曖昧ゾーン (15)

第五話 また明日


 日曜日は用がなければ基本的にお昼まで寝ている。
 県内一位を争っている公立高校に入れてしまったものだから、宿題がなくても授業の予習復習が必須になった。
 土曜日は家庭科クラブの活動は必ずあるし、学校の行事が入ることも多い。朝は苦手なのに満員電車を少しでもずらすために早く起きている。平日の夜しか自室の机にむかえない。ゆっくり眠れるのは日曜日しかないのだ。
 目まし時計を土曜日の夜だけはかけずに眠る。いつも起きている時間になると、ベッドの上にある出窓のレースのカーテンの向こうの天気をなんとなく感じている。太陽の光だ。今日も昨日のように快晴だろう。瞼の奥で光を受け止め、眠りと起床の間をまどろむ。この時間は迷わず好きだと言える。
 まだ眠っていたい。昨日までのことを考えたくない。布団の上をごろりとした。バット、携帯電話が鳴った。
「はい。鵜飼です」
 頭の上のボードから携帯電話のストラップを引っ張り、床に音を立てて落ちてしまったものを拾う。
「サトコにかけたのだって。昨日、どうだった?」
 秀美だ。たまごっちの画面を見る。落としても平気だった。飼い猫は珍しく毛糸玉を追いかけて遊んでいた。
「昨日?」
 オウム返しに聞いてしまった。ラブレタープロジェクトは不発に終わったことは継げたはずだ。
「なによう。お花見の会で佐原と会ってどうだったかくらい教えてくれていいでしょう。楽しかった?」
「ううん。生徒会の人たちなんか揉めていた。でも、佐原君はうちまで送ってくれたから……」
「なに? 逆に告白でもされた?」
 携帯電話を落としそうになった。
「な、なんでそんなことまで言えるの?」
「この前も言ったじゃない! この秀美様の目だけでなく耳もごまかせません。そんな感じの声に聞こえた」
 秀美様のその勘は自分の恋愛にも活かせたらいいのに。私には目も耳もどっちもムリ。
「告白というのも違う気がするけど……」
 私を庇ってくれたから。あの場を走り去りたくても、ひとりだったら怖くなって立ちすくんでしまったと思う。
 ――負けなかったよ。俺。
 あんな佐原君。親友代表なら知っているのかな? ケンカにも自信があるのは分かった。
「けど? 日曜日なのに寝ていたの? 卒業遠足のグループ決めもあるでしょう? ここが聞き時でしょう」
 なにの聞き時でしょう? 今度こそちゃんとした返事を貰うと? いえ、もう昨日のキスだけで充分です。
「そ、卒業遠足の実行委員にうちのクラスがなったから、説明のプリントを読んだらメールをしみる」
「それがいいよ。私も永岡と組めないか考える。サトコは用があるのだから前向きに連絡をしな!」
 元気な声で「バイバイ」と言われ、「うん」と返事をしている間に電話を切られた。
 秀美は暇だから電話をして来たのでしょうか? 卒業遠足のグループ決めのことを聞きたかったのでした。クラスを超えて組んでも八人以内なら良かったはずです。私の記憶が正しいか確認をしておきませんと。昨日までに受け取った生徒会のプリントの内容だけは頭に入れてみせます。秀美は公香に電話をして、人の恋愛ネタであれこれと盛り上がっている頃でしょう。遠足のグループを話し合い、公香が男女六人をまた嫌がるのでしょう。
 その方がいいです! 言うだけ言っておいてください。私の方から学校で報告をしなくて済みます。
「お姉ちゃん」
 妹のモトコが派手な音を立ててドアを開けて部屋に入って来た。
「なによう。ノックをしてといいっているでしょう」
 秀美の真似をして文句をつけた。唇を尖らせる。私がいきなり部屋に入ろうものなら母にも言いつけるくせに。
 でも、母は日曜日だけハンドメイドショップの販売員のバイトをしているから今日はいない。
「ごめん。急ぎの課題があるの。そのままでいいから私の部屋に来て」
 両手を合わせ、あっさりと謝られると調子が悪い。妹に腕を引っ張って強引にベッドから立ち上がらされた。椅子に掛けてあったカーディガンを手渡され、羽織ったとたんに腕を強くまたつかんで廊下へ引っ張り出される。窓の外の景色は日光で見えなかった。おお、予想以上に陽が眩しい。
「早くして!」
 モトコに怒られる。横から睨まれる覚えがありません。姉なのに背丈が変わらないのが悔しい。ドアを開けて押し込まれる。妹は部屋を飾り立てている。ニトリのカタログをそのまま持って来た私の部屋とは全く違う。
「こんにちは」
 ラブリーな部屋に入ると、ピンクのラグの上の低いテーブルでノートを広げている少年が二人もいた。背が高い方にニコリと挨拶をされる。もう一人も黒ぶち眼鏡をかけ直して会釈された。反射的に会釈を返してしまった。
 妹の友人とは思えないほど二人とも真面目そうだ。彼らと言葉を交わす間もなく、モトコに背中を更に押され、彼らの向かいに座った。モトコは一緒に座り、低いテーブルの上に積んだプリントを捲っている。どなたたち?
