先生とあたしとパイナップル (10)

第二章 - 2 頁


 理解しがたいものは理解できない、って当然だ。あまりあの変人の父と私を同類にしないで欲しい。
「氷山先生、金田画商までバックについていらっしゃるのでしたら、どうでしょう?」
 先生と私を見比べて聞かれても、どの辺りが“どうなのでしょう?”なのかもよく分からない。私はいま考えねばならないことが多過ぎるのだ。
「僕は絵を描きたいから、描いているだけだよ」
 隣で先生はぶつぶつと言っている。この男性と気が合わないのは分かった。
「つまり、先生の作品は耽美的でないわけですか?」
「僕、異端児と言われているから」
 ジュースを飲もうと口に入れていた私は、自分で質問をしておいてむせ返ってしまった。異端児?
「えっ、茉莉ちゃん、平気?」
 背中を撫でられた手のひらのやわらかさと普段通りの声を感じたら、なぜだか泣きたくなった。
 プロでも先生は描きたいものを描いている。私も勝ちたいって理由だけで勉強をしている。それのみだ。
 先生はだめだと言われても思う通りにやってきた、って言っていた。僕と茉莉ちゃんは同じだと笑ってもいた。
 それ、ゆずれない想いなのじゃないの? 先生が仕事モードだと言えないのなら、私が言ってあげる。
「あの、その耽美的なものですけどね! いいとは思えません!」
「先生、いくら金田さんの娘さんといえども、年下の女性にかばわれるのはいかがなものでしょう?」
 スーツのはげかかった頭の男にむっときた。せっかくお茶まで出したのに。私はどの場でも短気なのだ。
「プライドうんぬんを言っています? 大人の男性が年下の女性に仕事のことでかばわれるのは、どうかって? 先生のプライドはどこに行ったって?」
 声を上げた。あんたのプライドを出せ。
「当然のことです。こんな人前で明らかに学生の身分である社会も知らないあなたに、かばわれるなんて彼を傷つけます。分かりませんか?」
 持っていたグラスを乱暴にテーブルに置いた。
「だ・か・ら? 年下にかばわれて傷つくプライドの方が低くありませんか? 好きに言わせておけばいいでしょう? 私は意見を押し付けてないし、言いたいことを言っているだけ。誰だって迷う時も悩む時もある。学生も社会人も関係がない。一般階級の私がでしゃばって傷つくようなプライドしかもっていない男、こっちから願い下げです!」
 思い切り睨んで言ってやった。いままでいやな男を身近でふたりも見てきたのだ。下手なプライドなんか持つな。彼らにそれを感じた。気がつくのはかなり遅かったけれども、二度も痛い思いをすれば、三度目は絶対にない。そこまで私は馬鹿でないし、負けもしない。くだらないプライドなど不要だ。
「彼を情けないとは思わないと?」
 男性は抑揚のない声で言った。私は短気も短気なのだ。この人から見ると温厚そうに見えるのだろか?
「私から言わせて貰えるのならば、あなたの方が情けないです。難しいことを語って相手を黙らせ、意見を押し付けている。それがあなたのプライドですか?」
「金田茉莉さんと言いましたか? 学生さんでなければ、金田画商の娘さんでも今怒っているところですよ」
「だ・か・ら! 喧嘩をしましょう! と言っているのです」
 ああ、なんかむかつくのを超えるな。受験生をあまり刺激するなよ。溜まっているのだ。
「喧嘩はする気はないのです。氷山先生にはこれといった主義的なものがないので」
 眉間にしわを寄せた。これといった主義的なものがない?
 あれだけ赤だの、紫だの、って色に拘っているのに? あー。この世界が分からない。
「どうでもいいです。天下の氷山先生の前でこんなことを言い合っていいのですか?」
「いいえ。ただ私どもは先生の新境地としてこの女性をモデルにと……」
 えっ? 大判の写真がテーブルの中央に置かれた。
 長い髪が邪魔して顔が全く見えない女性だ。写真に写っているのは背中の素肌だけだ。顔は横向きでも深くうつむかせている。清楚な印象の人だ。
「先生の好きに描かれればいかがでしょう? どうせ裸体画なのでしょう?」
 大体からして裸体画が耽美だの、そうじゃないだの、色がどうの、何派がどうしたの、どれも分からない。しかも男性視点から見て考える? 私は女性でしょう? いくら画商の娘でもそこまで分からない。
「そうは言われましても、さっきも言いましたように、どうしても耽美的な象徴と言えるようなものを氷山先生に私どもは描いて頂きたいのです」
 スーツの男は続けた。画商の娘だって分からない分野のだ。でも私は画商の娘。そのことばにふっと笑った。
