曖昧ゾーン (16)

第五話 - 2 頁


 部屋に戻り、ベッドの上の棚で充電をしていた携帯電話を取る。登録したばかりの電話番号を呼び出した。
 “佐原君”
 ベッドに座り、しばらくその三文字と彼の携帯電話番号を眺めていた。痛かった首元に手を振れる。
 彼がつけたあと……。そう思うだけでドキドキした。壁時計と画面を見比べる。お昼は過ぎた。頑張ってかけましょう。
「はい」
 佐原君はあっという間に出てくれた。今コールは鳴りましたか? はじめの言葉も考える間がなかったです。
「あ、鵜飼です。頼みたいことがあって」
「なに?」
 ホワイ? なんか冷たいです。コンビニの前の一件で怒っているのですか。私も殴って欲しい気もしました。
「えーと」
 まずい。佐原君はお店のお手伝いでもしていたのかもしれない。今思うってないでしょう! どこが聞き時なのでしょう? 秀美が言っていたように日曜日になにしている? と聞くべきでした。妹たちの勉強を見て欲しいと言ったら断わられるかもしれません。でも、私の奥の手なんて他にありません。
「鵜飼さん、今どこにいる?」
「自分のうちですけど、忙しかったら」
「また敬語に戻る」
 ごめんなさい。電話で話す佐原君が怖いです。すぐそう返してしまえばいいのに。忙しかったらかけ直すとも言いそびれました。いつもタイミングを逃す。色んな事を考えているのに。ううん。考えすぎるから……。
「昨日のこと?」
「あ、私、帰り道を説明するだけで精いっぱいで。うちの前でなにを話したのかもよく覚えていなくて」
 ごめんね、と続けてもまた怒られそうだ。鈴木君は走り去って行ったから、その後すぐに追って来るなんてことないだろうけど、やっぱり怖かった。「送ってくれてありがとう」と伝えることしかできなかった。佐原君は笑顔で頷くと、私が玄関に入るまで見守っていてくれた。手を振って帰って行った。
「分かったから平気。そっちに行くよ」
 えっ。そんなに簡単に来てくれちゃうの? 遠いのに。
「だったら迎えに」
「覚えている。駅からの道のりややこしくなかったから。何時頃がいい?」
「うちはいつでも……」
「三時頃には着く。迷ったら電話する。待っていて」
 なにも返せないうちに電話は切れた。携帯電話を見つめて考える。あまり電話が好きな人じゃないのかなあ。
「お姉ちゃん!」
 モトコがまた部屋のドアをバタンと開けて入って来た。
「奥の手ってなになの?」
 それは……。仁王立ちをしている妹を見返していた。にこやかな彼氏候補に必死なのは分かりました。
「うちの学年三位を呼んであげたから」
「ホントに? さすがお姉様。後はパステルのプリンで我慢してあげる」
 頷くと笑顔になり、踊るようにくるりと回りドアを閉めて出て行った。
 “後”とはなにですか? 彼らに出すお菓子ですか。彼氏候補とその親友さんにはペットボトルのお茶しか出していませんでした。キッチンにあるお菓子がまとめてある箱の中は、両親厳選の真面目なお菓子しかない。
 確かにこんなキスマークを母に告げられたら大変だ。でも、男子二人も自分の部屋に入れて良くないでしょう。
 携帯電話を充電器に戻す。佐原君が道に迷いそうもないですけど、ちゃんと充電をしておきませんと。
 我が家の最寄り駅から商店街を抜けて住宅街に入ると目印はない。でも、道なりに直進だ。大きいマンションの傍にバス停がある。そこを曲がると、似た外観の家が並ぶ元新興住宅地だ。うちはその中央と教えたのでした。
 佐原君は手を繋いで隣を歩いてくれていた。「へえ」と聞いてくれていたけど、なにか言いたそうでした。
 ごめんね。昨日のことは忘れてください。私も忘れます。……忘れきるように努力します。
 また首元を手のひらで抑え直し、ベッドに寝転がる。カーテンをちゃんと閉めて寝なかったから、出窓からの陽が眩しい。何時頃がいい? って。すぐ来て貰った方が助かったし、うちに来て欲しいのも分かってくれた。
