曖昧ゾーン (20)

第六話 - 3 頁


 翌日の火曜日は朝から平和に過ぎた。下駄箱の中にくだらない落書きの紙切れが入っていただけだった。
 ぐしゃりと丸めてリュックに押し込み履き替えていた時、秀美と公香が来た。
「おー、サトコ。今日は早いなあ」
 いつも通りの秀美に笑った。公香が後ろからなにか言いたそうに見ていた。目が合ったら肩をすくめられた。
「二人がいつもより遅いから」
「私が寝坊した。理科の課題が難し過ぎた」
 秀美の答えに頷いた。右に同じです。三人で並んで歩くと秀美は頭一つ分だけ背が高い。そっと斜めに見上げる。顔色は良い。生理痛もあったのでしょうけど、恋する乙女の諸事情ってやつだったのですね。

 今週いっぱいは放課後に掃除当番だ。今日は秀美もいた。名前の順の当番だから三人で一緒なのだ。
 じゃんけんに負けてゴミ捨てに図書館と体育館の間の西門の方まで行っていたら遅くなった。佐原君から受け取ったプリントが入ったフォルダーと筆記用具を手に持ち、リュックもしょって生徒会室にひとりで向かった。
 ああ、落書きの犯人が早く飽きてくれないと重い荷物を常に背負って持ち歩くことになる。
「失礼します。掃除当番で遅れました」
 生徒会室にノックをして入ると佐原君が手を振ってくれた。
「鵜飼さんこっち!」
 声もかけてくれた。頷いて歩き出した。全体がこの前と同じような席配置だった。佐原君の隣の一番後ろの机の空いた席に座った。
 今日の会合は各学年で春の遠足が近いから、クラスごとに分担作業を行うことになっていた。プリントの裏面の予定表にあった通りに進んでいるようだった。文字の方が多いと、せっかく表にまとめていても目につかない。
 両面印刷にするのなら表面の四角く折り曲げても見える位置にまとめの表を置いた方がいいと思いました。今後のために覚えておきましょう。しおりの係なのですから、参考にさせて貰います。
 佐原君は机を向かいになるように合わせてくれた。佐原君が当然のように私の席を作ってくれる。なんて贅沢なのでしょう。その向かいの机の荷物かけにリュックをひっかけた。私が座っても周囲の視線を感じない。磯さんが顔を上げて目を合わせて来てくれた。微笑んでペコリと挨拶をしてくれる。同じように返せた。
 今までの私だったらペコリともすぐ出来ず仕舞い(じまい)でした。大進歩です。教室に入って来る時に声もちゃんと出せました。それだけでも自分を褒めたいくらいです。こっちの方が自分のクラスの教室にいるよりほっとする。あれだけお花見会で揉めましたのに。どういうことでしょう。
「しおりの内容は俺がレポート用紙にまとめて行くから、鵜飼さんはレイアウトを考えて清書をして」
 なんですと? 佐原君にデッサン帳を渡される。周りを見渡すと同じように男女で仲良く分担作業をしている。
 この前に揉めた新藤君と三橋君は、前の方の席で女子たちと四人で机を合わせて笑い合い、楽しそうだ。
 できるだけそっちを見ないようにして歩いて来ました。佐原君が鎌倉の観光ガイドブックや地図を捲り、ボールペンでレポート用紙に黙々と書きつけている中、視線をそっと上げる。今は生徒会長と井野さんが隣り合っている端の席をチラチラと見ている人が多い。ノートパソコンをそこだけが貸し出して使えるのかという視線でしょうか? こっちの方は見てもいない。結局、なにだったのですか? まだ佐原君に謝りなさいと言いたいです。でも、私の悪口を言われたわけではないですし、佐原君がケンカにも強いと分かったので、私が出ると余計なお世話になるのは目に見えています。気になりますけど、あの揉め事は忘れるように努力をします。
 ペンケースから文房具を取り出した。この場に秀美や公香が一緒に来られないから寂しいけど、田村さんたちの視線を全く気にしなくていいから気が少し軽くなる。彼女たちと仲がいい人もいませんし、佐原君が出来過ぎるから嫌われているくらいでした。生徒会には私が知らないだけで、校内で目立っている人たちが揃っている。
 佐原君と私が仲良くしていても重視されない。カップルで役員をしている人たちが多いのもやっと分かった。
 だからこの空気が楽だったのです。佐原君と向き合って生徒会の輪の中にいられる。
 顧問の奥村先生がスーツで入って来た。理科の教師のトレードマークの白衣を羽織っていないと別人のようだ。
 生徒会長が立ち上がり黒板の前で話しだした。井野さんがプリントを前の列に置いてまた配っていっている。
「肥田、俺が来てから始めるのか」
 先生に生徒会長が肩をボールペンで小突かれている。小さくうけた。自分も一緒に笑えた。今までは全体が真面目にやっていました。先生が来てからの方が賑やかになるっておかしいです。信じられない光景です。
 学年ごとのクラス順にここまでにまとめた内容の概略の発言をして行っている。取り組み出したばかりです。
 うちのクラスは担任の語りだけでホームルームが終わりました。卒業遠足に関して意見は出なかった。
 順番になると、目が合って微笑まれた。佐原君が立ち上がって発言をしてくれる。やっぱり頼りにしています。

