曖昧ゾーン (21)

第七話 おはようございます


 金曜日の朝は秀美と公香と話し合って、いつもより早く登校をした。
 同じ学年が揃う校舎の四階まで上がると、どの教室からもザワザワとした話し声や机を動かす音が聞こえた。
 全体がもっと早くから学校に来ていて落ち着かない様子だった。五組の教室に入ると、女子たちは仲のいい者同士で机を合わせ、就職活動向けの参考書を広げて勉強をしたり、新聞のスクラップノートを広げたり、何らかの情報交換をしたりしていたし、男子の多くは飲食を取っていた。
 私たちは出遅れていた。旧校舎の自販機でジュースを買って来たからではなく、三十分は他の人たちより行動が遅かった。私の机に鞄を置いてクラス内を見渡していた。卒業後の進路は就職希望者を集めた五組を実感した。
「皆さん、おはようございます」
 目の前の扉から佐原君が入って来た。低い声ではっきりと挨拶をされ、真面目で固い表情のまま見下ろされる。
「……おはようございます」
 佐原君がなにか言いたげに見て来たけど、後ろから入って来た男子たちに押されている。
「企業見学説明会、頑張ろう」
 どうかしましたか? 目を見て頷くと、頷き返された。佐原君はそれだけ言って姿勢よく歩いて行った。
 振り返る。中央の席の机に鞄を置いて中身を確認している。ケンゴ君がいる賑やかな輪に加わらないのですか。
 目がちゃんと合いませんでした。あれだけ敬語で話すのを嫌っていましたのに。今日は違うのですか。就職活動用ですか。視線も話し方も私ができていませんけど……。
「佐原君の様子がおかしくない?」
 斜め前に立っていた秀美と公香と目が合った。
「のろけですか」
 秀美まで敬語で返さないでください。嫌そうに睨んでも来ないでください。
「ちがう……」
 いつもの佐原君なら、みんな一緒の公務員志願だった? よろしく、なんて笑顔で言ってくれました。
「あの人はいつも変だよ」
 朝に弱い公香は、教室でアンパンを食べている。さっきの挨拶で真面目に今日はやろうと私に示したのなら、ひとことあってもよさそうです。
「あの人って……」
「この前なんか休み時間に公務員試験の問題をスラスラと解いていた」
 公香はパンを食べ切り、もう片方の手に持っていたストローを指したパックのお茶をごくごくと飲んでいる。
「佐原君はすごいから」
「すごいっていうより、不気味だね。私の好みじゃないから平気だよ」
 にっといつものように笑いかけられる。私がいつ公香と三角関係になるかもしれないと心配をしているように見えましたか?
「皆さん、聞いて下さい。安達先生と副担任の小池先生は、話しが長くなるそうですが、始業の十分前にはいらっしゃいます。朝ご飯を食べている人たちが多いですけど、ルール違反なので早く切り上げてください」
 佐原君は自分の机の上に文房具を出した後、両手をついて発言をしている。あ、学級日誌が見える。
「マジかよ!」
「やる気があるから朝早くに来たのだろ?」
「学級委員だからってチクルな!」
「静かにして下さい。五組の皆さんは、規則正しい生活を今から送らないと就職活動もうまく行きません」
 佐原君はクラスメイトの野次(やじ)をきびきびと遮り、椅子を引いて座り、参考書を開いている。
 皆さん……。さっき教室に入って来た時もそう言っていました。私を見ていても、その後ろも見ていました。
 この前の生徒会の帰りに学級日誌を出しに行って貰った時、企業見学説明会の朝は職員室に来て欲しいと担任に言われたのでしょう。担任たちは「どちらか一人が来ればいいから」と言わず、「佐原が来てくれればいいから」と言ったに違いありません。私には用がないのです。なにか話がある態度も見せませんでした。
 四十代の担任と若い女性の副担任のどちらとも、頼りになる佐原君を捕まえて、指示を出しておけば物事が滞りなく進む、彼が学級委員にくじ引きで選ばれてよかった、などと話し合っている様子が軽く想像できます。
 手に持っていたジュースのパックを潰す。ルール違反を私もしていました。
「公香、一緒に捨てて来るのでゴミをください」
 頷きながら、お茶を飲見続けないでください。残り少ないでしょう。机の上に置いていたパックを手に取る。
「寝坊した。社会人なら失格と言われそうだけど、今日は間に合わせたし、みんな食べていた」
 分かっています。私も寝坊してしまい、朝食の卵料理とスープを省き、パンと牛乳だけで済ませて来ました。
 二人と下駄箱で一緒になり、教室に来る前にツブツブ入りのミカンジュースを買って飲みたかったのです。
 お腹が空いていては三時間の予定の企業見学説明会が持ちません。公香からパックを受け取って手に持つと秀美にも同じミカンジュースのパックを手渡される。ちゃっかりしています。