「あの」
 着替えて来るからと言おうとしたら、分厚い参考書とシャーペンシルをずいっと目の前に出された。
「お姉ちゃん、約束通り彼氏のジュンペイを紹介する。この問題を解いてください。私たち今日は四人で出かけたいのだから」
「ムカイジュンペイです。隣は親友のアラキです。俺たちだけじゃわかりませんでした」
 こんにちはと先に行ってくれた男子がノートを閉じて表紙を見せてくれる。マジックで名前が書いてある。
 その笑顔に押される形で頷いた。そう言えば、妹が私の部屋に入って来た時に急ぎの課題があると両手を合わせていました。ノックを忘れて部屋に入ったことを謝ったのではなかったのでしょう。どうもおかしいと思いました。やっと目が覚めて来た。目立つ方が彼氏の向井潤平君。その隣の地味な方がモトコの彼氏の親友さん。
「私、着替えて」
「待てないと言った。二人はこの後に出かける用事があるの。昨日、コンビニにアイスを買いに行ったことを忘れてあげる。この問題だけでいいのだから。解いてくれるよね?」
 昨日のコンビニ。にっこりされる。そんなことをここで言い出すのですか。姉を脅しますか。なんて妹ですか。
「英語?」
 目の前に置かれたプリントとシャーペンシルを手に取りながら分かっていることを聞き返した。
 私は英語が得意な方だ。この長文読解のカッコのひとつを埋める問題の出し方、どこかで見ませんでしたか?
「これうちの学校の過去問題集?」
 妹に聞きながら横に置かれた参考書を捲る。アイスクリームの模様のラッピングペーパーでブックカバーを作っているから中身が見えない。でもこの本が過去問題集なわけではなかった。カラフルな線が表から見えていた通り、英語を学ぶための参考書だ。イラストがあちこちにある本なのに更にカラフルにマーカーを引いて、細かく英語で書き込んでいる。受験勉強は思ったよりしているらしかった。
「はい。俺たち二人ともぜひ県立総合高校に入りたいのです。偏差値が高いみたいですけど、モトコさんのお姉さんがそこに通っているなら、色々と聞けるかなあ、と」
 彼氏が笑顔で言い、隣の黒ぶち眼鏡の男子は愛想なく頷いている。隣で顔を寄せて来ているモトコを見た。
「うちを受けることにしたの?」
「女子高の推薦を取ったと言ったでしょう。短大もついているの。それでも入試はあるの」
 ふうん。でも、私は中学校三年生の土日は勉強をずっとしていたでしょう? 二人とも優秀生なのか。
「お姉さま、ハーゲンダッツは高いから三人で食べちゃった」
 妹は意味深に笑いかけて来る。昨日見たものは高くつく宣言をしてきている。
「けっこうです。今読むから」
 長文読解問題に取り組む。物語ではなく論文だった。こっちの方が穴埋め問題は難しい。
 う、三人にちいさいテーブルで囲まれて見つめられている。カーテンを引いていても眩しい日の光と、嗅いだことのない匂いが混ざっている。緊張する。シャーペンシルでアンダーラインを引いたら、またボキリと芯を追ってしまった。最近、こんなことをし過ぎです。カチカチとして芯を出した。線をどの単語に引いたかまで興味を持たないでください。あなたたちはノートに参考書から移す作業を続けていてください。集中ができません。
「まだあ?」
 モトコが隣で言う。私はどう見てもまだ全文を読めていません。唇を尖らせられる。さっきの私の真似ですか。
「集中ができないから部屋で解いてから戻って来る」
「それじゃあさあ、お姉ちゃんがどう解いたのか分からないでしょう。手が届きそうな合格者の腕前を見せて」
「なにその言い方!」
