「あなたへ」 (3)

3. アルバム


「な、なんで……?」
 それしか出て来なかった。
 うどん屋のそば。公園に向かう曲がり角のところ。この場所で再会する偶然なんかある?
「自分にずっと持ってきた劣等感。なにかあるたびに気にしてしまう自分自身がいちばんいやだった」
 歩きながら目の前に来る。携帯電話を持ったまま見ていた。
「わ、わかっている」
 分かっていた。
 ただ見下ろしていた。あの頃と変わらない格好だ。紺色のジーンズに厚手のチェックのブラウス。踵が高いスニーカー。
「そういう僕を気にかけて、笑って見下ろしているお前を見ているのもいやだった」
「分かっていた」
 私といると良くない。お互いを気にして。どうにもならないものを気づかって。
「分かってないよ!」
 叫ばれ、手から携帯電話を落としそうになった。
「僕を気にかけて笑って見下ろしてくれていたのは良かったのに。その感じがつらそうで、いやだった」
 そんなものはさあ、仕方がないからさあ、背丈を伸ばせ! と背中を手のひらで叩いて来た笑顔は、今にも泣きそうだった。あれは良くない。明るいあなたに似合わない。いやだって。
「私も同じように考えていたよ」
「分かっている。お前、僕にムカつくほど気がつかないからストーカーのようになってしまった。これも良くないって」
 怒った表情で見上げ続けて来る。あなたが何を言っているのか理解が出来ない。いつ帰って来たの? 新規プロジェクトの一員として、二年間は香港に行くことになったと言っていたでしょう?
「このままの僕たちは良くないって言った後、分かってくれていると思っていた。なんで僕が海外出張の間に、きれいになにもかもがなくなったように消えるの? 待っていてくれるという選択儀はなかったの?」
 目を見たまま頷く。怒った表情で言われても、また会う勇気なんかなかった。
 あれ以上はいらなかった。きれいな記憶しかいらなかった。見て見ぬふりを続けていた私たちの関係が良くなかったのを分かろうと、決定的なことばを言われたくなかった。きれいに流れ続けていて欲しかった。
「ごめん。僕がちゃんと認めて本音を言うべきだった」
 真っ直ぐに見つめられて見返すことしかできない。きれいな記憶だけを求めてはいけなかった。思い出のアルバムをひとりで捲っているだけでは前に進めるわけがない。
「うん……」
 あれだけあなたのことばかり考えていても、何もことばを返せない。私は無力だ。
「僕が悪かった。劣等感を乗り越えられなくて。あまりに長いこといろいろあったから」
 そんなことは分かっている。逆の背丈でも同じだった。分かりすぎるくらい分かる。
「むし返してごめん。でも、そう言いたくたって、飛び立つ前に電話をしたのに解約をされていた。会社も辞めたと聞いたから、一時帰国をした夏休みにアパートを訪ねたら、なにもかもきれいになくなっていた」
 揺れる瞳に頷き返した。分かったよ。今は聞いてあげる。
 誰にだってひとつくらいある。超えられない、認めたくない、誰にも触れて欲しくない、劣等感というみじめな気持ち。一緒にいたら、いつもそれを見つめ続けることになる。
 あなたも。わたしも。
「この前、同期の子をやっと捕まえたら、もういい思い出なのだから、そっとしておいてあげてってシャットアウトをされたら探せなかった。お前の友だち、よく考えたら同期の子しか知らなかったから」
「たぶん他にいないの」
「言ってよ!」
 また叫ばれる。現実はいらなかった。形の良い記憶だけを残して、大切に何度も思い出していたかった。
「あなたには友だちが多かったけれど、私は都内出身でもないし、気にしていたわけでもないの」
「違う。気にしている。気にさせていた。僕が悪かった。お互いに劣等感を感じあうようじゃ良くないって」
「分かった。聞きたくないからやめてくれる?」
「だから、今は聞いて!」
 大声を飛ばされて睨みつけた。ここまでで充分だ。頑張ってやめて欲しいと言ったのに。
「お前、分かってない。このままの関係で良くないよねって言っただけだ。たった二年間のことだし、お前にも仕事はあるのだし、一緒に来て欲しいとか婚約しようと言えないと伝えたかっただけだ」
 じっと見下ろしていた。だけ? あなたにとってはそれだけだったの?
「別れたいと言ったつもりはなかった」
「え……」
 あなたは別れたくなかったの? これはどうかしたの? 捏造も良いところじゃないの? だって、頭の中ではエンドレスに別れの曲が流れ続けている。
「私をつけてきたと言っている?」
「そうだよ! ここでなかったら、こんなこと言えない!」
 右手を引っ張られて握り締められる。温かい手のひら。ここにいる私は、まだあなたのことがきっと……。
「お前、公園で話した翌日から有給休暇を取って実家に帰っていた。それだって同期の子から聞いた。全く連絡がつかなくなって、いやだった」
 今にも泣きそう。似合わない。そんなにいやなことだらけだったの。なんか可愛いと思わされるからむかつく。
「よく分かったね」
「営業先の駅のホームで携帯電話を打っているお前を見かけた。僕はまた香港に戻らないとならないから追いかけた」
 この前の駅のホーム。あなたかもしれないと見かけた影は、本当にあなただったの?
「話しかけてくれなかったの?」
「お前、いやだった。出発する日は伝えていたから、その日までに連絡をくれる、僕に会いに来てくれるって信じていたのに」
