曖昧ゾーン (13)

第四話 - 4 頁


 乗客のほとんどが学校の最寄り駅まで乗っていた。ここのバスを降りる時は車両の中間のドアだ。後ろの階段のステップがおりて地面との高低差がなくなる。乗車口の傍に立っていたから最後に降りた。
 汗は桜に見とれているうちに引いた。ハンカチをリュックのポケットに戻し、駅へ向かって歩き出した。朝、連絡先を書いたメモ用紙の確認をして、ここに入れて来たのに。また渡せなかった。腕時計を見る。まだ午後の二時ですか。もう暗くなっていていいです。明るい陽を浴びる気分ではありません。ため息をついてしまった。
 いきなり片方の肩を捕まれた。後ろにグイっと引っ張られた。
「なっ」
 声が出なかった。抱きしめられ、肩に顔を乗せられたのが分かる。ゼイゼイとした息遣いと共に顔があがる。
「さっきから呼んでいた」
 正面に佐原君の顔があった。両肩を持ってじっと目を見られた。長い前髪の先から水色のシャツに汗が落ちている。
「もう! あんな風に生徒会のメンバーを敵に回さなくていいから」
 真剣な表情を見上げていた。あんな風に……。
「でも、うれしいな。鵜飼さんが俺のこと好きだったなんて」
 笑いかけられる。うれしい? 佐原君は笑ってくれてやさしいじゃないですか。みんなにそうだったでしょう。
「えっと、さはらくん……」
 両肩を強く引き寄せられて視界が消えた。その続きは言えなかった。ぬるい温度がくちびるから伝わって来る。
 待ってください。ここは駅前です。動かそうとした手を封じるように肩から背中に腕を回された。両腕でガッチリとで抱きしめられる。くちびるが強く重ねられる。やわらかく、どこか湿った感覚が全体に広まっていく。
 な、なにが起こっていますか。目を閉じられもせず、桜の花びらが波を描くように目の前を舞っていった。

 キスの時間はものすごく長い時間に感じた。生ぬるい温度がくちびるから身体じゅうを駆け巡った。
 片手で抑えられていた頭を撫でられてくちびるを離された。近すぎて顔をあげられない。まつ毛すらぶつかりそうだ。
 佐原君は鞄を肩にかけ直すと、さっきと変わらない笑顔で笑いかけて来た。
「送るよ」
 にこりとされると、ボケッとしてしまう。カッコウイイ、頭が良さそう、ジャニーズ系。みんながあらゆる言葉で表現をして褒めている佐原君の笑顔。思わず見上げ続けさせるだけの力がある。
「あ、ごめんなさいね」
 女性にぶつかられて、佐原君に手を引っ張られた。道の端による。桜を鑑賞して帰って来た人たちがすぐ傍を通り過ぎていく。バスの停留所の傍にいたのでした。どれだけの人が今のキスを見ていましたか?
 見下ろして来る佐原君になにも答えらえないうちに私の左手を取って歩き出した。引っ張られて後について行く形になる。人混みをかき分けて駅へ速足で進んで行く。固く大きな手。手から少し汗を感じた。佐原君……。
 私が乗ったバスに追い付くには、タクシーでも使って来てくれたのですか? うれしいからって、こんなところでいきなりキスをしたり、抱きしめたり、手をつないだりするものなのですか? 順番がおかしくありませんか。それ以上を考える間もなく券売機の前に着いていた。
「鵜飼さんのお家の最寄り駅はどこだっけ?」
 路線図を見上げながら聞かれる。
「あの、うち遠いから。ここでいい」
「どうして?」
「乗り換えまでするから」
「あー、電車賃のこと。気にしなくていい。送るよ」
 佐原君は笑って繋いでいた手を離すと、斜め掛けの鞄から定期入れを出した。あ、それも水色。
「ちょっとだけ待って。チャージしちゃうから」
 イオカードとお札を定期入れから出して五千円札を置いている。それで清算してしまうからお財布は持ち歩きませんか。そんなことを考えている場合ではありません。どうしよう。どうして? って、聞かれても……。うちは本当に遠い。一時間くらいかかる。あまり言いたくない。
「行こう」
 佐原君は笑顔で振り返ると、また私の左手を取って勢いよく引っ張り、先に歩き出した。
 いつも遠めに見ていた水色のシャツが目の前にある。手を強く握られて、心臓が早く打つ。激しい音を立てて痛みを感じそうなほどだ。佐原君の歩調に合わせるために早足になりながら、ポケットから定期入れを出した。
 前を行く佐原君に声をかけられなかったし、改札口を抜ける時も振り返らなかった。歩く速度で人混みをかき分けている。マイペースだ。こんな風にして彼女と歩くものなのですね。
 たくさんの家族連れに紛れてホームへ階段を下った。ホームにも人がびっしりいた。すぐ傍の電車を待つ列に佐原君は並んだ。手に持っていた定期入れをポケットにしまっている。繋がれた手の強さは、すっと抜けてしまいそうなくらいに弱くなった。でも、手を離して欲しいと思わない。もう少しだけ佐原君の隣に並んでいたい。
 さっき佐原君の汗を感じたように、私の心臓の音まで手のひらから伝わっていたらどうしよう。
 どうしてこんなことになっているのか聞きたい。生徒会のみなさんはどんな様子でしたか。後からどう追って来てくれましたか。いつから聞いていたのですか。でも、そうやって聞いてしまったら……。一気になにかが変わってしまいそうで怖い。

