遠くへ (2)

第二話


 彼がいつも消えていく銀杏並木の一本道は、マンション群と共に作られた。今の秋口、晴れると葉がきらきらと風に揺れ、目に眩しいほど見事だ。長い道ではないけれど、地元の人たちにはちょっとした人気スポットだ。
 マンション群の方には、古めのアパートもぽつぽつとある。彼はその辺りでひとり暮らしをしているのだろう。
 彼は背が高い方なのに、買い物の時しか見かけないから棚と棚に常に遮られ、顔までよく見えない。
 メンズファッション雑誌によると、彼の履いているボトムスは、ダメージジーンズというらしい。トップスは、たくさん色を持っていてもすべて無地のパーカーだ。私がいる傍の棚に彼が来ると、その下に着ているチェック柄のブラウスシャツの一部分だけが目に入って来る。同じようでいて同じでもない、代わり映えしない、似たような洋服ばかり揃えて着回している。最近は肌寒くなって来たから、コートをいつまでも着ない彼は首をすぼめて歩いている。
 私と彼は、それだけしか知りようのない関係だった。きっと私と同じ町内に住む、ご近所さん。
 でも、私は彼を探して歩いて、彼と同じようなことをしているのだから、名前も年齢も連絡先も知らなくても、見かけているのではなくて、会っているのだ。
 彼と会ったことがあるのは、うちの最寄り駅、ドラッグストア、私たちが通勤する道なりにあるちいさい本屋、弁当屋のちょうど裏手の道にあるコンビニ、駅のホーム上だけであっても、会っている。
 彼の隣に並び、天気を愚痴ったり、仕事の予定を言い合ったり、好きな本や面白かった漫画を貸し合い、銀杏並木を眺めて子供のように落ち葉拾いをしたり。……したい。ものすごくしたい。
 現状維持の関係では、顔すらちゃんと見えないのであっても。そんなことを一緒に誰かとやるのなら彼がいい。

 明るくなりきってない朝、駅まで続く道のり。彼は、私の視線の先、遠くを歩いて行く。
 帰りにコンビニに寄る時は、彼は同じ格好をして雑誌を必ず立ち読みする。
 私は、決まった銘柄のペットボトルやお菓子を買いたいだけなのに。彼はレジにも私にも背中をむけて、ひもで縛られた雑誌をマガジンラックからあちこち持ち上げ、表紙の文字を追っている。
 彼がレジ精算を終えるまで、私は肘にカゴを下げてなにを買おうか、って悩んでいるふりをし続けるしかない。
 いつも変わらない彼の。いつもぐるぐると動いて行く時間の。いつもと言えないほどの普段着の日々の。
 ほんの一部でしかない時間のなかで会っている。見かける。遠くで。

 私の少し前を歩いていた彼は、ドラッグストアからマンション群へ帰っていく通りを直進せず、大型マンションが立ち並ぶ裏手にある、ひとり暮らし向けのアパートが多い細道のどこかで曲がって行った。
 私が想像をしていた通りの方面だ。彼がどこに帰るのか確定したいけれど、あっちの方になにの用事もない。
 私は、両親と妹と四人の一軒家暮らし。生まれも育ちも同じ家に同じように暮らしている。古くからの地元民だ。でも、彼が住む方に友だちは一人しかいない。いや、ひとりはいたのだけれど、同じ夢を追えなくなってから会っていない。偶然にも会わない。同じ町内に住む同姓の友人であってもそんなものなのだ。
 早く彼の住まいの確定をしなくてはならない。何かで彼の通勤時間が変われば、私とは接点がなくなる。生活サイクルが違ってしまえば、ドラックストアなどに私が行くのと同じ時間帯に現れなくなるかもしれない。
 自分が帰宅する道のふりをして、彼のあとをこっそりついて行こうかと考えたことは何度もあった。銀杏並木の途中で曲がると、どういう風な道が続いているのか、どんな景色が目に入って来ているのかまで知らなかった。彼がいつも見ている景色を眺めてみたかった。
 でも、実際にやる気にまではなれない。怪し過ぎる女になってしまうし、そんなことをしてもどうにもならない関係なのは分かっているからだ。
 私のご近所さん。その辺に住んでいる三十歳代。同じ町内の住民でもおかしくない彼。
 彼も実家住まいなら、同じ小学校や中学校だったはずだ。何らかの交流もあったかもしれない。全く覚えがないのだから、その可能性は低いけれど、そうでもおかしくないほど近い距離に住んでいるのに。遠い人。
 私にとっての彼は、遠くにいるどころか、遠くへ歩いて行くのを見ていることしかできない人だ。

