曖昧ゾーン (23)

第七話 - 3 頁


 手をつないで見知った道を戻った。自習時間の学校に行ってみるのかと思えば、隣の桜の記念公園に入った。
 出入り口の傍にあった自販機でオレンジジュースのペットボトルを買ってくれた。手に持つと冷たい。
「佐原君は?」
「缶コーヒー。サトコも飲めた?」
「失礼です。ブラックでは飲めませんけど、おいしいとは思います」
「やっぱり」
 ちょっと笑われ、また手をつないで歩いた。黙って前をまた歩き続けた。中央広場を超えて、更に歩いていた。
 佐原君は手を放し、目の前の球体の遊具を回している。キイキイと音を立てている。
 人がいないから金属音が妙に耳に響いた。佐原君は赤と青と白のカラフルな遊具をじっと眺めていた。
 目を細めてため息をついている。どこか疲れて寂しげな表情。こんな時の佐原君は扱いにくいなんて思ってしまう。ひどい自分がいる。でも、重いなんてことはない。私が佐原君の力になれるのならなりたい。
 ――サトコが俺のことをもっと好きになってくれたら救われる。
 思っていることは伝えないと、手遅れになるかもしれない。
「これはなんていうもの?」
「地球儀だよ。サトコも登ろうよ」
 斜めがけバックを後ろにやり、佐原君は丸い球体によじ登っている。ここって……。
 私がラブレターに指定をした待ち合わせ場所の近くだ。誰かに見つかる前に帰ろうとしていた時、うちの学校の不良たちがこの遊具を回して飛び降りて遊んでいたはずだ。なんてことでしょう! もう忘れていました。
「サトコ!」
 上からの叫び声に首を振る。今度はどうしましたか。そんなに名前を呼び捨てて連発しないでください。
「ブランコにしましょう……」
 向こうのほうに見えます。ちょうどカップルが遊んでいます。
「もう登っちゃった。いい天気だよ」
 アハハと笑って、青空を見上げている。視線がおりてくる。目が合って頷かれる。いつものような笑顔だけど、違う。固い。真剣さが混ざっている。なにか話したいのは分かる。
 頷き返して、セーラー服にリュックを背負ってよじ登った。運動神経ゼロの私は、佐原君のように素早く手足を動かせないし、必死な登り方が可愛くもないと思ってしまいました。グラグラする。てっぺんまで、まだある。
 なんとか隣に座った。思ったより大変でした。同じように空を見上げる。綺麗な水色だ。佐原君の好きな色。
 ペットボトルを取られ、ふたを開けてくれている。口に含むのをじっと見られる。なにか話さないと。
「これは地球儀って呼ぶのは、はじめて知った」
 上からだとブランコより奥に滑り台やシーソーも見えた。うちの方の公園にこんなに遊具が置かれていません。
「母がそう言っていた」
 へえ。まさにポカポカ日和だ。黙って空を見上げている佐原君の横顔を見る。私が隣にいても同じ表情だ。
「さっき親父が二人だと言っていたでしょう?」
「お店の番を佐原君もすることがあるイメージは持っていたから」
「親父はそう言っていたのだけど、うちのは儲かっていないから離婚をしている」
 間近で目が合った。また視線をそらすのは、許さないというように目を細められる。
 ――俺と俊行しかいないからなあ……。
 お父さんは私を素直だと褒めて話してくれたのに。ちゃんと聞いていなかった。今の質問は単なる話題でした。
