先生とあたしとパイナップル (9)

第二章 バトル


花 五日目 十月五日 水曜日

 これでもか! と、腕時計を見ながら制限時間ぎりぎりまで細かい文字をプリントに書き込み、集めている生徒に手渡した。
「茉莉、できた?」
 隣の真帆に顔を向ける。教室は常に男女混ざった名前の席順だ。
「どうかなあ」
 私は机の中から教科書を出して答えを確認しだした。
「珍しいね。茉莉がそんなこと言っているの」
「どのように?」
「えー。いつもだったら、まあ、それなりには出来た、とか言っているじゃない」
 その台詞、古い付き合いの真帆以外が聞いたら、むかつくだろうな、と自分で自分に突っ込んだ。
「どうも最近は調子悪いからさ」
「校内模試の結果が下がる一方でも悪い方ではないだろ」
 それは褒めているのか、けなしているのか、岸川君。振り返り、後ろの席の彼を睨んだ。
「なんか数日前から様子が変だよ」
 真帆に言われて聞き返した。
「どう変なのよ?」
「茉莉に聞いたのに、私に聞き返すの?」
「真帆は偉そうだな」
「偉そうで悪かったわね。茉莉はくどい、ってくらい神経質なのに電話をかけなおしてこないどころか、勝手に電源を切るし。あんなの付き合い出だして初めてだね。模試で成績が落ちたらしいから落ち込んでいるのか、と思っていたけれども、昨日、学校で話していても、ぼんやりと携帯電話を見ていた。なにかあったの?」
「くどいっていうほど神経質だった?」
「それは勢いで言った。話をそらさないの」
 ばれましたか。頬杖をつく。
「明日までのテスト地獄が終わったら話すよ」
 息を吐き出した。テスト地獄。正にその通りなのだ。学校の一時間目から最終の時間帯まで二日間連続でテストだ。ここで点数を稼がないと、また駄目押しの校内選抜テストの総合結果が出てしまう。
「茉莉じゃなくても疲れきるよ。公立大志望は」
 親友の真帆は当然、私が東大志望だと知っている。同じ公立大学志望クラスにいるのだから、彼女も公立大志望なのだが、あちらは公立大には行きたいが、実家から通える範囲の中で一番レベルが低い、というだけの理由で志望大学と学科を決めた、というすばらしい判断能力の持ち主だ。
「今から願書を配ります」
 私は教室の廊下側の壁際の席だ。前から白い封筒が回されてくるのを受け取った。
 中身を取り出す。
『全国共通一次試験 受験願書』
 その太い文字だけが目に飛び込んで来た。いよいよきたか。
「えー、願書受付は今日から可能です。うちは学校単位で一斉に提出するので、明日までに記入をしてくるように。まだ志望大学がはっきりしていない生徒はいないはずだが、悩みがあったらすぐに相談にくるように」
 担任が黒板の前で説明をしている。厚めの紙で出来ている願書を机の上に置いた。
『志望大学欄』
 他の文字を通り越してその文字がはじめに目に入った。
 簡素な説明書きのプリントを読んだ。両面刷りで一枚だ。この書類を出せば、入試まで待ったなしのゴングが鳴り響くのだ。
 もうすぐ昼休みの時間帯なのだが、周りは既に願書にカリカリと書いている。
「いよいよ、現実ですか」
「既に現実だっただろ」
 岸川君が真帆に文句をつけている。
「やっぱり願書を目の前にすると違うじゃない?」
 真帆の言う通りだ、と頷く。今までだって受験はどんどん目の前に来ていた。この高校に入った時点から東大志望は変わらなかったわけだが、それでもいろいろ悩み、まだ時間はある、と思っていた。三年生になって、ここ数ヶ月は忙しくて実感がわかなかった。
『共通一次試験 一月二十一日、一月二十二日』
 予想通りの日付がきた。去年と同じ日程だ。心臓の音が早くなった。
