遠くへ (3)

第三話


「あーあ」
 キャラクターが描かれたファッション雑誌の付録のエコバックをぶらぶらとさせながら歩く。
 家まで遠回りをして帰るから、いつもより寒いし、空気が乾燥していると分かって歩いているのだから、こんなことをしていたせいで、彼と同じ型の風邪を引かせてしまって。負けない、諦めない、ひどくても治るのだからって言える風邪を。
 そうでないと、夜空に祈ってしまいそうになる。
 もう一度だけチャンスをください。せめて高校に入った頃に戻して。ホルモン分析専門の病院を訪ねてみるから。悪い夢ならとっとと冷めてしまって。どうかどうか叶えて。
 お願いだから、私を寝込ませて止めて。
 お願いだから、私の心の中にも熱い叫びがあったと思い出させないで。
 目が疲れたと感じたら、保湿の目薬をつけて数回の瞬きをした後、目を閉じて瞼(まぶた)の奥から休めましょう。
 目を使い過ぎたと思ったら、家の窓からでもいいから、外の緑を眺めて、眩しくない空を見上げて、できるだけ遠くを見つめる努力をしましょう。
 ただ目のことを大事にするだけではなくて、栄養のあるものを食べて、きちんと寝る。規則正しい生活を心がけましょう。
 どれも必要のなくなった私の夢は、涙すら目から遠くへと行かせてしまった。
 彼は……。
 なにについてあんなに大声で叫んで電話の相手に訴えていたのか。
 いつもゆっくり歩きながら、心ここにあらず、何か考え込んでいる感じなのは、なにのためなのか。
 彼自身に聞いてみたいけれど、恋愛関係のことかもしれない。彼女との悩みとか片思いの相手の話を聞きたくはない。彼とお友だち関係になりたいわけではない。
「ただいま」
 家の玄関のドアを開けながら考える。彼が言っていた“俺の夢”は、自分の職業に関する夢についてだ。同じように考えて、同じように周りに言って来た私には、同じ熱だと分かる。絶対にそうだ。
 当たっていたら何なのだ? うれしいだけか? あなたは頑張ってね! とでも言うのか?
 違う。そうじゃない。彼に聞いてみたいのだ。語り合ってみたいのだ。なにをどういう風に話したいのか、その会話がどこに向かうものなのか分からないままに。
 バタンとドアを閉め、コンバースのキャンバス地のスニーカーを脱ぎ捨てた。いいの。遠くへ行くから。これも。

 駅。朝の早い時間に電車に乗ってむかう場所はどこ?
 コンビニ、あるいは本屋。あちこちの雑誌を手に取り、表書きから探している記事の特集はなに?
 ドラッグストア。もっと私も同じものを買えるように選んでよ。
 銀杏並木。多くの人たちが行きかう道の途中で曲がると、何が見えるの?

