ける。シャーペンシルと消しゴムとマーカーを取り出した。
 なにをしているのかわからない。なにもわかりたくない。
「サトコ、おはよう」
 公香に笑顔で声をかけられてホッとする。後から入って来た秀美がなにか言いたそうに見て来た。
「鵜飼さんたち、おはよう」
「お、おはよう」
 またどもってしまった。佐原君の笑顔に笑顔をうまく返せた自信がない。
「朝から勉強?」
 佐原君は笑顔で見下ろして来た。頷き返す。気にした様子はない。たいしたことはないのです。周囲の視線を感じる。単にこっちを見ているだけかもしれないのに。どうしても怖いものに思ってしまう。知られたくない。
「今日のお昼に学食で食べる?」
 佐原君が秀美や公香の横に加わるようにして話しかけて来る。後ろで山本ケンゴ君が携帯電話を打っている。
「でも、お弁当を持って来ちゃったから……」
 私の前で移動する? とでも言いたげに見下ろして来る公香を見上げると頷いていた。そこにいてください。
「あまり学食に来ないよね。どうして?」
 佐原君は無邪気な人だと全く思わないのに、もう言いました、と返したくなる質問をして来ることが多い。
「お、お弁当くらいちゃんと作れるようになれってお母さんがうるさいから」
「え! 一緒に作ってくれるの? うちなんかひとりで作らされるよ」
 公香が合わせてくれた。本当に驚いているらしい。うちの場合、キッチンが狭いので別々に調理ができないのです。母は一緒に作ってくれるイメージとは異なります。隣に立って厳しく文句を言い続けます。
「手作り弁当いいなあ」
 山本ケンゴ君がボソリと言って、佐原君を羨ましそうに見ている。私が佐原君の分までお弁当を作って来たことにしないでください。
「自分たちの分しか作って来ていないです」
 謝るべきですか? でも今日のお昼を一緒に食べると決めていませんでしたし、私が二人分も作れそうもないでしょう。
「いつも教室で食べている?」
「う、裏庭が多い」
 秀美は公香の後ろでうつむいている。笑顔がない。暗い表情に見える。珍しく黙っている。今まで気が付かなかったけど、男子と話すのが苦手なのかなあ。
「分かった。そうしよう。遠足の班決めのプリントも書いて出してしまわないとならないから考えておいてね」
「えー。学食じゃないわけ?」
「パンでもいいでしょう。俺は購買ってあまり行かない。どうして?」
「知るかよ! 自分は握り飯を持って来ているのだろ」
「まあそうだけど、学食でも食べられたよ。朝からイライラしすぎ」
「今日の昼は、佐原の奢りね!」
「パンならいいよ。飲み物もつけてあげる」
「うれしくねえ!」
 アハハ。言い合いながら歩いて行く。佐原君はいつもより明るく見える。山本ケンゴ君といる時は特に楽しそうです。
「なにを考えておくの?」
 公香に聞かれる。普段なら秀美がすぐに聞く。そんな風に思ってしまうのは間違っています。
「卒業遠足の班は八人までだから。食事の話から班決めになってね、勝手に勧めてしまったようだけど」
「私は六人でいいよ」
 秀美が答えて微笑みかけてくれた。公香が頷き返して席に移動をしていく。なにも聞かれずほっとした。
 佐原君はプリントを黒板に書き写している。班決めを今日中に出すようにと担任から伝達がありましたか。
 朝早く来ると、校門の辺に先生もいないのだけは快適です。今は立ち上がりたくない。お任せしてもいいですか? 後でお礼を言えば、佐原君なら自分だけで間に合うと思ったから声を掛けなかったと返してくれそうです。
 そんな風に甘えても良いのでしょうか? 学級委員の仕事は別と捉えるべきですか? また真面目すぎと言われそうです。彼氏ができるとみんな同じように悩んでいますか?
