1. ひとり
ひとり雑踏の中を歩く。
肌寒くなった。そろそろ秋から冬になっていくのだろう。トレンチコートの前のボタンを留めながら思う。
まっすぐ会社から帰ってきたというのに、駅に向かう社会人の多さはなんだ。明らかに学生は少ない。いまの時期は一番、どの会社も定時に帰れるのかもしれない。
ああ、秋はさっさと終わってくれていい。あなたが大好きだった冬になってしまっていい。
けれど、年末に向かっていくと仕事が忙しくなるな。ちんたらと階段を上っていた私を通りこして、ホームの人込みに消えたサラリーマンを視線で追う。
……似ている。背丈も。髪の色の感じも。顔までは見えなかったけれど、あなたと背丈が変わらない男性だったから、歩く早さだってあのくらいだったよね。
――大好きだよ。
――私も大好きよ。
そんなことばの数々を大人のくせにたくさん言いあっていた。
私が受付をしていた旅行代理店と、あなたが営業部員だった不動産屋は、ビルの一階の隣同士だった。よく周りに冷やかされた。「羨ましいでしょう」とあなたが笑って言い返して、私のところまで走って来る姿を見るのが幸せだった。
“週末はずっと一緒にいようね”
そんなことを毎日のようにメールで送りあっていた。
携帯電話が鳴った。肩から提げていた鞄から出して画面を確認する。
あれ? 振り返った。
いまどき、ガラケーで着信音をメロディーにしている社会人って他にもいるのか。携帯電話のバイブの着信にまで気がつかなそうな年長のサラリーマンなんてそんなものか。
駅のホームの列に並び、持っていた携帯電話のメール画面に打ち込む。
“あなたへ 今週末はなにをしていますか? 好きな散歩にでも行くのでしょうか”
電車が到着するアナウンスが流れている。私の隣に立ったサラリーマンを見下ろす。
どうしてって。どうしようもないことって。大好きよりもたくさんあった。
愛があっても恋があっても乗り越えられないこと。この背の高さ。
あなたのことは誰よりもよく知っている。
ものすごく大好きだったから。あなたが私のことを大好きでいてくれているのも知っていたから。
背が百七十センチ以上ある私と、百六十センチあるか? っていう、あなたが歩いていると、私たちは明らかにカップルだったから、見るからに好きあっている恋人同士だったから、振り返られて、通りすがりの若い人たちに笑われていたよね。
会社の上司たちにだって、「お前ら本当に好きあっているな」って関心をされていたくらいだった。そんなことを言われるような関係だったから、私たちがいないところでは笑われていたよね。よくやっているよなって。男としてはいやだよなって。しかも、その百六十センチあるのか? って、人に見られることをあなたはきらっていたよね。私といることによって、あなたにとって、その背丈はものすごくつらい欠点となっていたよね。
“あなたへ お元気ですか? もう少しであなたの大好きな冬がやってきますね”
それでもね。今まで知り合ったどの男性よりもあなたは魅力的だったよ。
あなたと付き合う前、まだ新入社員だったころ。隣のビルの前であなたが大声で話して、みんなと笑っているところを見ているだけで心が軽くなった。
寒いから冬が大好きだ。どうしてだよ? お前に対した理由なんてないのだろ。
営業のあなたが定時に帰れる日は少なかったけれど、帰宅時間帯を出来るだけ合わせて隣のビルから出て来るあなたを見ていた。輪の中心にいて、みんなに可愛がられていた。あなたを見ていると、やさしい気持ちになれた。
寒いのが好きなのは、温度やグルメの問題だけでもなくて、猫背にした背丈、いくらでもごまかせるからだったよね。
でもね、私はそんなことを知るから大好きだった。
隣の会社から帰りに出てくるあなたを見ていると、いつも同じ会社の誰かを見上げて笑っている。それがいいなって思っていたの。あんな風に笑って、私のことも見上げてくれないかなって思っていたの。
分かり合えると思っていた。だって、私もちいさい頃からよく伸びた背の高さを気にしていた。あなたと同じだったもの。
