「あなたへ」 (2)

2. 別れ


 ――海外に転勤が決まった。このままで僕たちは良くないよね”
 会社近くの公園のベンチに並んで座り、あなたに買って貰った天然水のペットボトルを握り締めながら、私は淡々と返した。
 ――栄転? そうだね。良くないよね。
 いつかはそう言われる気がしていた。私たちの関係を変えようって。時間をかければ解決するわけでもないのに、お互いの見たくないものにふたをして付き合っていた。このままでいいわけがない。分かってはいた。
 でも、あなたと二人きりでいる時間は満たされていたから、気がつかないふりをしていた。
 栄転だと頷き返したあなたは何を思ったのであり、そばにいたかった私は何がそうだねだったのであり、そもそも何がどうで私たちたちの関係性は良くなくなったのか、あなたに問い詰め、泣き叫びたいような衝動に駆られた。先に立ち上り、飲み干したペットボトルをグシャリと自分で握り潰して、ゴミ箱に捨てることしか出来なかった。
 自分で先にゴミ箱へ立って行ったくせに、両手でかんたんにペットボトルをひねり潰して、ゴミ箱に投げ入れたあなたを見た時、ひどく胸が痛んだ。
 こっちに歩いて来てもくれない。これからは、私の好みに合わせて天然水のペットボトルを迷わず買ってくれ、笑って手渡してくれるあなたはいない。
 駅まで一緒に歩いた道のりも、いつものように手を繋いで歩かなかった。何も喋らず、あなたの後ろをついて歩いていた。アパートの前まで黙って送ってくれた。ポストが並ぶ前で振り返り、私の髪の毛をそっと撫でた。
 いつも褒めてくれたストレートの黒髪を撫でながら、ふるえているかのようなあなたの目を見返していると、自分も泣きそうな顔を同じにしているのが分かった。
 私たちのままならない関係に区切りをつけたくて、海外勤務を希望したの? だから年末には中国に行ってしまうの? それはきっかけに過ぎないの? 聞けない。聞きたくもない。確認をする勇気はなかった。ただでさえ、さっきペットボトルをひねり潰した青白く無表情なあなたの姿が何度も脳裏(のうり)に繰り返されていたのに、悪化させたくなかった。これ以上、傷つきたくはなかった。いま抱きしめて欲しいとも言えない。それ以上をあなたもしてくれない。
 目の前にいるのに。ずっと私の髪の毛を優しく撫でてくれているのに。ここで時間が止まれば幸せなのに。
 何も言って欲しくなかった。あなたの都合で別れるのだから、せめてきれいな記憶にして欲しかった。
 恋人として会うのは最後の夜なのに、傷つけあいたくなんかなかった。お互いにそれだけは同じだと分かった。
 頷き合い、同時に背を向けて、振り返らず音を立てて階段を掛け上り、部屋に入った。
 あなたの笑顔が好きだったのに、苦しげな表情ばかりさせる私自身がもういいよ。あなたを待つ資格もない。
 お互いにお互いが傷つきそうな行動やことばのすべてを避けて飲み込んだ。
 私たちはとてもよく似ていた。だから別れのことばもなく終わるしかなかった。

“あなたへ 海外の職場はどうですか? 小柄でかわいい子と出会えましたか?”
 腰まであった長い黒髪は、切りました。
 ――どこまで伸ばすの? オバケのサダコみたい。僕のため?
 あなたが何度もひっぱって笑ってからかったことを思い出すから、ボブカットにしてしまいました。
“あなたへ 別れてから一年が経ちますね。私は前と似た職場に勤め、接客を相変わらずしています”
 いやなことを言われると立ち直れそうにないから、記憶のなかで笑いかけてくれているだけでいい。
 付き合っていた間。一回もふたりだけで並んで写真を撮らなかったね。あなたとの記念写真は、名刺を交わした忘年会で幹事が撮ってくれた一枚だけだった。参加者の集合写真だ。あの時も私たちは隣にいなかった。目立たない端と端にいる。
 デートの記念に写真を撮りたいと言って、あなたがどんな反応をするか、何を考えるか、どう返して来るのか待ち構えるよりも、写真が好きなわけではないと開き直っている方が良かった。私は嘘をついていたわけではないけど、あなたとの写真は欲しかった。周囲の目や嘲笑(ちょうしょう)ばかりを気にして、あなたと向き合っていなかったのかもね。
 ベッドに寝ころび、締めていないカーテンの窓の外を眺める。十二階にある私の新しい部屋は、展望だけが長所だ。
 みんな家に帰っている時間帯だと明るい。高層マンションのネオンが見える。灯りの下でどんな会話が繰り広げられているのだろうか。同じように物思いにふけり、夜空を眺めている人たちもいるだろう。私と同じような独身アラサーOLは、寝る前のヨガ体操やフェイスパックにいそしんでいるころか。うまく思考を他に転換が出来ない。あなたはいま……。