 毎年、一次試験の問題は試験が行われたその翌日の新聞の朝刊に掲載をされる。この二年間、当日の朝一から待って広げて新聞の細かい文字を見ながら解いて、その夕方には予備校が速報で出した解答と簡単なその年度の傾向が書かれている解説を学校の友人経由で手に入れて、答えあわせをしてきたことを思い出した。
 今年は違う。今年は自分でマークシートを試験会場で埋めて、翌日の解答速報を落ち着かない気持ちで待つことになる。一日目の答えあわせが正解を外していてショックを受けても、二日目の試験にはいつも通りに出来るように持って行くためにモチベーションを整えなければならない。
 一日目の答えあわせをしないで翌日を迎える、なんてどうせ私にはできないのだ。
 そんな悠長に構えていられるものか。一日目がだめだったなら、二日目で挽回するためにだって答え合わせは必要だ。私は勝ってやるのだから。
「書くう?」
 真帆は嫌そうな声だった。布のペンケースを開けて鉛筆を出しながら真帆に笑いかける。
「まず下書きをして、明日の朝一に一緒に出そうよ」
 ここで弱気になるものか。相手は東大だ。
「そうだね、親も見たがるから。帰りに願書用の顔写真を簡単に撮っていこう」
「インスタントでいいよな。写真なんて」
「見かけがひどくなければいいのよ。ちゃんとなんかきっと見ていない」
「俺、茶髪だとまずいかも! モノクロにしようかな」
「名案かもよ。あやしい奴になって」
「ひでえ」
「本当のことじゃないの」
 ふたりで笑いあっている。岸川君は真帆が振り向く斜め後ろの席に座っているのに、いつもよくやっているよ。
 願書を上から順番に鉛筆書きでも丁寧に埋めた。
 東大の本番の論文試験はボールペン使用だ。間違えると二重線を引くことになって目立つ。慶明大学入試の真似をいつからはじめたのだ。それとも慶明大が先にはじめたのか。同時期なのか。ああ、その後の試験がどう変化するのかは知らないけれども、少なくとも私はその論文試験を受けるのだ。こんな文句をつけても始まらない。
 勝つ。
 ずっとそれだけを考えて、この四年間近くを生きてきたのだから。


 あんな風で願書用の顔写真はいいのか。三分もすれば出来る簡単で安いインスタント写真で片付けてしまった。プロに撮って貰っても変わるような外見じゃないし、それにお金がないしさ。お金……。
 夕方になって玄関のドアを開けて入ると、パンプスと見たことがないローファーが並べられていた。先生は紐がついていないスニーカーと、男性用の突っ掛けサンダルしか玄関には出していない。
 リビングから声が聞こえる。誰か来ているらしい。入っても問題ないよね? 私の荷物だって全部リビングにあるのだ。息を吐き出して、くもりガラスのドアを開けた。
「ただいま帰りました」
 一応、丁寧に声をかける。笑顔は作らないが。
「おかえり。茉莉」
 先生は顔をあげた。笑顔は笑顔だが返したくない笑顔だ。ここでも仕事モードですか。リビングの丸いアンティーク調の絨毯の上に低くて大きめな丸テーブルが出されているのも、はじめて見た。そんな一般的なものもありましたか。折りたたみ式かな? 普段は一階の奥の物置部屋にでも置いてあるのだろうか。
「それでどうでしょう? 先生」
 背広を着たバカ父より年上で真面目そうな男性を眺めた。
「どうって言われても」
 先生はため息をついている。『天下の』いうからには仕事に対してわがままだ。ルーズでもある。第一印象からしていかにもそんな感じだから許されるのだろう。
 私はどうすればいいのでしょう? ドアから数歩進んだところで立っていた。
 テーブルに何も出されていないので、キッチンに向かう。今の様子だと先生が目上そうだけども、お客様だし、訪ねて来たのだし、お茶くらいは出すべきだ。コーヒーメーカーはすぐに目に付くカウンター上にある。が、お茶はどこなのだ?
