第四話 - 5 頁
「鵜飼さん? 俺は待っていてもいいよ」
「うん。本当に買い物はないの。早く行こう」
軽く握られていた手を離し、振り返って口を開きかけていた佐原君の背中を両手で強く押した。
お願い。今だけは振り返らずに早く歩いて。数歩しか進んでいない。自分だけでも走り出してしまいたい。
追いつかれてしまう。振り返るな。また目を合わすな。でも、後ろからの足音が消えることはなかった。
どうして。今日に限って。私が話したそうに見えた? そんなわけがない。佐原君といたから?
首を振る。考えても無駄だ。嫌だ。会いたくない。話したくない。なにも聞きたくない。例えそれが……。
「鵜飼さん! 鈴木だよ」
予想を上回る大声でコンビニから出て来た男子は叫んだ。佐原君は前を向いて歩いてくれていたのに、その場で立ち止まった。ゆっくりと振り返ったのが分かる。私が背中を押しても、もう進んではくれない。
「鵜飼さん、おれ」
「わ、わたしなにも聞きたくないから!」
叫び返した。なにを言いたいのかも考えたくはないの。例えそれが……。謝罪の言葉だったとしても。
「鵜飼さん。聞いて。悪いと思っている」
追って来た方は明らかに攻めている口調で言って来た。なぜ。なにも聞かないのはあんまりだと言いたいの。
「なに……。わたしが悪いの」
「そう言われたくないから逃げるの?」
なにを言っているの? 斜めに目が合った。挑むように前に進んで来た。心臓の奥が痛む。みんな怖い。
どうしてそんな風になれるの? そんなことを考えていたら、ここで言いたい放題にされるかもしれない。
「なにも聞きたくないの! わたしにもそのくらいの権利はある。お願いだからなにも言わないで!」
佐原君の背中に両手で捕まって隠れるようにして叫んでしまった。斜め後ろにいる鈴木君からだけでなく、なにか言いたげに振り返っている佐原君からも隠れ、今をなにもなかったことにしたい。
「権利?」
冷たい声。コンクリートの上に落ちた。鈴木君。鈴木浩二君。ガラリと人が変わる。よく知っている。
「だからなにも聞きたくないの! 私だってなにも言っていないでしょう!」
彼の顔つき。改めて見なくても声を聴くだけで脳裏に蘇る。向けてきてくれた笑顔。何人もと嫌なことを言った嘲り(あざけり)の表情。シャッターを切るようにして一遍に浮かんでは消えていく。
「先月にクラス会があった。俺が幹事だったから葉書は届いたはずだ」
私の聞かない権利の主張は無視をされた。数か月前にその往復葉書は届いていた。印刷された幹事名の後ろには、二行ほどのメッセージまで書いてまであった。意志を持って読まなかった。強制的に返事を要求する葉書は、家族に見られないうちにシュレッダーにかけた。私のことも話題になった? 楽しいことだった?
私は家のポストも見るのも嫌になりそうだった。でも、両親に見つかっていたら絶対に参加しろと言われていた。お母さんだったら、私がその日に適当なことを言って他に出掛けるとか誤魔化せない。冗談ではない。
あれから、なにを言ってくるか分からないから、自分がポストを始めに見て、宅配に応じないとならなくなった。ストレスが増えただけだったのに。
「その時にクラスのみんなと話してさ」
鈴木君の言葉は続く。首を振る。聞きたくない。影で好きに言ってくれて構わない。他のことなど求めないから聞きたくない。佐原君の水色のシャツを両手で握り締めた。足に力が入らない。指先が震えそうだ。背中に顔をうずめたくなる。弱い私。これじゃあ、逆戻りだ。
「謝りたくて」
ガバリと顔をあげた。斜めというより、正面で鈴木君は私の方を乾いた顔で見ていた。今更……。
「みんな? きらい」
クラスのみんな。それは誰と誰? 束でないと戦えない人たち。自分自身の問題でもなかったのですね。
「その言い方はなに。人が下出に話してあげれば! 男の陰に隠れておいて、自分だけは違う、ってか」
笑って叫ばれる。私なんかが男といたから、放置の態度を変えて思い出したくもない頃の話をするのですね。
「俺は!」
「うるさいなあ」
佐原君を見上げた。眉根を寄せて鈴木君を見下ろしている。
「お兄さん。俺たち良いところなのだから、あっちに行ってくれない?」
低い言い回しだった。普段の佐原君からは考えられない声。そんなに怒らないで……。
「俺は善意で」
「さっきから言っていることがおかしい。邪魔だと言っているのが分からないの?」
「はあ?」
鈴木君の大声にビクリとなった。やめて。ケンカをしないで。
「見掛けによらずバカだね、お兄さん」