正直、背丈の問題はあまり考えていなかった。そんなことはどうでもよかった。
ようやくやって来た電車に乗り込み、手すりにもたれるようにして立ち、流れて行くオフィスビル群を眺めながら考える。
劣等感。
それを感じるのはいやだよね。そんなことを気にしている自分もきらいになるよね。
あなたが私との背丈の差を気にしそうなのも、分かってはいたはずなのに、隣の会社同士で合同忘年会の飲み会がカラオケボックスで企画されたから、いつもは二次会の参加は断わるくせに、ろくに飲めないし、最近の曲を歌えないくせに、行ったの。
私のソファーの隣の席にたまたま座ったあなた。他の人が歌っている曲なんか耳に入らなかった。
――どうも。はじめましてでもないよね。
自己紹介を笑ってしあっただけで会話もなかった。あなたの空いたグラスにお酒を注いで、「ありがとう」なんて言われるだけでうれしかった。あの時に見上げてそう言ってくれた笑顔を、やっと隣で見られた仕草のひとつひとつを今でも思い描ける。
紺のシンプルなスーツ。糊のきいたワイシャツ。灰色に赤い二重線がワンポイントに入ったいつものネクタイ。あっさりとしたデザインのシルバーのネクタイピン。
交わした名刺。会社のパソコンからあなた宛に送ったメール。
“あなたが前から好きでした”
たった一行の文章を打つだけで、自分の名前をタイトルにいれるだけで、手がふるえたのも昨日のことのように覚えている。
私を見上げて。寒いのが好きだ、って笑っていて欲しかった。楽しげに。いつもの変わらない笑顔で。
“あなたへ あまりにきれいすぎる月日は、なにも忘れさせてくれません”
忘れるどころか、記憶は明確にすらなっていくのかとすら思えた。
“僕も好きです”
忘年会の翌日だった。お互いの会社が大掃除をして早く終了すると言いあっていた午前中に届いた。私の挨拶文もない、いきなりのメールにそう返してくれた。忘れられない。パソコン画面の小さい六文字が頭の中にはっきりと残っている。忘れないの。
忘れないでいる。そのくらいはいいでしょう?
あなたと別れて季節が一年分回っても、他の人に目を向けようとしても、無理だった。
私を見上げて、寒いのが好きだ、って笑いかけてくれる人はいないの。そうは言ってもさあ、あまりに寒いのは勘弁して欲しいよね、ってあなたと同じように笑う人はいないの。似たようなことを言っていても、あなたみたいに本当に好きだって感じで笑わないの。他の誰かがあなたのように私に笑ってくれなくていいの。あなた以外の、あなたによく似た誰かを探せるわけもないの。
寒さは人にはきらわれるよね。背の高い女も男にはきらわれるよね。私がきらわれたわけでもないよね。好きでいてくれた。とても苦しんでいたよね。
自分の劣等感と向き合って。
背の高さなんてどうしようもない。これだけは超えられない。
これが反対だったなら……。そうでも背が十センチ以上も違うと、誰かになにか言われて、周りの人の視線が気になったのかもしれない。でも、逆の立場だったなら、いくらだって女性の私がヒールのあるパンプスでもサンダルでも履いた。あなたはそうはいかなかったよね。
自分の劣等感を、「そんなものはさあ」って笑ってくれていたあなたは……。
あなたへの思いは、どう表わせばいいのでしょうか。冬から冬へ付き合った一年間は、本物だったと信じられる。だから、とても大事な思い出。
好きで、好きで、好きで。なにもそれ以上なんてあなたへなくて。あなたもそう思ってくれているって思えるだけでよかった。「そばにいてくれるだけでいい」と目を見て言ってくれた。私も心からそう思っていた。
こういう関係が両思いだと信じていた。あなたにくっついて。あなたが手を握り直してくれて。「学生でもない社会人数年目の大人がよくやるよ」なんて周りに言われても気にしてなどいなかった。でも、背丈の差のことになると……。
ねえ、私たちが学生時代に出会えていたら違っていたかな?