「儲かっていないなんて。私は本屋さんだと思っていたけど、関係がないから!」
 強く言った。手で持っているペットボトルの中身がこぼれそうになった。もう片方の手で地球儀の円を描いている鉄を握りしめる。ポケットの中で佐原君のお父さんがくれたチラシがカサカサとなる。佐原君の細められた目の色は明るくならない。私の言葉は本音として聞こえていますか。
「俺が否定をしなかったよ」
「違うよ。私はそんなつもりで言っていない。永岡君のことも友達からなんか聞いていたけど、ちゃんと言われるまで知らなかっただけなの。うちの父だって、スーパーの雇われの店長なだけだから」
「ストップ」
 手を握られた。鉄を握りしめていた上から強く。
「でも……」
「サトコが言っている、そんなつもりはなかったっていうのは、お金のことでないのは分かっている」
 頷く。でも、佐原君が経済面を気にしたのは分かりました。公香も私と二人の時に永岡家の話をしていました。
 うちは、それなりの家に見えましたか? 私が生まれた時に新築の建売住宅を買ったそうですから、古くありません。両親は三十坪以上の土地とマイカーがあると親類縁者に自慢をしているほどです。でも、余裕がある暮らしをしていません。食材はスーパーの残りですし、父の接客業を理由に祖父母が住む田舎へしか旅しません。
「お店を見たかったわけでもないから」
「分かっている。サトコは店と家は別のイメージだったでしょ。大村の花屋はそうだよ」
「知りません。関係がないから」
「関係がある風だった!」
 頭をペシリとされた。ペットボトルを持った手の甲で抑える。今のデコピンは痛かったです。そんなに大村君を気にしているように見えましたか。確かに気にしてはいました。
「お、大村君のお家が同じ商店街のお花屋さんなのも知らないから」
「俺の言いたいことは違うよ。大村の家は、永岡と同じマンションの一室にある。そう聞くと、お金持ちだとも思うでしょ」
「分からないけど、噂ではね!」
「女子って、すぐ噂話が回るよね」
「わ、私は本当に大村君や永岡君は怖かったの。目をつけられたくなかったから」
「モトカレも怖かったしね」
「やめてください!」
「うん。もうやめてあげるよ」
 おでこを撫でられる。キスをされる。斜めに角度を変えて上唇をかまれる。握りしめられた手が強くなり、ペットボトルの中身がこぼれた。何度も唇をやわらかくかまれた。これで言わないであげる、と言い含めるように。
「うちは店が一階、住居が二階にある。いきなりぼろい古本屋を見たらビックリするよ」
 微笑まれる。ホッとする。でも、笑い返せないし、どう言葉を返していいのかも分からない。
 顔を離されて息をついた。オレンジジュースを飲むのを面白そうに見ていないでください。
 お家を見たかったのでもない。佐原君が話してくれなかったから……。
 目が合った時、そう言ってしまいそうになった。佐原君は手を握って私が何か返すのを待ってくれていた。
 でも、これも違う……。自分から話しかければよかった。でも、できなかった。いつもと佐原君の態度が違っていたから、距離を取りたいのだったらって思うと怖かった。
 キスされる前にそういうべきでした。自己弁護を語りました。佐原君は私に驚いて欲しくなかったのですか?