淡々と佐原君が言う。冷たすぎる笑みだ。鈴木君が顔を真っ赤にしてこっちに歩いて来る。嫌な予感がする。ポケットに入れていた両手を出し、肘で挟んでいた革鞄をコンクリートに叩きつけている。
「やめて」
佐原君まで巻き込まないで。うわ! 腕が風を切る。殴られる。佐原君のシャツを握ったまま目を閉じてしまった。
「……?」
なにの音もしなかった。息もできないまま目を開ける。佐原君はにやりと笑って鈴木君の片腕を持っていた。
「あんたの腕じゃ俺には勝てないよ」
佐原君の片腕で鈴木君の手が引っ張りあげられ、グニャリと曲がった。強い力だ。佐原君は左手なのに。
「くっ」
鈴木君は唸っている。全く力を緩めず、笑んだまま佐原君は見下ろしている。顔面蒼白ってこのことでは……。
「なに? 聞こえない」
佐原君の低い声に視線をあげた。同じに腕をひねって持ち上げたまま笑んでいる。
「ちょ。ちょっと。もういいよ」
慌てて佐原君の腕を横から抑えた。
「そお?」
残念、と佐原君は続けて、クッと笑って鈴木君の腕を離した。
鈴木君は私になにか言いたげに見て来た。すぐ目を逸らすと、鞄を拾い上げて駅の方へ走って行ってしまった。
「殴って欲しかったら、殴ってあげたのに」
さっきと変わらない様子で話しかけられる。佐原君を呆然と見上げていた。首が痛くなるほどだ。
「さはらくん」
「分かっている。でも、負けなかったよ。俺」
今のやり合いを見れば分かる。鈴木君だって力に自信はある方だ。でも、佐原君には歯が立たなかった。
「うん……」
佐原君を見返すのがやっとだ。彼はうちの学校の生徒の中でも抜きに出る優等生だ。学年で三位圏内をキープし続ける成績は体育や美術も含められている。委員を率先して熟し、周りを気遣い、校則や生活のルールは適度に守り、頭が固くもなく、さわやかに笑っているところまですべてが揃っている。文句のつけようはない。だからこそアイドルさんなのだ。
「でも、そこまでしてくれなくてもいいことだから」
「なんでそんなことするの、私の問題とか言われたら、引っぱたいていた」
顔をあげ直すと、いつものやさしい笑顔にホッとした。
「やっと笑った」
え? 口を開いたのと同時に抱き締められた。
「鵜飼さんは笑った方が可愛い」
やわらかい声が耳元で振って来る。お互いの心臓の音が重なり、体温が混ざる。今までのどの時よりも近い。
「俺も鵜飼さんが好きだよ」
目を見てはっきりと言われた。くちびるが重ねられる。後ずさりをした。佐原君の両腕が邪魔して下がれなかったけど。
「な……」
さっきからそんなに気楽にキスをしないで。好きだともこんな場所で堂々と言わないで。
「な、じゃないよ」
佐原君は笑って手を離すと、両手を私の肩の上にそれぞれ乗せた。ちょっと待ってください。
「だめ。今は待てない。上を向いて目を閉じる」
「なんで……」
今はってずるい。本当に分かってくれたのですか? 私をクスクスと笑って見ていることでもないです。
「うーん。なんでと言われても。鵜飼さんが目を開けてキスをしたい人なら、止めない」
真剣な表情を向けて来て、両手で肩を抑えているだけなのもずるい。顔が近づいて来る。心臓の音が大きくなり、足の裏の感覚がなくなる。思い切り目を強く閉じた。
「サトコ」
キスをする前に佐原君はそっと呟いた。くちびるが広い面積で触れ合う。更にぎゅっと目を閉じた。肩から背中に両手を回され、強く抱き締められる。触れ合ったところから体温がどんどん上昇する。私自身を対象年齢六歳にしてください……。
「さ、佐原君」
くちびるが離れると首筋に触れて来た。身体じゅうがびくびくと反応をした。もう今日は勘弁してください。
「やめ……」
かすれた声しか出なかった。こんな場所で佐原君と……。緊張する。怖い。苦しい。放して欲しくない。
「そんな小さな声で言われても聞こえない」
耳元ではっきりと囁かれる。嘘つきだ。ちゃんと聞こえていた。クラクラとして来て目をつぶる。
「っ! ホントに痛い」
そんなに唇を押し付けないで。佐原君と私しかこの道端にいないかのように脳が錯覚する。
「バカだなあ」
佐原君の腕はがっしりと力が入っていた。今までと違う。一ミリたりとも私を動かさない。
「痛くなくちゃ意味がないよ」
唇が耳元から落ちていく。さっき痛くした部分を舌でなぞられる。同じ部分に唇を落とされる。
「好きな子はいじめたくなるものでしょう?」
私に聞かないでください。今の揉め事がそんなわけがないし、これもそんなわけが……。
身体じゅうが熱くなって固まって不安で苦しくて。それだけではなく、心のどこかがうずき暖かくなる。
最寄り駅から人混みが流れて来るまで、佐原君はその痛みから解放してはくれなかった。