 帰りに生徒会室にペンケースを忘れて取りに戻った。私って鈍くさい。また佐原君に提出係を任せてしまった。
 担任の安達先生には佐原君に頼りきりの私が報告がてら持って行くべきですのに。どう見てもそれも苦手そうでしょうけど……。
 まだ残って作業をしている人たちがいるから明かりがついている。引き戸を開け、思わず後ずさりをした。
 大村君と磯さんが黒板の前で抱き締め合い、キスをしていた。うわあ……。
 当たり前だ。驚くことではない。いいえ、なにも当たり前ではありません。二人が付き合っていたとは思えません。大村君はペアの磯さんに対してひどい扱いでした。それも意味があったのですか? 大きなお世話でもこんな所で……。深いキスだ。
 心臓がバクバクとした。数歩後ろに下がったら上履きが滑り、リュックとの重力で身体が後ろに行った。
「危ないよ」
 佐原君に後ろから抱き締められる。ちょ、ちょっと待ってください。この上履きは新しいから滑っただけです。
「誰かいるの?」
 教室の中でガタリと音がした。私は首を振っているのに。ドアの隙間から覗いて止まっている。
 どうしましたか? 俯いたままの顔を覗き込むと、そのままそっと抱き締められた。正面で心臓の音が重なる。
 唇が首の筋に息を吐きながら弱く触れて滑り、顔をうずめられる。もう消えてしまった跡の辺りにカーディガンの上から強く顔を押し付けられているのが分かると、ゾクリと感じて引き寄せられた。
 肩に弱く腕を回された力。佐原君のゆるい息遣い。全体から伝わって来る。震えるような……。どうして。
「さ……」
「もう少しだけ」
 耳元で囁かれる。髪の毛をやさしく撫でてくれても、佐原君と同じように頭を肩にうずめられない。
 私はどうして? と聞かれても話せない。話したくない。だから……。震えている理由を聞けないのです。
 うれしい毎日なのに気が重い。どうして? 佐原君を好きになったからだ。顔をあげられて間近で目が合った。
「そんなに不安そうな顔をしないで」
 少しは頼りにしてよ。そう言った時と同じ表情だ。首を振る。違います。言葉にしないと伝わらない。
「佐原君に嫌われたくないから……」
 かすれた声なのに、廊下に響いた。生徒会室の中の音にまでビクビクする必要はないと思うのに。
「奴に反応をし過ぎ」
 小さい声で返されて頭を小突かれる。ちっとも痛くない頭を手のひらで抑える。ふっと笑われた。
 桜の花びらを頭から取ってくれた時、心臓が跳ねた。うれしかった。あの時にはとっくに佐原君が好きだった。
「水色のペンケースでしょう? 俺が回収をしておいてあげる。行こう」
 手を引っ張られる。赤く染まって静かな廊下を二人で歩いた。心臓のバクバクが止まらず、早足になった。
「今度、学食で食べよう。俺はケンゴと食べていることが多いし、サトコの友だちが増えても気にしないよ」
 振り返っていつも通りに話しかけて来てくれた佐原君に泣きたくなった。なにに対しても考えすぎる私を心配してくれた。
「うん。ありがとう」
 繋がれた手を握り返し、微笑まれる。微笑み返す。私と佐原君の新しい日常。まだ慣れないけど、楽しんでいきたい。

ページのトップへ戻る