曖昧ゾーン (22)

第七話 - 2 頁


 学校の近くの区役所は、いつも通学に使っている駅の裏側にある。学校から歩いてニ十分くらいかかるけど、駅からなら十数分だ。副担任が先頭に立って男女二十名ほどで移動をした。四角い建物は前に書類を貰いに行った時に一度は入ったことがある。緑が多いこの地域を邪魔しないように深緑に塗られている。リノベーション工事を数年前にしたばかりとあって建物が綺麗だ。きっと最新の設備が揃っているはずだ。
 ここに勤められたら好立地で理想的です。通学にも慣れましたし、家賃も安めだとネット情報にありました。
 役所内をめぐり、一番上の階の会議室で人事を担当しているという年長者の仕事の説明を聞いた。
 佐原君は目の前で頷きながら黙々とメモを取っていた。私は秀美と並んで座っていた。
 やっぱり佐原君の様子は変じゃありませんか? みんなといても元気がないです。この前の日曜日、うちで一緒に勉強して貰った時には、やる気に満ちていましたのに。この説明会で緊張するとも思えません。具合がよくないのですか?
「それでは移動します」
 ホワイトボードの前で説明をしていた年長者が笑顔でドアを開けている。佐原君が私より立ち上がるのが遅い。身体が重そうだ。
 その後は職場の裏側を見た。従業員用の出入り口、ロッカールームや休憩室。佐原君は私の前にいてくれた。
 でも、田村さんたちが熱心に疑問点を話しかけていた。その間に話かけようとしても無理だった。
 区役所の建物の中身は思ったより古かったけど、お手洗いは新しく作り変えられていて清潔でホッとした。壁や柱には、あちこちに周辺案内の地図や注意喚起のポスターが張られていた。お手洗いの中には“自然の資源を大切に”とか書いてあるだけかと思えば、流し台の鏡の横に“正しい手の洗い方”の大きなポスターまであった。
 就職試験の時は、自分の衛生管理面も見られていそうだ。混んでいたのでひとりでお手洗いから出た。
 お手洗いに女子たちは並ぶし、ざわついていた。廊下に出るとまだお昼前だから静かだった。
 秀美が出て来るまで少し座りたい。でも、廊下にベンチは見当たらない。この後の予定は、さっきの裏の出入り口前で就労担当の人が点呼を取って解散するそうだった。周囲の話を聞いていると、その帰る時の挨拶は、ひとりずつに十秒ほど与えられる自己アピールタイムに当たるらしい。館内の地図を眺める。英語で書かれていた。
 エレベーターで登って来ましたけど、三階なので階段で目立たず下ります。廊下の脇まで歩いた。
 企業見学説明会は、営業の男女が明るく話しながら上の人について学生たちが回るイメージでした。でも、実際は人事課の年長者がひとりで話し、端に警護員が立っているだけでした。最後に女性が見送る流れでした。
 その自己アピールは、練習でしょう。セーラー服にスナップで止めているだけの校章入りのネクタイを整えた。
 壁に寄りかかり、そっとため息をつく。三時間の企業見学説明会を舐めていました。
 私の次にお手洗いの列に並んでいた秀美が遅いです。待たされたのでしょうか。混んでいました。
 スーツの女性の方たちも多くいらして、「お疲れ様」と笑顔で声をかけてくれました。自分たち会計課は、九時五時のタイムシフトではなく、三十分早く出社をしており、決算期以外は三十分早く帰るそうだった。お昼休みも早い。その方が食堂も混まない。公務員でも一律ではないのよ、と笑顔で数人が全体に話していた。
 田村さんたちはハキハキと会話をしていましたけど、私は頷くしかできなかった。疲れました。ぐったりです。
 ここの会議室でも前から順番に自己紹介をされると思いませんでした。相変わらず面白味がなく、私が一番短かったです。ですが、学級委員の挨拶で何度もやらされたおかげでどもらず、直立不動の姿勢で声も出せました。
 ホワイトボードの前に三人で並んで座っていた役所の方たちのほうを見て、答えてみてと当たった質問への回答もちゃんとできた。こういう時に試験監督が見たいのは、質問の正解が出せるか否かではない、回答する際の姿勢、周りの聞き取り方だと言っていたので、合格点にできるでしょう。