 ――待っていて。
 他のことなんか考えられなくなりそうなほど威力がある言葉だ。

 日光が顔に当たっている。肌に良くない。日焼けは絶対にしたくない。何時ですか? 朝でないはずです。
「目が覚めたの?」
 その声にガバリと起き上がった。ベッドの上だ。布団もかけていない。あのまま寝ちゃったのですか。
「日曜日はパジャマなの?」
 佐原君の顔が近い。ベッドに斜めに寄りかかり、頭を乗せて座っていた。じっと上目遣いに見て来ている。
 やわらかそうな髪の毛がベッドの上に広がり、目が太陽の光を浴びてグレーだ。私が寝ていた真横にいた……。
「なに?」
「さ、佐原君。な、なんで? モトコは? 妹に会わなかった?」
「会ったよ。サトコの部屋に案内もしてくれた。誘ってくれていないのだろうから、クッションは借りた」
 佐原君はいつものように笑ってくれず、クッションの上で座り直し、不満げに同じ体制でいる。私の部屋はフローリングに低いテーブルを置いていないし、マットレスもない。まだベッドに頭を置いたまま見上げられる。
 誘ってくれていないのだろうから?
「今は何時ですか?」
「だから敬語。俺は予定の時間通りにつきました」
 なになに。ベッドの上に乗って来ないでください。慌ててずれた。隣に座られてやさしく髪を撫でられる。
「長い髪をおろしているのは、はじめてみた」
 真顔で言われる。そうかもしれません。佐原君は私のおろした髪をとかしながら撫で続けた。ブラッシングをしてもいないから絡んでいる。
 佐原君は私の横顔を黙って見て来ている。私にはこういうところがある。言葉を発する前に相手の出方を伺ってしまう。どうしたの? と聞いて貰うのを待ってしまう。佐原君はいつも先に聞いて来てくれていた。
「日曜日でも洋服に着替えている。怒っていないのかと考えていたら寝ちゃって」
「なにを?」
「この前、送ってくれたのに。その」
 ふわりと抱き締められた。
「さはらくっ」
 ベッドの上に佐原君は膝で立つ姿勢になり、その胸に顔を押し付けられる。心臓の音が耳に響く。声が出ない。
「怒っていないよ。電話、うれしかった」
 髪を唇で撫ぜられる。びくびくと反応しそうになるのをこらえ、ふっと笑われ、首元に顔をうずめられる。そこは……。
「サトコはいい匂いがするよね」
「え。わ、わたしなにもつけていないから……」
「うん。だからサトコの匂いだよ」
 どさっという音と共に自分がベッドの上に押し倒された。うわあ、どういう展開ですか。頭がついていかない。
 髪をかき上げられて見上げる。数センチ上の距離に佐原君の顔があった。私が肩の下まで伸ばした髪よりサラサラしている佐原君の髪が顔にかかり、くすぐったくてくしゃみをしそうになった。目を閉じると唇が重なる。
 まるでキスをして欲しいと目を閉じたかのようです。いまはちがうのに。ゆっくりと唇が唇の輪郭をなぞる。
 何度も唇の往復を繰り返される。髪をかき上げた佐原君の手はそのまま固定され、片方の手で私の右手を握り締め、肩の横で肘から折る形で固定された。唇が触れる角度が変わる。お互いの息と唾液が混ざって流れ込む。
 体重が上からかけられ、繋がれた手の指と指をやわらかく交差され、キスをされ続ける。ベッドに身体が埋まっていく。
「……っ」
 声なんか出してはいないのに。なんの音も出してもいないのに。色んな音が聞こえて来る。今の自分の荒い息遣い、佐原君の心臓の音、掠れるシーツや洋服の音。心の奥がムズムズするように痒くて痛くて落ち着かない。
 佐原君の唇が頬に移動をし、首から肩に落ちていく。すごくやさしい動作なのは分かる。対象年齢六歳の私に合わせてくれている。でも、もっと乱暴でいいなんて思う自分がいる。こんなことしたこともないのに……。
 また髪を撫でられて目を開けた。上から見上げている。
「なにを泣いているの」