学生時代だったら、自分の劣等感がいやだなんてことまで感じないくらいの子供だったら、良かったのかな?
でも、やっぱり背丈は成長する。心はいつしか大人になっていく。忘れられない、忘れない時間が増えただけだったね。
最寄り駅で降りて夜空を見上げる。あなたも星も遠い。真っ暗だ。
マンションが建ちまくっている街で星は増えない。建設工事中のビルの隙間から見えている星たちも減っていくだけ。
忘れられない、忘れない時間。あなたからもっと貰えるのなら、学生時代からだってはじめたかったよ。だって、そうしたらエンドレスモードにセットしたCDアルバムのように流し続けられる。二人のお気に入りだったベストアルバムを聴くたび、いろんなことを思い出せる。
“あなたへ これだけはうまく歌えると自慢していた持ち歌は、一曲から増えましたか?”
私たちが知り合った隣の会社との合同忘年会の二次会のカラオケボックスは、すべてのきっかけだった。二時間があっという間に過ぎ去った。すごく楽しかったね。
――あれしか歌えない、入ってなかったら困る!
――早く歌え! お前、営業だろ。
あなたは私の隣でカラオケの分厚い本を捲り、酔っぱらっている先輩たちに煽られながら探していた曲。
あれは別れの曲だったね。自分が好きになった人には好きな人がいた、分かっていたのに好きになり、付き合っても自分が割り切れず、君は僕に抱かれてもくれたのに、終わりになってしまった、という曲だったよね。
あそこからはじまった私たちは、別れの曲とともに別れの物語も始まっていたのかもしれない。
こんなことを誰かに相談したら、そんなわけがないし、そんな風に失恋ドラマにいつまでもひたっていてどうするの、前へ進めって言われそうだけれど、友だちは分かる! と泣いてまでくれた。あなた以外の誰かに分かって欲しいわけでもない。ひとりこんな風に思っているだけならいいでしょう? なんかそんなことを思ってばかりいる。
劣等感を、そんなものはさあ、って笑って見上げてくれたあなたは、寒いのが好きだ、って笑って、私の手を強く握ってくれたあなたと、全く違う表情だったよ。つらそうな無理やりの笑い顔だったよ。
あなたに劣等感を与えてしまったものは、私だけでもなくて、いろんなことがあったのだろう。
例えば体育の時間。背丈が違う相手とペアになってやらされる練習。良くも悪くも成長を気にする親。毎朝、玄関で眺める全身鏡。からかう同級生の視線。おせっかいな親戚のアドバイス。
私と同じにいやだったはずだ。
デートの日はくっついて歩くだけでなくて、寒くなった路上でキスをしたかった。抱きしめて欲しいと思った時に伝えて、腕の中に包み込んで欲しかった。隣の肩に寄りかかりたかった。不安を覚えなくていいように、ベッドの中でひとつになる時と同じ安心感をいつでもどこでも確認していたかった。時間も場所も選ばない関係になりたかった。
あなたの劣等感を分かっているのに、私から行動なんて出来ない。
周りの人の視線など、心無い言葉たちなど、気にならないほど強い関係になりたかった。
でも……。その感情を見ないふりするのは、大人になってしまった私たちに無理な相談もいいところだったね。
“あなたへ 今日はもう寝ます。おやすみなさい”
マンションに帰った途端、ステレオの電源を入れた。新しい2DKの部屋は、あなたとの思い出がない分、家賃が高めだ。なにもする気にならなくて汚れている。ベッドにダイブして、携帯電話を投げ出して寝転んだ。
部屋の中でエンドレスに流れ続けているあなたの別れの歌。エンドレスに流れる記憶というもののすべて。
きれいすぎて消えない。きれいな歌。きれいな記憶。きれいな想い。