 湯飲みは棚にいくつかあるが、お茶の葉や急須や茶筒などの茶道具らしきものがない。他になにかないかと冷蔵庫を開けてみる。空に近い。ああ、一次試験の願書のことで頭がいっぱいで買い物をしてくるのを忘れてしまった。
 もうこのペットボトルのお茶でいいか。グラスを出して勢いよく注いだ。
 この家のダイニングキッチンのテーブル代わりの台は、広めだとは言いかねる幅だ。全体はL字型に長く、低めの背もたれのある椅子が二脚と、丸い椅子が二脚はあるから、お客さんともここで話すと思っていた。
 これだけ広いのだったら、ソファーセットのひとつでもあっても良さそうなものを。
 このうちなんかクッションもない。私の家にすら客用の座布団はいくつかあったのに、彼らは座布団なしでリビングの真ん中の丸い絨毯の上に座っているだけだ。大きなテーブルを広げて、おそらく絵画関係の資料だろうものを広げて話し合っている。絨毯は高そうでクッション性はそれなりにあるのだろうが、長々と座って話すのに向いているとは思えない。大きなお世話だろうか。
 スーツの男性が黒ぶち眼鏡の女性と隣り合って向かいの先生に身を乗り出して話している。
「氷山先生、以前から聞いて頂きたかったのですが、モローの“ガラテア”が輝いて見えるのは、絵の脇から暗い影を背負ってポリュフェモスが妖精の洞窟を覗き込んでいるからに他ならないと思うわけです」
「そう?」
 だからなんだ、という感じだ。先生は仕事モードだと完全に冷え切っている。現在の秋を通り越して冬だよ。私は棚からお盆を無理やり見つけてグラスをのせて持っていった。
「お茶です。どうぞ」
「ああ、どうも」
 男性は私に今ようやく気がついた、という様子で軽く笑顔を向けた。
 私は先生に腕を引きずられるまま男性の真正面に座った。先生の腕はすぐに離れていく。私がここに座っても、分からない。勉強をさせてくれ。そして色々と考える時間をくれ。
 男性は先生を見て続けた。私も真正面の彼を見つめる。
「そうです。それに他なりません。この巨人のポリュフェモスのですね、決して叶わないという欲望の眼差しのなかでこそ、“ガラテア”の肉体というものは女性として輝きを増すわけですよ。有名な“サロメ”ででもそうではありませんか? モローはですね、邪悪な男性の欲望と女性の美の関係をよく承知して把握して描いているとは思いませんか? 素晴らしいことです。そうしたところが、その後の耽美的な裸体画家とは、完全に作風が異なるような気がするのです。そう思いませんか?」
 私はその“モロー”という画家の画集だろう見開きのページを眺めていた。
 “ギュスターブ・モロー 作品、ガラテア”
 “その乳房、裸体を覗き見る男の眼差しのなかで、輝きを増す女の肉体”
 その文字をこちら側に向けられている画集の細かい解説の冒頭に掲げられていたキャッチコピーのようなものを読むともなく眺めていた。
「茉莉、彼がなにを言いたいか分かる?」
 その冷え冷えとした感じのままで聞かないでください。普段モードで仕事をするのもどうかと思うけどもさ、正に氷の山だ。
 まだ先生が私を見ているので、「えー」と言っておいた。自分にだけはグラスにオレンジジュースを入れて持ってきたので頂く。彼がなにを言いたいのかって……。
「サロメって確か旧約聖書の中の人ですよね?」
「そうです! サロメは洗礼者ヨハネの首に接吻することで魅了した、旧約聖書の中の解釈では、あらゆる問題があるともされる女性です。そのサロメという女性ですら、幻想的世界観を維持しながらも耽美的に徹底的に描いた画家なのです。彼の作品は十九世紀、世紀末の画家や文学者に多大な影響を与えていてですね、象徴主義の耽美的な先駆者とされているのです」
 じっと訴えるような男性の目を見ていた。なぜか彼は先生が私に意見のようなものを求めたので、攻めるのを先生でなく私に代えたらしかった。
 首を傾げた。頭が痛くなりそうな内容だ。聞いているだけで疲れる。
 この人の相手をするのが嫌になってそのために私を座らせたわけじゃないでしょうね?