 そう言われるまで自分の目から涙が出ていることに気が付かなかった。
「うん……」
 繋がれていない左手で目元を抑える。佐原君は片手をベッドに置いたまま見下ろし続けている。
「ごめんね」
 いきなり泣かれたって困るよね。それでも私はどう言ったらいいのか分からない。うまい言葉が思い浮かばないし、涙が止まってもくれない。上からぎゅっと強く抱きしめられた。
「そんなに嫌だった?」
 耳元に声がはっきりと響く。遠くから見ていても好きだった。佐原君の爽やかで少し甘いような声も姿も。
 首を振る。そうじゃない。そうじゃなくて。だって、そういうことじゃなくて。痛い首元に顔をうずめられた。
「怖い。なんだか怖いの。とっても……」
 行為そのものでもなくて。なんかこういうのって怖い。はっきりして行く。嫌でも佐原君が伝わって来る。
 曖昧じゃないと頑張れない。この後、また悪いことが待っていて、すぐそこに落とし穴がある気がする。怖い。
「俺が信用できない、不安があるとかそういうの?」
 首元に顔をうずめたままくぐもった声で質問される。そこにもう触れないで欲しいのに。やめないでも欲しい。
「そんなこと。よくわからない」
 かすれる声を押し出した。だって佐原君は人気アイドルのようにすごい人だ。佐原君を見守る女子のグループも田村さんたちだけでなくて、他の学年にもあるのを知っている。芸能人のファンクラブのような活動なら私も入りたいと思って見ているだけだった。去年の春頃から見て来ていても、佐原君自身のことはよく知らない。
 学校のみんなが知っているほどの有名人だけど、噂話が先行して判断を鈍らされる。私なんか秀美みたいな目を持っていないし、佐原君と親しくなれるわけもないから鈍らされたままの気持ちで構わなかったのに……。
「サトコ、ちょっと起きて」
 佐原君が起き上がった。手を引っ張られて身体を持ち上げ、ベッドに座る。陽が眩しいせいにして目を伏せた。
「こっちに来て」
 後ろにずれた佐原君は、壁に寄りかかって手招きをしている。またじっと見られる。
 同じように下がって壁に寄りかかると、なにも言わずに頬にキスをされ、横から抱き締められた。
「その怖いっていうのを話してみて」
 今度は佐原君の息が耳にかかる。痛くされた左の首元にも熱い温度がまた落ちる。心臓の音が腕越しに伝わる。
「サトコ」
 はっきりと耳に聞こえて来た。前から好きだった佐原君のさわやかで聞き取りやすい声。息遣い。心臓の音。
「それは……。言いたくない」
 抱き締められたままうつむいて答えた。どう考えても言いたくないし、どういうことかも説明ができない。
「どうして?」
 低く落ち着いた口調。私を横から抱き締めた片方の手は、頭から肩を往復して髪の毛の先まで撫でている。
「……そんなに楽しい話じゃないから」
「そっか」
 自分でも気が付かないうちに泣いておきながら勝手なことを言っているのでしょうか。
 更に強く抱きしめられる。続けようとした言葉は考えただけで言えなかった。それ以上を聞かないでください。
「サトコ。俺の欲しいものはね、平凡で面白くもないような日常だよ」
「え」
 声がかすれた。佐原君の方を見ようとしても、今度は頭と腕を強く抱えられてしまって動けなくなった。
「変わらず繰り返される日常。明日も同じがいいと思える日常。そして、くだらない明日がまたやって来る」
 平凡でしょ……。佐原君がつぶやいた言葉が耳の奥に消えていく。
 佐原君の言いたいことは分かる気がする。私も似たようなことを思っている。今が続けばいい。不満がないわけじゃないけど、やっと手に入れた日常がある。ずっと憧れていたような学校生活だ。くだらない、バカバカしいとお母さんには言われそうなのだけど、おだやかでやさしい日々。もっとよくして行くことは可能だ。
「佐原君は忙しくてつらい?」
 思わず呟いた。そんなことを考える佐原君に平凡な日常がないみたい。文武両道に励む日々が大変なの?