 むっとした空気の中、電車はすぐに来た。ほっとした。乗客は元からいたのに、この駅から更に混んだ。
 私と佐原君は、奥の開かないドアの前で向かい合って立っていた。手は弱く握られたままだ。これじゃあ恋人同士みたい。なんて言葉は出て来るわけもなく、どうしていいのかも分からず、端の手すりを片方の手で持ち、まだ明るい窓の外を眺めていた。なんの変哲もない都会の住宅街の風景が流れて行った。
 佐原君は進行方向と反対に立ち、片側の方だけドアにつけて立っていた。チラリと見ると、反対側のドアの上にある動画の宣伝を眺めていた。この沈黙、気にならないのですか。うちの学校の女子がこの様子を見たら……。
「なにか言いたそう」
 いきなり佐原君に呟かれて視線をあげた。弱冷房は入っていても佐原君はまだ汗をかいていた。熱い息がかかりそうな距離だ。またじっと見下ろされている。なにか言いたいような顔なんてしていましたか? もう自分のフォローもムリらしいです。
「う、うちの学校の女子に見られでもしたら、明日は大さわぎだろうなって」
 佐原君があまりに見て来るし、考えている間もなかったから思ったままを言ってしまった。またどもってしまったし、バカなことを言いました。しまった、と思っても遅い。
「ふうん? 女子はそんなことできゃあきゃあとなるのか」
 ため息をつくように言って、なんで? というように佐原君は見て来る。そんなことって、佐原君はもてている自覚がないの? あれだけ誕生日プレゼントを女子に貰っていてそれはないでしょう。
「鵜飼さんは無口な方だよね」
「うん。ごめんね」
「え? けなしたわけじゃないよ」
 佐原君は大きめな声で言ってこっちに乗り出して来た。
「女子はよく喋ると思っていたから……。その」
 その……。私をじっと見たまま黙り込む。困ったような表情。感情が顔にすぐ出る。表に出さない人に見えた。
 ――佐原君、言いたいことは分かったから、そんなに近づかないでよ。
 軽く笑って返せたら、どんなにいいだろう。でも、私が佐原君にそう言おうものなら、キツイ言葉として響いてしまう。相手を嫌なふうに思っているわけじゃなくて、半分冗談、半分本気という軽いニュアンスで伝えるには、どういうふうに言えばいいのだろう。前からそんなことをよく考えて来た。でも、今も分からない。だから目を伏せてしまう。そんな自分が嫌だなと思う。でも、結局、変われないし、どうしたらいいのかも分からないままだ。
 佐原君は息を吐いて窓の外を見ている。でも、すぐその後にチラリとこっちを見る視線を感じる。
「変なことを言った。ごめんね?」
 まだ気にして屈んで顔を覗き込んで来た。思わず頷いてしまった。佐原君が謝ることもないのに。
「怒らせたのかと思った」
 笑っている。私がなにも言えなくても笑って許してくれる。私にも佐原君はやさしい。ムカつかれるのは違う。
 でも、近い! 電車が揺れて胸に肩がぶつかった。この前から思っていたけど、佐原君ってなんでこんなに至近距離で話すの? みんなにそうなの? 私には困る。
「こっち方面の電車はひさしぶり。鵜飼さんはいつも乗っている時、なにをしているの?」
 明るく聞かれた。佐原君をちらりと見る。外を眺めている。私は横浜駅で乗り換えると言いましたか? 電車を乗り換える話をした以外の記憶がない。感じが悪すぎる。ううん。今も他のことばかり考えて気にしている。
 ちゃんと答えなさい。顔をあげる。微笑まれる。佐原君ともう少しこうしていたかったのですから。
「本を読んだり、ぼんやりしたり、英単語を覚えたりです」
 座れれば寝ている時もありますけど、滅多に社長の中の方に進んで立てませんし、前が開くこともありません。
「鵜飼さんらしい」
 ね? というように笑いかけられたので頷いた。確かにそんな過ごし方は私らしいです。
 電車の中だけでなく、秀美や公香がいない休み時間は教室の中でも本でも読んでいる。佐原君のようにクラスメイトたちと賑やかに話せない。うちの制服を同じように違反して、楽しそうに恋愛トークを繰り広げている女子のグループを見ると、無条件に羨ましいと思ってしまう。友だちは数ではないのは同意見ですけど、人数が多い方が楽しそうな気がします。贅沢な悩みでも今の友人関係にも後入りの私は、秀美と公香の仲に同列に並べると思えません。
「あ、佐原君、次の横浜駅で降りて、JRに……」
「分かっている。鵜飼さんが秘密にしたくても、さっき定期券を見られちゃったから」
 アハハと笑って、手を繋ぎ直されて引っ張られる。私は動作が遅すぎました。笑い飛ばされてうれしい。
 いつも違い過ぎる帰り道。楽しんでいる。ほんとうにどうしよう……。