 土曜日になった。今週も何の変化も私になかった。
 風邪をひいても一晩寝れば治ってしまった。夢に大事だった視力は、現代の医学的に解明し切れないホルモンバランスで遠くへ行ってしまっても、夜に熱とひどい咳が出た風邪は、彼が買っていた薬をウィダーインゼリーと飲んで寝て起きたら、マスクも必要がないくらいにケロリと治った。私は、思っていたより元気だった。
 なあんだ。
 彼のおかげでそう思えた。ひさしぶりに昔の夢を追い続けている友だちに会うことにして、駅の傍のファーストフード店で待ち合わせをした。踏切を渡り切ってしまおうとしたのに、カンカンカンと降りてきて立ち止まる。
 彼だ。目が合った。
 踏切でおなじみの黄色と黒の棒。ゆっくりと落ちてくる。むこうに立っている彼。
 知っている。会っている。見かけたことがある。真正面から見たことは、ない。
 カンカンカンと遮断棒が落ちきり、勢いよく電車が走って行った。
 見あげる。赤い線が入った列車が耳障りな音を立ててゆく。遠くまで行く、一時間に数本の急行だ。土曜日はこの時間帯にも走るのか。これが来ると待たされる時間が長い。次に各駅停車も必ず来るからだ。
 風を切って電車が二本とも走って行ってしまい、踏切があがる。
 まだいるよね? こっち側に渡ろうとしていたよね?
 彼は、同じところに立って私を見ていた。
 足が動かなくなるくらい、真っすぐに見つめ合っていた。
 目を細める。目が合っている。気のせいではないよね? 賑やかな学生たちに後ろから押されるようにして踏切を歩き出す。
 ぐるぐると思考がループしていた日々の中で聞いた彼の叫び声。耳の奥に残って消えない。棚越しに見上げた彼の震えているほどの真剣な表情も忘れられない。
 自分の思いのすべてをかけられた夢を、忘れずに大事にしまっておくより、夢を強く追いかけ、熱く語れていた自分自身を遠くへやってしまうことの方が簡単だった。
 運が悪かったのなら、初恋の相手と両想いになれないという恋愛のジンクスのようなものだ。
 風邪をずっと引かないことなど不可能に等しいように。視力が落ちたことだって、高齢になれば、誰にでもあるホルモンバランスの乱れが原因だったのだ。私が悪くないし、誰のせいでもない。どうしようもなかった。
 だから……。彼との距離も遠くへやってしまうことなど簡単だと思っていたのに。
 彼を知った私は、違う形の夢を見てしまうことになった。彼のことを考える、好きなものを知り、何か見つけるたびに彼に語りたくなる、聞いて欲しくなる。そっちはどう? 電話をかけて聞きたくなる。彼の顔を真正面から見たい。私を知って欲しい。ささやかな夢。
 負けないって。諦めないって。大声で言える夢を持って生きている彼はカッコイイ。
 周囲の人からはくだらないと陰口を叩かれることであっても。具体的に形にならない抽象的な夢の形でも。
 踏切を長く待たされた人ごみに混ざり、彼と交差する。腕が触れた。今までで一番近い距離だ。
 今声をかけなければ、私がいた方に行ってしまう。彼への思いも、本当に遠くに行かせてしまうの?
 私たちの間にまだ何もないのに。たくさん努力をした後でもないのに。不可抗力で遠くに行ってしまったわけでもないのに。彼が遠くに行ってしまったのでもなく。なにか言われたわけでもなく。どれでもなにもないままなのに。
 結局、諦めることになるかもしれないから……。
 私は、目標を見失ってから弱虫になった。夢を目指していた強い思いだけは、誰より負けないって言えたのに。
 ダメになることを先に考えてしまって動けない。彼に思いを打ち明けて、ひどいことを言われたら立ち直れなさそうで、怖い。
 今すぐにでもダメになってしまって、いきなり走ってどこかに行ってしまって。自分から逃げたくはないから。
 ハロウィンの飾り付けで賑わっていた高校三年生の今頃、進路指導の先生が勧めてくれた弁当屋に正社員の内定を貰った。レジ研修を淡々と終え、販売員になった。仕方がない。みんな遠くに行った。何度も何年もどれだけでも自分に言い聞かせてやってきた。諦めるしかない、もうだめなのだ。私には子供の頃と同じ夢を見る資格がない。立ち仕事にも慣れて実感をした。泣くこともできなかった。それほどの夢だったのに。
 でも、これは、諦めるのではない。私がはじめから無理だと決めて、遠くへ行かせてしまっているだけのことだ。
「あの!」
 振り返って大声を出す。周りの人たちが振り返ったけれど、私は彼しか見ていなかった。
「わ、わたし、お話したいことがあります!」
 この大声で。こんなところで振り返って、周囲など気にせず、立ち止まっていることで。背の高い彼を必死に見上げている目で。いくらなんでも、私がお話したいことの内容は、子供ではないのだから分かってしまうだろう。
「俺は暇だからいいけれど?」
 腰を折って屈まれる。同じ体制のまま彼を見上げていた。……けれどなに? 笑顔?
 カンカンカンと踏切が下りてくる音がする。
「むこう側に行く?」
 前からの知り合いみたいに聞いてくる。私の話を聞いてくれるの? マスクをしていないから治ったの?
 同じ型の風邪はつらかった。咳が止まらず、喉の奥がひっついて痛くなった。まだ声が出にくいから、どもったし、変な発音になった。
「私は一日で治ったけれど、よくないと思います」
 話したい内容を知っているくせに。なんとなくは、今の叫び声だけでも予想がついているくせに。
 風邪がよくなった、っていう声でも全くないくせに。土曜日にやっているむこうの内科の病院にでも行くところじゃなかったの? 私だって、友だちにひさしぶりに会おうと連絡をしなければ……。今、ここにいない。彼を知らなければ、同士も永遠に遠くへ行かせてしまっていた。
「一日? 話したいこと聞いてもいいと思うよ。俺」
 カンカンカン。穏やかな表情で笑いかけて来る。彼ってこんな顔をしていた?
「立ったままだと、電車がやって来てペシャンコになるよ」
 なぜ、微笑んで私を見下ろすの? 意味が分かっていないの? 今を、分かっていないのは、どっちなの?
 彼に真正面から見つめられると、動けなくなった。
 負けない。諦めない、絶対って。大きな思いをなにのためらいもなく叫べる人を知っている。強気な彼に惹かれた。
「一緒にむこうに行こう」
 彼に促され、隣を歩き出した。それだけで泣きそうになってきて、空を少し見上げた。今日は、びっくりするくらいの快晴だった。
 遠くへ行かせなくていい。目の前の道を見る。少し向こうのところまで行けばいい。
 そうすれば。
 会ったことがある、と言える。話したことがある、と言える。
 自分から彼を諦めるための理由をつけて、遠くへ行かせてしまう必要は、ない。

【おわり】
矢印過去サイト作品・2019改稿版(初稿2008-08)

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