 参考書を見下ろす。両手に持って広げたままなのを忘れていました。マジック文字の言葉が頭からこびりついて離れない。私は見ていない。そう決めたのだから……。気にすることはない。いつも通りにしていよう。このくらいの問題はひとりで解決ができる。
 チョークを置いた佐原君が斜めに振り返る。微笑んで頷かれる。なにか言いたそうに見て来る。頷き返す前にケンゴ君に声をかけられ、中央で黒板を見ながら話していた男子の輪の方に加わってしまった。私はいつもこうです。でも、今は話しかける勇気がないです。もう少し時間をください。
 ――なんでそんなことするの? 私の問題とか言われたら、引っぱたいていた。
 この前のコンビニの辺でやさしく佐原君に言われた台詞が浮かんで消えて行った。

 快晴の裏庭はカップルだらけだった。こんなに付き合っている人たちはうちの学校にいましたか。生徒会長と副会長もいた。白い桜が咲く木はまだ散らずに残っていて、その下でお花見のようにしておにぎりを食べていた。井野さんと目が合いそうになって先に視線をそらしてしまった。
 その白い花びらの桜の奥にあるテーブルがちょうどひとつだけ空いていた。四角い木のベンチが四角いテーブルの左右に置かれているだけだけど、旧校舎の軒下に四つだけあって日光が照りつけて来ないし、奥で目立たないしちょうどいい。三年生になったら気楽に使えるようになった。
 最高学年になる前は、天然記念物の桜の木の手前にある花壇の辺に座り、三人で食べていた。桜が見られるように同じ木製のベンチが並んでいる。商店街の有志の人たちで作ってくれたと秀美や公香とはじめに座った頃に教えて貰った。
 そこの席が取れなかったら色とりどりの花が植わっているレンガに並んで座って食べていた。生徒会長たちのようにレジャーシートまで持って来て敷いていなかった。カップルでもないのに目立ち過ぎます。
 私たちは……。三人とも学校生活を平穏に送ることを重視している。ドラマに出て来るような高校生っぽいことをして楽しく過ごしたいと思っているけど、周りから変に目をつけられたくないところは同じだった。
 公香に肘で肘をつつかれる。斜めに目が合った。分かっています。永岡君がいません。だから向こうで秀美は黙ってしまっているのです。いえ、秀美の鋭い視線の先を想像しますと、どうしたのか聞きたくて、前を歩いている佐原君と山本君を見ているのでしょう。
 お昼休みになって机を片付けて振り返ると、佐原君たちが見当たらなかった。私の席の周りに集まってどうするか話していた。佐原君だけ教室に戻って来て声をかけてくれた。購買でパンや飲み物を買って来たそうだった。
 私たちはお弁当箱とタンブラーが入った手提げ袋を下げて教室を出て来た。山本君が退屈そうに下駄箱に寄りかかり、片耳にイヤホンをしてリズムを足で刻みながら待っていた。私たちに気が付くと、「購買のパンかよ」と愚痴り、佐原君が「しついこいよ」と冷静に返していた。
 それ以降、話していない。緊張をしていると思っていないのですけど、なにを話していいのか分からない……。
 佐原君とケンゴ君も特に話していない。並んで前を歩いている。二人は同じ紺色のエコバックを下げていた。前に購買で売っているのを見た気がした。ケンゴ君が見上げると、佐原君も同じ方向に目をやった。同じように斜めに見上げると、別館の屋上の柵から大村君が乗り出して手を振っているのが見えた。細長いパンを口にくわえて笑っていた。
 あんなことをするのですか。二人は両手を振り返していた。羨ましくなるほど自然だった。
「お腹が空いた。永岡、他の奴らと食べる約束をしたって来なかった。遠足の班は誘っておいた」
 佐原君が言っている。二人は迷わず先に座り、エコバックからおにぎりとお茶のペットボトルを出している。
「あいつ付き合いが悪いから。合コンみたい」
 通路側の私の斜め前に座ったケンゴ君が返している。会話になにも返せない。歩いて来た順番通り秀美が一番奥に座った。秀美が喋らないと隣の公香も端にいる私も普段から話すタイプではない。
「みんなで食べる?」
 なにかの袋を取り出して佐原君に聞かれる。ポテトチップスを買って来てくれた。ミカンジュースをまたくれた。私だけにジュースを買って来るのもどうなのだろうって考えてくれた。自然に笑って頷けた。
「フトバさんだった? 俺はポッキーにしてあげた」
 ケンゴ君は目の前の公香に笑顔で言って睨まれている。親友代表はこちらの諸事情が分かっているかのように、奥に席を詰めて秀美の前に座らず、中央に座っていた。
「私は大場公香。隣が太田秀美。付き合っているのは、サトコと佐原君だけだから」