“今、幸せですか?”

 私は引っ越しました。すべてリセットしました。なにもかもいらない。あなたとのきれいな記憶しかいらない。本物は見たくなかった。
 あなたがくれたいろんなもの、あなたが部屋で触れたもの、すべて捨て去りました。
 引っ越し荷物は、貴重品を詰めたスーツケースひとつしかなかった。あなたとの思い出の品は、はじめに私にくれたCDだけ持って来た。あなたがカラオケで得意とする別れの歌が入ったCDベストアルバム。
 記憶だけでいい。この歌を聞けば、エンドレスに思いだせる。
 物を捨て去り、見晴らしのいい部屋に引っ越しても特に欲しくなるものはなかった。携帯電話はあなたが契約している会社と機種に揃えていた。解約をして格安の機種とプランにして番号やメールアドレスも変えた。でも、あなたが使い方を教えてくれないから必要最低限の操作方法しか覚えられない。部屋の整理整頓をする気がないから散らかっているだけで、周りの物も人も増えては行かない。エンドレスにきれいなものが私のなかには流れ続けている。くっきりと。
 目をつぶる。夢も見なくていい。幻にすら思える。あなたと毎日会っていた去年の冬までの時間をなぞる。
 瞼の奥で良い眠りが早く訪れることだけを祈る。夢の中へ。あなたへ。

“あなたへ 私のこの想いは消えないけれど、もういいよ。許してあげる。大好きだから”
 携帯電話を投げだした。どこへも届かないメール。過去のあなたへのメール。宛て先なんかない。送信をしたつもりで保存箱にしまっているだけだ。タイトルはいつも「あなたへ」だ。
 あなたもまだ覚えてくれてはいるよね。二人ともうどんが好きだったから、ランチには会社からちょっと離れた昔ながらのお店によく食べに行ったね。
 あなたは食券を順番に買っていろんなうどんを食べてみていた。私はどのうどん屋だろうと月見うどんをいつも食べていた。いちばん好きなメニューをあなたと並んで食べ続けていたかった。
 卵を器の端で割って入れて、黄身が固まっていく前に食べねば、って食べ出すと、あなたは必ず邪魔をした。
 眼鏡が曇るよ、はずしなよって。月見うどんは早く運ばれて来るから、待っているあなたは必ずなんだかんだと愚痴る。そんなに急いで食べるなよ。僕が頼んだうどんはまだ来ていないでしょう、少しちょうだいって。勝手に横から食べてしまう。あなたが遅く食べるのを呆れたように眺めながら冷たい水を飲むと、何の変哲もない、レモンが浮かんでいるピッチャーの水なのに、すごくおいしかった。お互いの会社の人たちが誰も来ない店で待ち合せ、カウンターに並んで、私が背を丸めて座り、同じ目線で話していられる三十分くらいの時間がものすごく大切だった。
 あなたのことをおかしいくらいに大好きだった。
 ――急いで食べるのはいいけれど、水分はとっておけよな。
 グラスに水をまめに注いでくれた。あなたは私の月見うどんの食べ方には文句をつけるくせに、自分のうどんの食べ方にこだわりはなかった。私も何かあなたに文句をつけたくて、その後に飲む水がまずかったら台無しになる! と言って、ランチの帰りに天然水のペットボトルを買ってくれるのがお決まりになったね。
 お前のそういうところがいやだ。この髪は結べよ! 普通、結ぶだろ。
 おろしているだけの長い髪をまた引っ張られて、笑って、笑われて。公園で天然水を飲みながら、時間が許す限り毎日同じようなことを話していた。ちっとも飽きなかったね。
 大好きだった。楽しかった。別れの日が来ることがあるかもしれないと、どこかで思っていても、そんなはずはないと振り切り、心の底から笑っていた。そんな予感も自分の外見も人の視線も何もかも、見て見ぬふりをしていた。
 あなたと付き合っていた時間は、学生時代からずっと憧れていた青春の一ページのような中身が詰まっていた。もう私からも手を離してあげないとね。