「えーと、その議論を先生としたいと?」
 さっき自分の話を聞いて欲しいと言っていたからな。
「違います!」
 相手の大声にびくっとなってしまった。違うのだったら、どう違うのかを説明してくれても良さそうなものなのに、向こうはじっと私を見ている。なにか私が知っているとでも思っているのだろうか? そんなわけがないでしょうが!
 ちらりと彼の横に座っていた女性を見た。秘書の人だろうか。清楚で地味な感じだ。
「えー。そのモローという画家が描いたような耽美的なものですか? それを先生に描いて欲しいと?」
 強い視線を感じたので言ってみた。だから国語的なことは苦手なのだって。難しい。
「そうです」
 あらまあ。あっさりと肯定されたので気が抜けた。横で先生はうんざりと言う風に顔を横に向けてしまっている。あーあ。もう誰がこの場の主役なのだよ。
「先生はもう外国には行かれないのですか?」
 スーツの男の質問は続く。先生は芸能事務所に所属しているようなことを言っていたから、プロデューサーだろうか。私はあらぬ方向を見ている先生を見た。これでも画商の娘だ。『天下の』などという評価を受けている画家の彼が海外でなんの勉強もしていないとは思っていない。例え裸体画家であっても!
「行く気は全くない。もうパリだけで充分」
 先生は深いため息だ。私を隣に座らせて、そんなに何度もため息をつかなくても! 仕事モードだと態度が冷たくなるだけでなく、人も変わる。その変わり身には感心してしまう。
「先生は、レジオン・ドヌール勲章のコマンドゥールまで受賞されたのに、そのうえを目指されないわけですか?」
 なに? 今なんていったの? コマン……なにだって?
「別に。食べるのにはちっとも困っていないし、今も仕事の依頼はたくさんあって、困るとは今は思えないし、日本では評価をされて来ているし、どこかの誰かさん? みたいに日本を追放されたってわけじゃないし、僕が海外にまで行く必要ないでしょう? もちろん他の賞もそのうち取れれば良いと思っている」
 いや、そのどこかの誰かさんって。さすがに私もどの画家を指しているか分かりますよ。いくら昔の人でこの世にいないと言っても、そこまで言っていいのか。
「先生、そのどこかの誰かさん、のことはちょっと言い過ぎかと。画商の娘の私でも知っている有名すぎる画家のエピソードですよ」
「茉莉は、旧約聖書だの、そのどこかの昔の画家が誰だの、って詳しいね」
 他の人はどうか知りませんが、私はそこまで先生が冷えていても、殴りたくなったら殴りますよ。
「うちはキリスト教徒ですから。あとそのどこかの画家さんですけれども、日本を追放された、なんて言っていないはずですよ? 捨てられたって。だから世界に行って成功したのです」
「捨てられた、ね。よく、そこまで知っているね。さすが金田さんの娘さんだよね」
「嫌な感じです」
 先生は、「ふうん」と言って、顔を背けたままグラスのお茶を飲んでいる。
「あの金田さんの娘さんなのですか!」
「ええ、まあ」
 黒スーツの男性、なんでしょう、その大声の反応は。私まであさってを向いてしまった。
「金田さんは画商の中でも感覚の人ですよね。彼の理解しがたい持論は、全く理解をできませんが、どこかから当たる画家を見つけてくるのだからすごいですよね」
 笑顔を向けられたが、返せなかった。

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