 地下鉄からJR線に乗り換えて最寄り駅まで着いた。手はずっと離されないままだった。
 改札口からちいさい商店街へ向かう道に出た。まだ明るかった。少しも暗くなっていないのが信じられない。
「へえ。いい街だね。向こうに見えるのは丘?」
「うん……。タチバナの丘って名前で国立の広い公園」
「木が有名な辺り(あたり)なのか。うちの方にも雰囲気が似ている」
 佐原君は商店街に向かって歩いていても、緑に振り返り微笑んでいる。駅の反対側が表玄関だ。あっち側に出れば同じ駅を降りたとは思えないほどに栄えている。駅を出てすぐに父が勤めているスーパーがあるし、ファミリーレストランやドラックストアや古本屋など名の知れた店もあるし、私が通っていた公立の小学校や中学校が並んでもいる。その奥はオフィスやマンションのビル群だ。建物の高さに大差はない。向こう側に国立の丘があって、見晴らしのために建物を高く建てられない規制があるからだ。そのおかげで、うちがあるこっち側と差がないように見えるけど、商店街はスーパーの方から続いていても、カラオケやボウリング場を過ぎれば、コンビニ以外にお店はない。その大型の二軒も古い店だ。学校の方は桜の記念公園があるだけでなく、国大や国立グラウンドがあって栄えている。
「そうかなあ。似ているとは思わないけど」
 私の呟きに佐原君は「え?」と言って振り返った。どれを聞き返されましたか? 私が見ていると、薄くやわらかく笑って、それ以上はなにも言わず、手を繋ぎ直して歩き出した。
 あ、ゆっくりした速度に変えてくれた……。
「そうだ。佐原君、連絡先を」
 ポケットから定期入れを出した時、目の端にコンビニを捕らえた。まだ明るいのにそこだけ妙に暗く見えた。
 コンビニの中で雑誌を立ち読みしていた男子と目が合った。あ、と口が動いたのが見えた。
「買いたいものでもあるの?」
「な……。なんでもないの。連絡先を忘れないうちに渡しておこうと思ったの」
 手を離してください。そんなことを言っている時間がない。定期入れの中からメモ用紙をスライドさせて取り出した。
「ああ、後で聞こうと思っていた」
 メモ用紙を笑顔で受け取るとポケットにしまっている。佐原君は変わらない歩調で歩き出した。
 目の端でさっきの男子を捉える。絶対に見てはならない。コンビニの側を歩いているのだから、車道側を見ず、前だけを向いていても不自然ではない。隣を見る。佐原君も私に合わせて前だけを見ているようだった。隣を見る。佐原君も私に合わせて前だけを見ているようだった。
 今になって佐原君が車道を歩いてくれていたと気づく私はひどい人間な気がした。
 コンビニの前を通り過ぎる時、男子が雑誌を急いで置いているのが見えた。走ってドアから出て来る。
 うそ。こっちに来る。
 なぜですか。普段なら同じ駅のホームにいても声をかけても来ないのに……。追いついてしまう!

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