「やめてよう。二人とも数学や理科も聞きたいところがあると言っていた」
 秀美に会ったこともないのに、妹の方が秀美の話し方に似ているのはなぜでしょう。
「ぜひお願いします」
 え、なにか私に言いました? 彼氏はニコリと微笑みかけて来る。自分に自信がおありなのですね。
「これって学校の課題じゃないでしょう」
 モトコの中学校なら私もこの前まで通っていました。特定の私立高の過去問題集など解かされません。
「予備校が作った問題なの。選抜模試がせまっていて大変なのだって。この課題で所属するクラスが決まるの」
 彼氏は同じ表情で頷いている。隣の黒ぶち眼鏡の男子はテーブルの端に重ねてあった参考書の山を指さしている。新木さとし。表紙に名前が書かれている。私と喋りたくないのは分かりました。なぜか嫌われたのは分かります。第一印象が悪すぎましたか。彼氏とその親友さんを部屋に呼ぶ、妹の感覚も分かりません。
「お姉ちゃん、よそ見をしていないで。とりあえずこの問題だけ解いて。お願いだから」
 妹は腰を丸め両手を合わせて拝んで来た。さっきから謝ったり、頼んで来たり、うつむいてみたり。その殊勝(しゅしょう)な表情が似合いません。
「メモ用紙もあげたでしょう。なにかの時は?」
 なんと。なにかの時は助けてくれる? 課題を教えて欲しいと。彼氏の予備校の問題だなんて聞いていません。
「むこうで話して」
 妹の腕をとっても立ち上がってくれない。さっきと反対に私がモトコの腕を取り、ずるずると端に引きずった。
「私、分からない」
「ええっ。だって過去問題のアレンジだよ。お姉ちゃん在校生じゃない」
「だからって解けるとは限らないの」
 ドアの脇で正座をしてこそこそと話した。廊下に出たかったけど、妹にむっとした顔を向けられる。ムリ。
「私の彼氏は困っているの」
「こ、断わって。答えがあれば説明ができそうだけど、解けない。独学で頑張って貰って」
 むこうの二人は筆記に戻ったし、妹に対してならこのくらいは言える。
「恥ずかしげもなく……。いいのかなあ」
 パジャマの襟を引っ張られる。なんですかその笑顔は。恥ずかしげもなく、解けないと言っていいのか?
 ――痛くなくちゃ意味がないよ。
「やめて!」
 叫んでカーディガンを引っ張った。触らないで。よく考えたら、まだ鏡も見ていないのだから……。
「どうかしましたか」
 妹の彼氏を斜めに振り返る。相変わらずにこやかだ。
「敬語?」
「自分だけ良い思いをしてずるい」
 モトコは床に突っ伏して背中を丸めている。良い思いって。首元の同じ位置に痛く落とされ続けて……。今考えるのをやめましょう。
「うちの過去問題集より難しいです。彼氏さんたちで解くべき問題でしょう」
「予備校のクラス決めがかかっていると言っているでしょう。友だちの恋愛だったら応援をするくせに……」
 妹はうつむき続けている。彼氏と彼女と言い切れる関係でもないのですか。姉をダシにしてうちに呼んだのですか。親友さんを連れて来ると言われたら断われず、二人はこの後に予備校の予定が詰まってもいたと。
「泣き真似をされても」
「私は悲しい。お母さんがパートから帰って来たら言うから……」
 パジャマの裾を引っ張られる。やめなさい。姉を揺さぶって解決をしないでください。
「お姉さん、質問をさせて貰ってもよろしいでしょうか?」
「ちょっと待ってください。奥の手がありますから……」
 ドアノブを握り締め、情けない格好で廊下に出た。そうだ。あの問題ならきっと軽い。ここが聞き時!

ページのトップへ戻る