 遠くへ行ってしまう、行かせてしまうしかなかった夢。
 私が夢をそうした理由。私の視力がその夢のために足りなくなった。それだけだ。
 知っていた。視力が必要とされること。ちいさい子供が夢見ているだけのことと、まだ片付けられていた頃から。
 それになりたくて。なりたくて。
 テレビを観ることもほとんどなかった。興味を引かれた番組があっても、妹からあらすじを聞くだけで我慢していたし、人気漫画を読むのなんか冗談でないって、学校で読まされる教科書や本だけで充分だって。
 徹底的に自分に規制をすることで、机に向かって勉強する熱意に切り替えた。
 パソコンも必要最低限、テレビゲームをすることなんか考えたこともなかった。明るい歌を聴くのは好きだけれど、細かい文字が並ぶ歌詞カードも見なかった。聴いて覚えればいいって。周りの友だちが持っていた携帯電話だって、メールやネットをするのもよくないし、画面が小さすぎるから、私は持たなかった。
 お父さんが志望していた高校入学合格へのお祝いに買ってあげようか? と言ってくれたのに、私は断わった。可愛げがなかろうと、意地っ張りな奴だな、と言われようと気にしなかった。どうしても。なりたくて。なりたくて。
 家族とだけではなく、クラスメイトとも話が合わなくても構わなかった。
 リビングで家族が会話をしながらテレビを観ていても、私はひとり席を立った。勉強を最優先し、他の時間は必要最低限しか文字は読まなかった。生活サイクルを整え続けた。
 私の家族は、私のなりたい職業の条件を一緒に調べてくれたからよく知っていた。子供の頃は視力がすごくよかったのに、大人になって行くにつれて視力が落ちて行ってしまい、神経質になっていた私の態度を理解もしてくれていた。同年代の友だちまでそうではなかった。クラスメイトと会話が弾むはずもなかった。流行りのテレビドラマを観ないだけではなく、みんなが夢中になっていたアイドルグループも知らなかったくらいだったから、カラオケに行っても、歌える曲なんて限られていた。でも、それで良かった。遊ぶ時間もあまりなかった。
 なにもかもみんな遠くへ行ってしまってよかった。昔からの夢が叶い、希望の職業に自分が就けるのならば。
 でも、なれるとか、なれないとか、専門学校に入って努力をする前に遠くへ行ってしまった。私は、国家資格取得基準を満たせなかったのだ。
 誘惑に負けない、塾に通えなくても諦めない、努力は必ず報われる。自分自身に言い聞かせた。絶対にやりたい仕事があるのだからって。
 夢は遠くへ行ってしまっても、眼鏡をかければ、普段の生活に支障はないのに。一般的に視力は悪い方まで落ちてもいないのに。その職業に適合する人間ではなくなってしまった。国が定めた資格基準に必要とされていた視力に戻れることはない。有名な眼科医に断じられるくらい落ちてしまった。
 高校三年生の夏、だめになった。真っ暗になった。負けない、諦めないから、なんて思うこともやめた。
 子供の頃から大事にして来た長い夢だったのに。絶対に届くことがないほど遠くへ行ってしまったから……。
 思い出すこともないほど、遠くに行かせてしまうしかなかった。諦めた、というわけではないから。
 眼鏡やコンタクトレンズを使わず、良く見える肉眼が必要とされる職業だった。私は高校生の後半までは視力をキープし続けて来た。成長をして、ホルモンバランスの関係がどうしたとか、女の子にはよくある症状だから、日常生活に問題はありませんって。診断まで何か月も予約を待った医師の詳しい説明は抜けて行った。
 学校の成績や生活スタイルに関係がなく、体質的な問題で視力が落ちた私は、適正年齢に達しても努力のしようもなかった。
 だから、遠くへ行ったのだ。
 暗くなってきた空を見上げて家への道を歩き続ける。
 風邪には手洗いうがい。栄養を取って、温かくして寝て。どれだけ予防をしても、引いてしまうことはある。
 誰にでもあること、仕方がないことだと割り切るのなら、視力だってどれだけ努力をしても、落ちることが誰にでもある。仕方がないことなのだ。しょうがないのだ、私はよく頑張った、運が悪かっただけだ。
 彼も同じように夢を遠くにやるしかなくなったら、そういう風に思うだろうか?
 視力が戻ることはないのなら、無理なのだ、わたしではダメなのだ、分かっている。誰にだって同じような理由でどうにもできないことがあるってことくらい。でも、仕方がないと片付けて、終わらせないで。遠くへ行かせてしまわないで。
 私だって彼のように叫びたかった。負けたくなかった。諦めたくなかった。自分だけは認めたくなかった。
 夢へ通じる道への切符を貰えたなら、チャンスを無駄にはしなかった。夢を壊されそうな何かがあったら、彼のように場所も電話の相手の立場も考えず、私だって叫んだ。遠くへ行かせないと、強い思いで夢を追い続けて、どこまでもどれだけでも走り続けて、この手の中に捕まえてみせた。
 あれだけの時間と思いを詰めてきた夢を遠くへ行かせなどしなかった。
 絶対に……。自分から諦めはしなかった。

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