「どうかなあ」
 抱き締めたまま息を吐き出され、髪の毛が顔にかかった。今どうしているのか考えるとものすごく恥ずかしい。
「サトコが俺のことをもっと好きになってくれたら救われる」
「真面目に言って欲しい」
 顔をあげた。佐原君は腕の力を緩めて笑った。いつものさわやかな笑顔と違った。やさしくて弱い表情だった。
 今は私が作り上げていませんか? まだ夢の中ではありませんか? ずっと佐原君のさわやかな笑顔のカメラ目線の写真が欲しいと思っていたけど、やめます。見られません。ムリ。
「ホントにそう思っているよ」
 せっかく腕を弱めてこっちを見てくれているのに、泣いた私が悪いのに、佐原君を見上げ返せない。ドクンドクンと心臓が波打つ。耳の奥に響いている。佐原君の心臓の音と混ざってどっちの音か分からないくらいに近い。
「私がそんなにあったかい人間でないよ」
 佐原君の周りに温かいものが少ないのだとしても、私だって……。
「なんで? あたたかいよ」
 また横から強く抱きしめられた。
「さ、佐原君」
 もういいです、痛いです、抗議をしようとした唇を軽い口づけで封じられた。
「こんなに暖かい」
 そう言って佐原君はベッドの上でずれると、前から身体を抱き締めて来た。胸の辺りに顔をうずめられる。
 少しだけ見えた表情が泣く寸前の子供のように見えた。くっついた身体が震えている気までする。でも、震えているお子様は私の方のはずだ。両手で強く抱き締められているからよく分からない。言葉が消え、佐原君の肩におでこを載せて顔をうつむかせた。頭を撫でられる。
 なんでそんなに寂しそうな顔をするの? 私がこういうことをされるのが嫌で泣いたって思ったからなの?
 佐原君はいつも笑顔でいるような男の子だ。輪の中心にいて、仲間も多くて、ファンの女の子たちとも冗談を言い合って、話しかけやすい。あんなに勉強ができて、先生たちに褒められて、PTAにも評価されているだろう。
 そういう評価はうれしくないの? お花見の会で話した男子たちは佐原君を嫌っていたけど、完全な妬みだ。
 私だったらありがた迷惑ってやつと思いそうです。私と佐原君はタイプが違うのに、こんな風に自分に置き換えて理解をしようとするのが間違っているのかもしれない。
「でも、私、どうしたらいいのか」
「サトコはいつも難しく考えすぎ。もう一度、キスをして」
 起き上がり、両肩に手を置くと、私が目を閉じるのも待たずに唇を重ねて来た。
 サトコはいつも……。今の私はうれしくて、あったかい。同じくらいに怖い。佐原君に名前を呼ばれて、いつも話していられる現実。月曜日にくじ引き学級委員になるまで話したこともなかった。その前は目が合いそうになっても逸らしてしまっていたのに。佐原君の気持ちを言って貰えても、キスの角度が変わり、両肩に乗せられた手に力を加えられても、私の思考は暗い方向に蝕まれて行く。こういう考え方はどうしたら止まってくれるのでしょう?
 止まらない。また涙が流れて来た。佐原君はなにもいわずに唇で涙に触れて来た。
「しょっぱい」
 呟いて笑われる。やっと笑い返せた。うれしそうに見つめて来てまたキスをしないでください。
「あのう」
 低い声に横を向く。モトコが立っていた。ドアは音も立てずに開けたのですか?
「お取込み中に申し訳ないのですがお姉様、お約束はどうなりましたか」
 無表情に見つめてくる妹を見て、弱み以上の場面を見られてしまったのを悟る。バット。完全に遅い。

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