 人事の年長の男性と、窓口応対の若い女性と、就労担当の三十代の男性の方がいました。覚えている自分に自分で頷いてしまいました。自分なりに本番さながらに頑張ったつもりです。面接時も似ているのでしょう。
 自己アピールはできるに越したことはなかったでしょうけども、本番までにその内容を考えて、それだけは言えるようになっておきます。この場で頑張っても、個人企業でないのですから抜擢までして貰えると思えません。
 私がこの役所を受けられたら全力をかけます。その方がみんなと……。佐原君とも会い続けることが出来ます。
 今日は問題なく過ぎました。自分を自分で褒めたいと思います。
「お疲れ様。このポスターは松岡修造さんだよ。分かる?」
 お手洗いから出て来た年長の女性に笑顔で声をかけられた。頷き返す。ナースサンダルのような靴で階段をあがって行った。
 私が階段脇に来たのは、人気者が宣伝するポスターだらけの壁を見たいからだと捉えられました。
 来年の春、希望通りに行けば、似たような場に勤めている。お手洗いで挨拶をして来てくれたスーツの女性たちの側になる。一年後には自分が就職活動の学生たちを眺めている。懐かしい、自分もあんな風だったと思うのでしょう。いいえ、そのイメージが全く湧きませんし、自分がそうなれる自信が全くありません。
 ああ、就職活動。この四文字を思い浮かべるだけでも、誰だって暗くなります。今はひとりでいたくないです。
 静か過ぎます。他の人たちが出て来ない。さっきの人はお手洗いに並んでいる時に見かけた記憶もありません。もう集合しているのでしょうか? 秀美は探してくれるはずです。私が遅いのですか?
 生徒たちっぽい声が下から聞こえた。階段を覗き込む。やっぱりこの下だ。裏の玄関口に集まっている。リュックを背負い直し、階段を降りる。秀美は分かりませんけど、佐原君はお手洗いからもう出たでしょう。
 ファンクラブの皆さんの壁が厚くて話せませんでした。でも、佐原君への気持ちを認めても、こんな時に彼女面(づら)して隣に立てまでしません。リーダー格でお嬢様の田村さんが怖いです。
「……やめてよね!」
 佐原君の大きい声に階段を降りる足が止まった。誰かと話している。聞こえない。でも、明らかに揉めている。
 また男子? 生徒会のメンバーは私と佐原君以外はいませんでした。
「佐原は古本屋を継げばいいジャン」
「なにを言って」
 相手がこっちを見上げる。クラスの男子だ。佐原君がその視線を追って見上げ、目が合った。
 どこか痛むような表情。少し陰りのある目。前にもドキリとした。長い前髪が揺れてその色を隠してしまう。
 そんな風に見ないでください!
 手すりを両手で握り締めて叫びそうになった。でも、そんなことを言ったら佐原君を傷つける。今だって、なにか言いかけて言葉を飲み込んだから、気にさせている。私がなにか見たり聞いたりしたせいで傷つかないで。
 私は佐原君にアイドルさんのようにいつも笑っていて欲しいのですから……。
「遅れた。おなかの調子が悪かった」
 後から来た秀美を斜めに見上げる。なにも言えなかった。

 点呼をした後は最寄り駅で解散だった。佐原君の後を歩いていた。なにも話さない。
「私、こっちだから。お疲れ」
「またね。お大事にね」
 秀美は顔色が良くなかった。気にすることないというように笑い、手を振って坂道を曲がって行った。
 前を行く佐原君は振り向かなかった。駅の方を見ないし、こっちの方も見ない。私はついて行ってもいいのですか? クラスの男子と揉めてから固い表情をしている。長いこと見て来たけど、そんな佐原君を知らない。
 付き合いが長いわけでもないし、私が秀美のように表情で読み取れない。今は顔を見せてもくれない。さっきは前髪が隠してしまったし、数歩前を今日はずっと歩いている。私がその方がいいのを分かってくれたから……。
 今は二人きりになったから並びたいなんてわがままでしょう! 佐原君は周囲の目は気にしたくないのは知っていましたのに。賑やかな音楽が聞こえて視線をあげた。商店街のカラフルなアーケードの前に着いた。
 はじめてみる。歩みを止めてしまった。造花や提灯(ちょうちん)が下がっている。まるでお祭りのようだ。