「お家に案内をしてくれるつもりだったの?」
「だから、案内するほどの広さはないよ」
「ビックリまでしないから」
「気にしないかもしれなくてもね、俺はうちが古本屋とすら言いたくなかった。格好悪いでしょ」
 いつものように笑って話している。さわやかでこの青空に似合う笑顔だ。確かに佐原君には、古本屋の店番をする姿は似合わないかもしれない。でも、佐原君にとっては、ずっと当たり前のことだったのは分かります。今日もこの前もその家業の意味合いを込めて、周囲に嫌な風に言われていたのですね。
「サトコに嘘をついていた。ごめん」
 目を真っすぐに見たまま謝られる。首を振った。
「商店街に行ったこともないのに、私も話していたから……」
「教科書の話題からでしょう? あれは本当。うちも近隣の学校に商店街の加盟店として入れている。普通の本屋の経営もできる。でも、店で販売をしていないし、ネットも父がうといから力を入れていない。俺が何も言わなかったから、大場さんにも気にさせちゃった。永岡はまずいからね」
 公香が三人で帰った時、なにか言いたそうだった。私が佐原君のお家は古本屋だと思っていなかったからだ。
 あの時、永岡君の話をしていましたか? 記憶にありませんけど、佐原君はそう取ったのですね。親友ができたら、うれしいものだと考えていました。仲良くしていても、相手にその呼び方が喜ばれるかは別問題でした。怒らせるとお店がどうなるか分からないほどの力があるのですか。そんな方は魅力的に思えません。
「サトコが言いたくない気持ちも分かる」
 目を強く見たまま言われた。手が痛いほど握られる。それを言うために、ここまで登って向き合ってくれた。
 地球儀の遊具の周りに群れていた鳩たちが空へ飛んでいく。子供たちが賑やかにやってきた。
 佐原君は鳥たちを追って青空を寂しそうに見上げている。私の言いたくないことと、佐原君の言いたくないことの重さは全く違います。そんな風に見ていないで、今も言いたいです。
「私はね、佐原君にムカつくほど笑っていて欲しい。アイドルさんみたいに」
「なんだよそれ」
 不満そうに見られる。でも、佐原君に暗い表情は似合わない。ムカつくほどアイドルさんのようにいつも笑顔でいて欲しい。相手がどう思おうと関係がないではありませんか。私はその笑顔に励まされてきました。
「俺が話したからサトコも話してと言っていない。だから、大丈夫だよってこと」
 にっこりとして、勢いよく飛び降りた。
「おいで!」
 下で叫んでいる。いえ、私も飛び降りられるわけがないでしょう? でも、そうです。そういう笑顔です。
 佐原君に背中を向け、なんとか降りた。私の姿が格好いいなんてあるわけもないですけど、みっともなくはなかったと思う。ペットボトルのふたをつけてくれる。
「いじわるだよね」
「今更、気が付いたの? アイドルに騙されるタイプだよ」
 また面白そうに笑って、抱きしめられる。ぬくもりが伝わる。はじめは不安だったのに安心する温度になる。
 身体に回された腕にあいた方の手を重ねた。抱きしめられる両腕の力が強くなる。今が続いていけばいい。
「帰ろう。うちは汚い部屋の整理をしたら案内する」
 少し恥ずかしそうに見て来て、女の子みたいなことを言っている。
「やっと笑った」
 うれしそうに手を引っ張られる。私に笑って欲しい? 私が佐原君に笑っていて欲しいように。
 視線をあげる。やわらかい風が吹いてきた。周りで鬼ごっこをして笑う子供たち、水色の空を旋回する鳥たちにすら、笑いかけたくなった。

 駅前で佐原家まで訪ねられなかったお詫びにコロッケを買って貰った。
「もっと高いものを買ってあげるのに。こんなものでいいの?」
「こういうことがしてみたかったから」
「ふうん」
 よく分からないという顔を向けられ、ベンチに腰掛けて食べていた。うちの学校の生徒たちはとっくに帰っているから、駅前に制服の人たちはあまりいない。でも、もう誰に見られてもいい。分かって欲しい。
「たまごっちを大事にするのも、揚げたてのコロッケを並んで食べるのも、対象年齢が六歳だよね」
 佐原君を睨んでしまった。笑えない。面白そうに見られて笑っている。まだ意地悪を喜べまでしません。
 お爺さんが“揚げたてだよ!”と駅の傍のお店でいつも呼びかけているコロッケをかじる。
 よくうちの学校帰りのカップルが食べてじゃれあっている。私のような凡人には恐れ多い行為でしたけども、今日はやります。サクッとしていておいしい。