「サトコ、ありがとう。学級委員がチクルってどういう風にするの?」
 捨てて戻ってくると、公香に聞かれた。首を傾げる。今私もルール違反者のひとりだとは思ったのです。
「予告より先生方が早く来ると言わないとならなくなります。食べていたのは誰かと聞かれると……」
 公香の丸い目を見つめて頷く。私は友だちを売りません。答えたくありませんと言えばいいでしょうか。
「その質問はない! 教師が横暴」
「小池先生なら聞きそうです」
「同意見。お分かりですかぁ? って、ぶりっ子にさぁ。もう点数付けが始まっているのかぁ」
 公香は小池先生の真似をして両手を胸の前で組み、くねくねとしてみている。よく似ています。そんな特技があったのを知りませんでした。
「副担任は私も嫌い。サトコがはっきりそう言うのもいつもと違う」
 秀美にからかうように笑われる。私が田村さんたちにイイコぶっているとまで言われる所以(ゆえん)ですね。
「安達先生は学級委員の報告に行っても、私に振り返ってもくれないから」
 椅子をちょっとも回さない太い背中を思い出すと腹が立ちます。学級委員のお仕事はムリです、と言いたかったです。自分がくじ引きで選出すると決めたのでしょう。担任は嫌いになりました。ただでさえ数学は嫌いです。
「私も目が合った記憶がないよ。テストの点数で判断をしているらしい」
「だな! 佐原は気にしたわけだな。進歩だよ」
 秀美に肩を叩かれ、頷き返し、席に座った。佐原君は担任の分析もできているに決まっています。それだけ教師たちと多く関わって来ているのです。就職活動のマニュアル本を開く。頭に入るわけがない。ブルーのマーカーが滲みそうだ。嫌な役回りをひとりでさせてしまいました。でも、そんなことまで担任に私が聞かれたら、答えませんと職員室でも憤ってしまいました。誰がやっていたかなんて言えるわけがないでしょう……。
 佐原君なら教師に聞かれたことを淡々と答えそうでした。そうでないとやれない仕事もあるのです。ぎゅっと分厚い本の両脇を握り締める。せっかくその場からそっと外してくれたのに、色々と考えていたら違います。
 佐原君の様子の違いから、先生たちに嫌な質問をされたと気が付いただけでも進歩。佐原君が私を気遣ってその場に加えないでいてくれたと分かったのも進歩。私が公香の回答に返せたのも、私たちの変化する関係も進歩。
 秀美が言ってくれたようによく思おう。佐原君の好意を無にする発言や行動だけはしたくないから……。

 担任と副担任は予告通りに始業十分前に教室に来た。
 お昼以外は校内で取るのは禁止、飲み物を取るだけなら休み時間は許可している。自己管理能力は諸君のこの先に一番大切なことだ、いつも通り過ごせば問題のない自分の日常の確立をしなさい。次に誰かが違反をした場合、クラス責任として全員に反省文を書いて貰う、内申点に響くのは付け足す必要もないだろう、と言っていた。
 ルール違反者を注意し合えと言いますか。学級委員だけに任せないでくださいとは思いましたが……。
 みんな内心で怒っていた。沈黙の空気がピリピリしていた。担任は教壇でお説教だけして下がり、副担任からの聞き取りにくい説明は事前に配布をされていた冊子の概略に過ぎなかった。英語のグラマーも嫌いになりそうです。
 あっという間に十時になり、移動の時間になった。他のクラスでも就職活動を視野に入れている生徒たちが五組の教室に集まり、希望の業種ごとに分かれて移動となった。残る生徒たちは教室で自習。受験勉強に備えるそうだ。いよいよ最終学年の本番だ。教師の説明に対して、生徒間で言葉が交わされなくても空気で伝わって来た。
 公務員の希望者は予想以上に多かった。三人の中で公香だけは接客業を希望している。向こうで手を振っている。ケンゴ君はいましたか。
「田村ってお嬢様だからこのクラスなの?」
 隣に立っていた秀美に耳元で囁かれる。田村さんがお堅い公務員を希望すると思いませんでした。
「お家の仕事を手伝えばいいなら羨ましいかと」
「サトコも知っていたのか」
「どう見てもお嬢様の風格です」
「持ち物からして違うよな。祖父が建築士かなんだよね。てっきりその手の専門学校に行くのだと思っていた」
 思わず秀美を見上げてしまった。なにだ? というように見返されてしまった。
「一緒に勤めたくはないです」
「サトコも言うようになったな。あいつらと同じ職場は嫌だな」
 頷く。田村さんはいつもの五人組で輪を作り、その中心になって話している。建築士……。佐原君は不動産や建築関連の仕事に就きたいと言っていました。佐原君の希望を踏まえての就職組なのでは? 考え過ぎですか。
「移動します!」
 佐原君が中央で声をかけている。私が近くにいても、田村さんとは目も合いません。良かったです。

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