 佐原君は立ち止まらず歩いている。きっと私がお店を見たいと思ってくれているのでしょうけど、違います。
 田村さんたちは、就職活動を全員が第一希望にしていないから、学校に戻ると佐原君にだけ喋っていた。佐原君のお家が経営するお店の詳細を知っていましたか。佐原君はその時も彼女たちに頷いて返しただけだった。
 秀美が別の道へ帰る時だって、頷いてはいた。佐原君は無視をしたり、急に嫌な態度を取ったり、知らん顔をしたりできない人なのです。今、話しかけないと行ってしまう。言葉にしなければ勘違いをされたままだ。
「さ、佐原君、喫茶店ででも話さない?」
 佐原君は数歩前で斜めに振り返った。やっと止まってくれた。暗い視線。睨まれているようだ。
「ここ喫茶店じゃないの?」
 アーケードのすぐ横のちいさいお店を指さした。薄暗いガラス戸の脇にパスタや飲み物の食玩(しょくがん)が並んでいる。
 頷いている。そう言えばあったとでも言いたげにそっちを見ないでください。
 カランカランと鐘の値がしてドアが開いた。昔のドラマのようだ。ヒョウ柄のシャツの男性が出て来て店内が見えた。キッチン前のカウンターとソファー席。「毎度」と声をかけ、レジを叩いているのは、はげたマスター。
 外観だけでなく、内装もレトロな喫茶店だ。コーヒーのにおいが漂う。入ってみたいです。
「おお、俊行。もう帰りなのか。コーヒーを奢ってやるぞ」
 体格のいい男性が笑顔で喋り、こっちを見て来た。
「お嬢ちゃんは俊行の彼女か?」
 屈んで聞かれる。ニコニコの表情。近い。視線をそらしてしまった。足元はジーンズにサンダル。失礼です!
「はい。鵜飼サトコです」
 佐原君はこっちを見てもくれないけど、ここで否定をするとまた気にされる。不機嫌になってしまう。
「おー。はっきりしているなあ」
 変わらない笑顔にほっとした。気さくでいい人そうだ。
「あの、本屋さんの」
「そうそう。サハラ古書店の店長。お嬢ちゃんは買いに来てくれたことがあったか?」
「いいえ」
「君は正直だなあ。うちは買い取りセール中だぞ。俺と俊行しかいないからなあ。経営者が自ら配っていたぞ」
 レジ袋と同じ形のエコバックをごそごそとやり、腕に下げていた革のジャンパーを乱暴に脇にやり、食パンやコーヒー豆の下からカラーのチラシを出して渡される。
“本やCDだけでなく、おもちゃや機械の中古品まで買い取ります! 今なら合計額より10%増し!”
 黄色の紙にオレンジの文字が浮かんでいる。いかにも手作りで暖かい。正しい店名を頭に叩き込んだ。
「今日は学校が早い日なのか?」
「就職活動の日だと言ったよ」
「早い時間に終わるって父さんは聞いていないぞ。この店はお嬢ちゃんの好みでないか? うちに来て貰えばいいじゃないか。ケーキくらい買ってやるぞ」
「ここのはまずい」
「マスターに失礼だろう。お前はなあ、反抗期だからってなあ」
「もういい。ちょっと来て」
 腕を引っ張られた。佐原君が私に言っていると思わず、軽くこけて歩かされた。アーケードを戻っている。
「サトコちゃん、またおいで!」
 エコバックを左右に振って音を立て、手を振っている。お辞儀を返した。頷き返して笑い返してくれた。佐原君の微笑みに似ていた。笑顔で押しつけて来なくて、涼しげでさわやかだ。どことなく寂しさも漂っている……。
「もう見なくていいよ。なにあの恰好」
 眉間にしわを寄せて嫌そうに言われる。急にいつも通りに話しかけられると、同じように返したくなくなった。
 様子が変だったから心配していましたのに。本屋さんの店長さんは、お昼休みだったのは分かっています。お店に戻ったらエプロンをつけて出来上がりでしょう。
 佐原君は私の手を引っ張ってぐんぐんと歩いている。もう少し佐原君のお父さんと話してみたかったです。
 そう言ったら、またにらまれてしまいそうです。でも……。握られた手の指を強める。振り返りもせずに握り返してくれた。そっと微笑む。でも、にらまれても、うれしいかもしれない。
 今日は特別だ。いつも笑っている佐原君の、誰も知らないかのような一面も知れることができたのだから。

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