「あつい……」
 紙に包んだコロッケは、手に握っていてもやけどをしそうだったから冷ましていましたのに。
 隣で佐原君は口を大きく開けた私を見ていた。ゆるく微笑まれた顔は近かったけど、すごくやさしかった。
「サトコが考えていることって面白そうだよね」
 どこがですか? 今は楽しいです。じっと見てくれているのだからそう言いなさい。言えません。
「遠足まであと何日だと思う?」
「あと二日なのは分かっているから」
「うん。帰ったら生徒会のプリントを頭に入れておいてね」
 頷いた。隣で腕が触れるだけでドキドキとしてしまう。対象年齢六歳の私が考えることは想像が難しいですね。
「そうしてくれないと、またサトコが井野さんたちに文句を言われるよ。今度、揉めたらちゃんと呼んでね」
「今言わなくても……」
 コロッケを甘いオレンジジュースで飲み込んで隣を見ると、真剣な顔を向けられていた。
「楽しみだね」
 耳元でささやかれた。すぐに返事を返せない。やわらかいかい表情だった。私が佐原君を不安にさせた……。
「うん。一緒に江の島を回ろう」
 佐原君の目から逸らさず、心を込めて頷いた。
「良かった。アイドルさんは遠いなんて言われたら落ち込むよ」
 やさしい声で笑って頭を撫でられる。今までの私は一緒にいても迷惑そうでした。直接、そう聞かれたら否定をしていても、どこか距離を保っていました。佐原君が気づいていないわけがありませんのに。
「今日はここまでで大丈夫」
 改札口の前で言った。佐原君が斜めがけの鞄から定期入れを出す前に言わないと、またチャージをしてしまう。
「えー。送って行ってあげるよ」
 不満そうに唇を尖らせている。やっぱり表情にすぐ出る人だ。でも、うちまで送って貰うと、お金がかかる。今もコロッケを買って貰ったし、ジュースはいつも奢って貰っている。鈴木君はもう見かけませんから……。
「なにを考えているの?」
 覗き込まれる。視線が鋭くなっている。少しやましい心の中を読まれたかのようだ。
「公務員試験の模試の申し込みを学校でして帰る予定だったのだけど、お金を貰ってくるのを忘れたから」
「いつ?」
「ゴールデンウイーク中に校内で受けられるやつ」
「あー。一緒に受けよう。模試は学校で申し込めるのだから高くもないでしょ。英検や漢検と同じで各公立の高校に割り振られる試験だよ。受験番号が近くないと、別の会場になっちゃうかもよ」
「知らなかった。今思い出したから」
 嘘じゃありません。強く見返せます。佐原君が帰りに学校に寄ると考えていた理由も思い出しました。
「そっか。俺はその模試を受ける予定はなかった。サトコは心配性なのにのんきだよね。うちは月のお小遣いに三万円も貰っている。多い方だからあまり気にしないでね。傷つくでしょ」
 また不機嫌な顔。気にして欲しいのか欲しくないのかどっちなのですか。そのお小遣いは、お父さんはお仕事で外出が多いのですから、お弁当とか買うのは分かります。ひとりきりでご飯ですか。考えると胸が痛いです。
「また! ひとりで考えてすぐ落ち込む」
 抱きしめられそうな距離に来て言われる。今はやめてください。首を振った。佐原君の言っていることはおかしいです。私が考えていることは面白そうだと言ってくれていました。
「帰ったら電話をするね」
「そうして。なにかあったら、すぐに電話をして。気になるから。行事が続くけど、連休が明けたら就職活動が本番になる。夏休みが空けたら公務員試験だ。模試もすぐでしょう。またその帰りにコロッケを食べよう」
「うれしい」
「俺の奢りだから?」
 屈んで睨まれる。思わず一歩、後ろに下がってしまった。手首を軽く握られる。キスができそうな距離です。
「そ、それもありますけど、佐原君に電話ができる立場になったことが一番うれしいです」
「分かった。明日の朝の十時に生徒会室」
「また明日」
「また寝坊しないでね! バイバイ!」
 バイバイと繰り返されて何度も頷いた。手を振り、振り向かれ、振り替えされる。笑顔でいようと思わなくても、笑顔に笑顔を返せる。ここまででいい。ここまでがずっと続けばいい。ずっとは無理でも一日でも長く……。
 こんな私にアイドルさんは遠いものなのです。

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