曖昧ゾーン (17)

第五話 - 3 頁


 洋服を決められず、お花見の時と大差ない恰好に着替えて妹の部屋に入る。勉強会は既に始まっていた。
「そこは当てはめている公式が違う。なにを回答させたいのかを考えないと。分かる?」
 佐原君は中央の低いテーブルに加わって話していた。キッチンに積んであるダンボール箱から人数分を抱えて持ってきたペットボトルと、文房具を床に置いて端に座った。
「公式を省かず書かないと違うということですよね?」
 モトコの彼氏候補が聞いている。
「そう。答えだけあっていても一点しか貰えないかもしれない。次の問題はあっている。課題の英語を出して」
「答えを見なくても回答が分かるのですね」
 二人は驚いた顔で佐原君を見上げている。佐原君は笑顔で頷いている。隣の黒ぶち眼鏡君、なにか言うべきでしょう。
「すごい! 学年首席」
「僕は学年三位。首席になったことまでないよ」
 佐原君がモトコに嫌そうに言っている。下から持って来た生茶のペットボトルをテーブルに置いた。
「モトコ、英語だけの約束でしょう。数学から聞かないでください」
 目が合った時にはっきり言った。横目で見られても強く睨み返します。あなたの脅しは二度と聞きません。妹として間違っていますし、両親に言うからって、男二人を連れ込んだ自分の方の歩が悪いのを分かりなさい。
「あ、彼氏をお持ちの方は余裕だね。姉がご迷惑をおかけしています」
 満面の笑みを浮かべて斜め前の佐原君に頭を下げている。姉に彼氏ができたらむかつきましたか。妹が嫌いになりそうだ。
「サトコに迷惑をかけられていないよ。のんびりやっていると、長文読解が五時までに終わらないよ。はっきり言わせて貰うけど、この二人は飲み込みが悪いから」
「げー! 私には頭がいいと言っていたのに。なんて奴」
 彼氏候補はへらへらと笑ってシャーペンシルを回している。隣の黒ぶち眼鏡は頷いて問題を解いている。やはりなにも言いませんか。佐原君には自己紹介くらいお二人はしたのですか。そう見えない。私が言うべきです。
「無駄話が多いです。佐原君に迷惑をかけないでください。頼んで勉強を見て貰っているのです」
「分かりました。こういうお話は後にします。ごめんなさい。お姉様と彼氏さん」
 妹はコロッと態度を変えて私と佐原君を見て頭を下げている。彼氏候補とその親友の態度は変わらない。
「うん。そんなに気にしないで。英語の問題を解いたら終わりね」
 真面目な表情だった佐原君が笑って、みんながほっとして笑い返しているのが分かった。
 うわあ……。そんなにあっさり彼氏だと学校でも認めないでください。ファンクラブの認識もないのですか。
 大村君や永岡君が女子たちのことを話題にしそうもないです。親友代表の方は情報通に見えましたのに。
 佐原君はさっき私が解けなかった英語の読解問題の長文を読んでいる。佐原君がうちにいる。今更に実感する。
 正座から体育座りに格好を変える。固いものが当たった。ポケットの上を握り締める。
 走り捲って桜の記念公園に行った日。買って来たキーホルダー。今日の帰りに絶対に渡そう。ありがとうの気持ちをちゃんと伝えよう。佐原君のことを本当に好きにまでなれないかもしれなくても、好きだから……。