 きつい言い方に顔をあげる。佐原君はホイルを開けておにぎりを出している。三つも持って来たのですね。コロッケとサラダは買って来ている。細身なのにたくさん食べるなあ。中心の二人の見合いを気にしている様子はない。この手の視線に鈍いのは分かりました。
「頂きます」
 呟くと、佐原君にふっと笑い返された。昨日まで敬語で話してしまう私を睨んでいたのに、微笑んでくれるようになった。そのやさしい感じにすごくホッとする。
「お、コロッケサンドってうまい。永岡も屋上にいると言っていなかった?」
 山本君がサンドイッチを頬張りながら聞いている。おにぎりを食べている佐原君に肩をぶつけている。
「どうかしたの?」
 山本君が隣から覗き込んでいる。そっと佐原君を見た。長い前髪が顔にかかって表情を隠している。
「別に」
 なんだろう。佐原君はたまに今みたいな顔をする。なにか言いたそうな、だけど聞いて欲しくなさそうな、人をどこか敬遠しているような……。
「永岡に話があった?」
 いつもと変わらない表情で聞かれる。考えすぎ、また言われてしまいそうです。
「え、遠足の話をしたかっただけだから……」
「でも班行動の自由時間は江ノ島の中だけだからね」
 笑いかけられて慌てて頷いた。佐原君はいつも先回りをして会話を進めてくれる。
「江ノ島に着けば自由行動?」
「今その説明をしようとしていた」
「で、でも揃っていないから」
 頑張って言った。佐原君が「そっか」と呟いて頷きながら食べている。会話ってこういうことだ。今更に思う。
「だからさ、屋上に行けば済んだ話じゃねえ?」
「俺は屋上にいると聞いていなかった。大村が手を振ってくれたのは、親友代表さんに対してでしょう?」
「えー。大村を加えた覚えがねえ」
「永岡の方が親友と紹介すると違うでしょ」
「紹介するほどの男かよ」
「いつから言葉遊びが好きになった? 俺が代表になるべきでしょ」
「なんでも佐原が代表になれると思うなよ。三人の班なのだから永岡も親友に入れてやれよ」
「仕方がないなあ。本来の僕は呼び方に拘る方だよ」
「どうで本来だよ」
 笑い合っている。仲がいいなあ。二人が同じクラスになれて良かった。しみじみと思う私は変でしょうか。
 今、佐原君とこうして向き合って座っていられるのが夢みたいです。同じ学年ごとに使用している廊下で何度もすれ違って来た。でも、目が合うどころか、前と後ろを偶然に歩くだけでも考えられなかった。
 少し前の私がこんな場面を想像してみたこともなかった。学級委員のくじ引きが現状を変えてくれた。
 秀美や公香以外の男子と待ち合せて、お昼休みに同じテーブルを囲んで座って、遠足の自由行動をどうするかなんて話をしている。あり得なかった。みんなとわたしが一緒に笑い合えている。それだけでうれしい。
「遠足のプリントはみんな読んだ? それぞれ行きたいところをあげて行こう。俺は展望台に登りたい」
 佐原君に弱く笑いかけられた。親友代表さん。私をからかってくれた……。
「それって他も面白い? 水族館が人気じゃねえ?」
「どっちも回れるでしょ。でも、水族館を見ちゃうと他まで回る時間がないと思うよ」
「だな!」
 二人で話している。会話に入っていけない。ううん、ずっと聞き役の方がいい。うまく笑い返せない。
 佐原君に気にすることはないよ、というように笑い返された。ポテトチップスの袋を平たく開けて中央に置いている。そのさわやかで面白いことを探しているような笑い方が好きです。佐原君の存在が私にあたたかい気持ちをくれたみたいに、私もなにか返してあげられたらいいのに。
 もっと明るい感じで、佐原君の言葉にすぐに返せたらいいのに。うまくなくても、軽い感じで動ける自分になれたらいいのに。そう思っていることだけでも伝えられたら、佐原君がなにか言いたそうに見えることも聞けそうな気がするのに。本気でそう思っているのに、色々な理由をつけて試みてもいない。逃げ腰な自分がいる。
「食べて? しけっちゃうから」
 佐原君に軽く会釈をして、ポテトチップスの一枚を取ってかじる。同時だった。塩辛い味に二人で笑う。
「はいはいはい」
「親友代表さん、うるさいからさあ」
 公香が言っている。いつもだったら秀美が言いそうな台詞です。
「佐原だけでなく山本ケンゴも覚えて。遠足の班長くらいやれる」
「私たち本当に名前を覚えていなかった」
「知っている!」
 ケンゴ君と公香も笑っている。こんな贅沢な時間があっていいのだろうか。高校生活は残り一年を切った。ここまでで充分だ。これ以上、何事もなくていいから、ありきたりな毎日でいいから、平和に過ぎて欲しい。

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