“あなたへ 今日はいい天気ですね。散歩がきらいな私もせっかくの休みなので、ふたりでよく行ったうどん屋まで歩いてみます”
 携帯電話でメールを打ちながら歩く。この辺りも慣れてはきたもののアパートやマンションがリニューアル工事して建ち続けているから、スーパーまでの道すらたまに迷う。
 だから私は歩いたりするのは好きじゃないって言ったのに。インドアなのだから。
 子犬を連れたカップルが楽しげにつつき合って通り過ぎて行った。新婚かな……。あなたも犬派だと言っていた。あなたが大好きな散歩をふたりでしているのに、通りすがりのカップルが振り返って笑う。いやだったね。
 明るい性格のあなたはこんなことばかりを考えてはいないだろう。今頃、お似合いだとみんなに言われる彼女と、あんな風に二人で飼う犬のリードを一緒に持って笑って散歩をしているかもしれないね。

 今? 幸せだよ。

 道の途中で立ちどまった。
 私はどれだけ送れない、送る場所もない、携帯電話のメールを書けばいいのだろう。
 誰にも届くはずのないメール。あなただけは偶然に読むことがあればいいのに。
 何かの間違いであなたから返事が届けばいいのに。
 あなたが別れを後悔していないと返してくれたら、きれいな記憶の断片に同じように苦しんでいると知ることが出来たら、もう一度だけ同じように笑って見上げてくれたら、私は終われる気がするのに。
 これ以上、頭の中を流れる記憶があなたの思い出だけに縛られたら困る。
 いくらなんでも泣く。あのときだって泣かなかったのに泣く。今度こそ壊れる。
 あなたの携帯電話のメールアドレスは忘れました。電話番号も忘れました。
 ……今、忘れました。
 なにもかも捨て去って引っ越した。手入れをまめにし続けていた黒い髪の毛やネイルのための爪も切った。
 手のひらを合わせ、ため息をついた。結局、ヒールのない靴しか履いていない。あなたが旅立った年明け、ショートカットにするために表参道で人気の美容院に予約をしてはじめて行ったのに、ボブカットにするだけで精一杯だった。
 残ったのは背の高い自分自身と記憶だけだった。流れ続ける別れの歌。同じに回り続ける頭のなか。
 送れないメール。消せないあなたへのメール。消さない記憶。忘れない想い。エンドレスに続く別れ。
「寒いじゃない」
 呟いて顔をふせる。なにがどうだと散歩日和なの。冬は好きじゃない。だって寒いから。
 でも、冬は好き。だって寒いのが好きだ、って見上げて笑ってくれるあなたの笑顔の記憶だけが頭に蘇るから。現実のような記憶であって、現実でもない。分かっている。どれだけメールを打っても出せない。出すあてもない。「あなたへ」でもなくて、私へのメールだ。
 すべては過去だ。
 頭のなかで、部屋の中で、この町の道路でも、流れ続ける別れの歌。
 唇をかむ。泣かない。壊れない。どうしようもなかった。分かっていた。私は何も失ってはいない。
「お前、誰にいつもメールを送っているの?」
 何も考えずに振り返った。
 あなただ……。いつ、現実すら捏造(ねつぞう)するようになった?
「気分が悪いの? 大丈夫?」
 全く大丈夫ではない。あなたの勤務先の近くを歩いていて、また会ったら? なんて考えなかった。帰国するのは一年も先のことだと聞いていたからだ。
 間違いなく、スーツのあなたは立ち止まり、数メートル先で普段着の私を見ていた。
 相も変わらず私はあなたを見下ろしていた。
 元気だった? 軽く言えばいい。海外勤務は終わったの? 笑顔で聞けばいい。
 私は、エンドレスな「あなたへ」の毎日から手を離すことを決めたのだ。あなたのことはとっくに忘れましたという笑顔を作り、またね、と言って去ればいい。そうしたら、あなたへメールを打つ日々からも卒業が出来る。
 でも、声が……。

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