 両手で手のひらを撫でられる。分かっている。二人の関係がいやになったのはあなたであって、私ではない。
「ほんとうに別れる気はなかった」
 目を強くつぶっている。
「泣いているの?」
「お前が僕だったら泣かないの?」
「泣かなかったよ」
 即答が出来る。私は一度も泣かなかった。壊れない。私たちの過去まで。
「お前、僕ときれいに別れた。いやだった!」
 ぼろぼろと涙が地面に落ちて行く。そんな風にどうしようもなく、たくさん泣いたの?
「良くないから、そうだねって終わったの」
 いやだったのはこっちの方だ。記憶どころか、現実に発されている言葉すら頭のなかから流れていく。
「ちがう。そうだけれど、そういうおれたちをやめようって……」
 周りで行きかう人たちを気にせず、泣いているあなたを見下ろす。
「僕は出世をするためだけでなくて、成長して帰って来るから待っていてねって」
 手首を強く引っ張られて首を振る。遅すぎる。なにもかもが。
 二年間、待っていて。そう言われても、待っているなんて絶対に返さなかった。待つ、待たされる関係は平等でない。そんなことを頼まれたら、今までのすべてがいやになった。そう考えたら、ぐらりとなった。
「はなして」
「いやだ。離さない。お前に彼氏が出来ていても、僕のことは思い出になっていても、充分な時間が経った」
「え……」
 目が合った。お互いにそうだ。分かっている。分かっているから聞きたくないと言ったの。頭に流れるのはあなたの別れの歌だけなの。
「わたしは」
「それでも、聞けよ!」
 大声にじっと顔を見つめた。
「この声で伝えるまで終わりになんかできない。お前だけをあんなに好きだったのに」
 大好きだった。あなただけが。
「例え、この脚を失わされても、手をもぎとられても、この声がお前の耳に届く日まで歩き続ける。劣等感なんて他の痛みとともに捨ててしまえばいい」
 目を見ていた。そう考えられた時点で、あなたはあなたの劣等感を超えてしまっている。
「お前が好きだったよ。食べすぎだって言っても、いいの、とか言って月見うどんを食べ続ける僕だけの彼女」
 わたしだけのあなた。記憶で、現実で、あなたのなかで流れ続けているエンドレス。
 好きだった、という想い。
「またそこからはじめるのはもう遅いの?」
 差し出された天然水のペットボトル。こだわりのないあなたは、いつも同じお水でいいと言う。
「私たち、だけってだらけだったの?」
「僕はそんなことを言っていないよ。お前、実は暗いやつだった」
「あなたは、実は泣く人だったのね」
 こくりと頷いて、袖で涙を拭いている。そんな風だなんて聞いていない。実は? なんて考えたこともなかった。分かっているつもりで分かっていなかった。
「この先には、おいしい月見うどんを出すお店があるよ。知っていた?」
 そんな店、ひとりで入らない。月見うどんなど食べたくもないし、うどん屋に入りたくもない。
「わたしの……。劣等感は」
 まだ超えられない。超えられていない。
「僕は、この声がお前の耳に届くまで、いつまででも悪夢という現実を受け止めるって思っていた。僕が越えられた劣等感なんか、お前に超えられないはずがないよ。そこまで行動に早く移せたのだから」
 悪夢を見るような現実を受け止めても、忘れないと決めた想いがある。
「今日、寒くない?」
 そうやって涙目で笑って見上げてくるのはルール違反だ。また泣くのでしょう?
「寒くない。別れの歌なんかくれる彼氏でなくなってくれれば」
 あなたが離さないって、手を握ってくれているのに、寒くなんかない。
「そんなことで寒くなくなれるの?」
 見上げて来た笑顔に笑い返した。泣き笑い。
 そうだよ。ずっと聴き続けたエンドレス曲を別れの歌でなくしてくれれば、幸せになれる。
「お前が待つのを苦手なら、一緒に行こう? 次は、両思いの曲をあげるからね」
 やわらかく笑いかけられ、手を握り直されてひっぱって歩かされる。
 いつから、私と同じくらいの歩幅の早さになれた?
 いつから、私が歩き方を遅くしていることに気がついていた?
「あなたへ」
 今日からは、いままでの大量のメールが携帯電話に送られるよ。
 でもね。タイトルは違うの。
「え?」
「あなたへ。私の大好きなあなたへ」
 今夜、送信する。“私の大好きなあなたへ”と。
「やっぱりさあ、寒くない?」
 頷くと抱きしめられた。軽くキスされる。唇のやわらかい感触にびくっとなった。
 短い髪の毛の先を撫でられて目が合う。またそうやって笑って見上げてくれるのね。
「僕の大好きなお前へ」
 笑顔が消え、顔の角度を変えて深いキスをされ、何も言わずにまた抱きしめられる。
 私は、あなたを待っていられなかった。待たされることが苦手だった。あなたはどうしようもなく泣く人だった。どれも知らなかった。
 あなたへ。私の大好きなあなたへ。この声が届いたって、私からあなたへ。送り続けよう。
 ふたりで手を繋いで歩いて行く道は、今までと違う。いびつでも滑稽でもくだらなくても、とっておきの形になって行く。

【おわり】


矢印記録
初稿 2008-03
改稿 2019-10 / 推敲 2020-12
お題を使用 (第3話) / 写真提供 tricot

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