 帰りの駅までの道のりは暗くなってしまっていた。
「つ、疲れたでしょう」
 佐原君は前をゆっくり歩きながらやさしい声で答えてくれた。
「ううん。三問だけだったからもっと早く終わると思ったのに、あの二人の頭が悪い。うちの学校に入りたいなら、あの程度の問題の解き方はすぐ分からないと無理だよ。かんたんで逆に教えにくかった?」
 え、数学は二問も解いて貰ったのですか。うちに合格しないレベル? どう見ても難しい問題でした。
「私には分からなかった。受験の頃は必死だったから解けたのだと思う」
「そっか」
 頷きながら角を曲がっている。私は佐原君が考えているよりも、恐ろしくバカな子だと思って頂けますか。
 駅からうちまでの道のりはここ以外に曲がらない。でも新興住宅街をあちこちに作っているこの街は、工事のたびに道を繋ぎ合わせているから真っ直ぐに続いていない。ここから道なりに直進をすると私が説明をした間の道にも細道はある。テストのように考えるなら、要はそこの道を曲がるまでは、バス通りを歩けばいいのです。私だったら一回駅から来ただけで、この道のりを覚えるのはムリです。話しながら歩いていましたし、景色も似ていて覚えられません。
「ここでいいよ。バス停まで来れば難しくないし、暗くなった」
 腕時計を見ながら言っている。一緒に黒い盤を覗き込むようにして見てしまった。金色の張りが渋く光っている。お洒落な腕時計です。五時半になるところだ。
「企業見学会について話すために呼ばれたのかと思った」
 視線をあげると真面目な顔で見返される。朝から私が考えていたことは……。
「卒業遠足の班では」
「班決めは六人って約束した。今度、みんなでお昼に話そう。企業見学会は金曜日だよ」
 いつ約束をしましたか? そのうち一緒に学食で食べようと言ってくれたのです。そう取ってもくれましたか。
「サトコは進路に悩んでいるの?」
「私の希望は公務員」
「同じ」
「カメラのお仕事かと」
「無理だよ。サトコは俺を買いかぶりすぎ。学年も三位止まり」
 笑っている。それを覚えておく必要はないと思います。
「電話でうまく話せなかった。今日はありがとう。見苦しいところを失礼しました」
 軽くお辞儀をする。また敬語を使ってしまいました。
「丁寧にするのがサトコの家の方針なのは分かった。妹さんとも似たように話すのなら気にしなくていいよ。いつもああいう風に言い合っている?」
 面白そうに見下ろされてしまった。妹は嫌がらせに敬語で言い返していただけです。両親は口うるさいですが、我が家の方針として語り合っていると思えません。
「妹は……。私がなにか頼むとすぐなにくれる? の刑が始まるから、いつもああと言えばああなのかなあ」
「なにの刑?」
「この前はパステルのプリンと言われました」
「あー。俺もサトコに頼み事をされたらなにくれる? にしていい?」
「そ、それだけはいい。もうムリ」
 色んな意味で……。私はなにを口走っていますか。でも、妹が私のいない時、佐原君のようなナイスガイには好き勝手に言いそうだとも考えましょう。
「俺も普通におねだりをするよ」
 アハハと笑っていらっしゃいますが、とんでもないことを言い出しそうです。
「夏には就職活動が本番になるよ。そろそろエンジンをかけて行かないと。俺は不動産や建築関係の仕事ができればいいと考えている。サトコは?」
 真剣な目に吸い寄せられるように見上げていた。首を振る。そこまで決められていない。
「窓口業務がいいと漠然と考えているだけで……」
 公務員のどの仕事よりも一番イメージしやすい。でも、こんな風に喋れず、社交性もない私がやって行けるのでしょうか。
「見学会前はそんなものでしょ。一緒に回ろう」
「佐原君……」
 頷こうと思ったのに、呟いていた。キスをされる。チュッと音がした。
「なにかあったら連絡をして。また明日」
 笑顔で覗き込んで来る。今度は考えずに頷き返してしまった。手を振って帰って行く。
 佐原君がこっちを見ている間になんとか手を振り返した。いつもの斜め掛けバックをかけ直してちいさくなっていく。水色のシャツ。色がお洒落に抜けたジーンズ。ひとりだと歩くのが早い……。
 見ていた。完全に姿が消え去るまで。高校生活の間、ずっとこんな風に見続けていたい。なにも進まず後退もせず、約束や決まりごとない関係のままでいい。その方が頑張れる。
「怖い……」
 目を伏せ、両手を胸の前で組んだ。すごく怖い。今日と同じ明日が来るなんて絶対に思えなくて怖い。
 佐原君は私の不安を理解してくれた。会話のリードもしてくれている。その気持ちを感じるたびに怖い。
 何度も自分の頭に佐原君のような人はダメだって言い聞かせているのに。分かっていると返しているのに。心は言うことを聞いてくれない。そのうち取り繕うこともできないほどに好きになるのかもしれない。
 いつの間に彼氏、彼女の関係になってしまったの? そんな風に気楽に聞きたい。今日みたいに学校や周囲の視線と関係がない場所で佐原君と一緒にいられたらいいのに。他にこの不安を消す方法がある? なにかあるなら教えて欲しい。
 言えない。聞けないことばかり。こんな気持ち知らなかった。
 足がここから動きたくないと言っている。だって、どうしよう。怖い理由まで言えないのに。絶対に。
 身体のどこかが痛む感覚が消えない。今の幸せな思いも消えない。
 曖昧なままでいられる時間。わがままな望みの時間。伸ばせるだけ伸ばしてもいい? もっと頑張るから。
 佐原君の姿が見えなくなった。息を吐き出して家の中に入り、ドアが後ろで閉まった音を聞く。
 どこまでとりつくろえるのだろう。「また明日」と言った時の佐原君のなんとも言えない笑顔が頭から離れないのに。今、キスをして欲しかった。そう思って名前を呼んだこともばれていたのに。

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