「申し訳ありませんが、私の画商である父は、先日、先生をうちに連れてきた時点でとても買っていました。ここで先生が違う主義のものを描いたら、金田という画商は納得しません」
 この人が感心して言うほど、私のバカ父が認める画家が当たるとは知らなかった。
 それでも、あのバカ父が考えそうなことくらいは分かる。せっかく気に入った画家を見つけたのに、今までと全く違うようなものを描かれてしまったら、大人気なくしょんぼりと家でも落ち込むに決まっている。そんなバカ父に疲れさせられるのは私じゃないか! 母なんて父が落ち込むと、「茉莉に頼むわ、あそこまでしょんぼりされるとお母さん困っちゃうの」とか言うのだから。
 黙った男に外用の笑顔をあっさりと作った。
「金田がこれじゃあ当たらない、と言い切ったらどうするのでしょうか?」
 目と目が真っすぐに合った。あんたのプライドが年下にかばわれるなんてとんでもないことのように、私のプライドは負けを認めることがとんでもないことなのだ。
「……分かりました。今回は氷山先生の好きに描いてみて貰って、金田さんに売って頂ければ結構です」
 いいですね? というように見られてしまった。
 そこまで知らないよ。あのバカ父が画商で、自分の好きな先生を応援するのは知っているけれども、“売る”という行為をどう考えてどうやっているのかまで聞いたことがない。おそらく聞いても不明瞭な答えしか返ってこない。
「金田という私の父は、一度、好きだと言った人間を見捨てたりしません」
 売ろうとするかどうかは知らないけれども、あのバカ父は気に入ったら大変なのだ。
 やれやれ、今日は疲れた、という雰囲気を隠しもせず、ふたりは帰って行った。
 私は立ち上がってグラスをキッチンカウンターの上に下げた。やれやれって言いたいのはこっちだよ!
「さっきの写真のモデルさん、シルバーグレイだよね」
 具体的な色彩が出てきたので振り向いた。先生はたたずんで納得したように頷いている。
「やっぱり茉莉ちゃんは怖いよね」
 私は椅子のそばに立ったままゆがんだ笑みを浮かべた。
 いや、怖いのは構いませんが、疲れた。ねぎらいのことばくらいないのか。
「でも僕は好きだよ」
 笑いかけられた。仕事関係の彼らがいなくなれば、途端にここはいつもの空気になる。
「先生……」
 だめだ。こんなことでは。勉強しないと落ちる。
「うん?」
 先生は、なに、というようにこっちに歩いてきた。
「先生」
 なんだ、その“いつもの”空気って。まだこの家に来て五日しか経ってないじゃないか。
「なあに? 茉莉ちゃん」
 肩に手を置かれて見上げる。彼はやわらかい笑顔だ。心臓ってこんなに早かった?
「先生」
 そのまま頬を包まれて顎を上げられる。
「待った。そんな要求をしていません!」
 抱き寄せられた。右の腕で彼の胸を押さえる。顔を背けようとする。先生はどう見ても軟弱なのだろうに、この男女の力の差のみに問題がある。憎い。無理。勝てない。
 片手で肩を抱き寄せられ、頬を包まれたままゆっくりとキスをされた。頬をつかんでいた指先が髪の毛に触れる。私の心臓の音、うるさい。会ってから昨日も今日も毎日感じている彼の唇は、ぬるいとか温かいとか熱いとかじゃない。やわらかい。先生って指の先からなにからなにまでやわらかい。
 目をつぶって先生のやわらかいオフホワイトのカットソーの裾を握り締めていた。だめだ。真剣にいかないと、このままだと落ちる。


 まだ仕事でやらなければならないことがある。そう言って先生はアトリエにあれからこもりっきりだ。画家ってこんなに連日のように忙しいの? そんな話を聞いたことがない。先生儲かっていて結構なことだけどさ……。
 ベッドに入って壁側に向かい横になる。今日も勉強をあれからしまくったら目がさえてしまった。明日はテストだからな。これ以上、いやな点数を取ると受験以前に奨学金生と言う待遇すらあやしくなってしまう。
 深く息を吐き出して、ベッドと枕の間に置いた携帯電話を取り出して開けた。
 非通知。
 もうすぐで0時を回る。うちの家族は二日間もすれば根をあげるだろうという私の予想は外れてしまった。息を吐き出した。根性比べじゃあるまいし。
 ドアを開ける音がしたので携帯電話の電源を切り、枕の下に押し込んで寝たふりをする。
 先生はのんびりとお風呂に入ってきたようだった。これ見よがしにキッチンの台のところにご飯を置いておいたので食べているらしい。ラップをはがして、食器を移動させてかすれる音が響く。私がここに来て以来、お手伝いさんらしき人が来ていないけれども、その辺りどうなっているのだろう?
 ああ、そんなことよりも。
 また至高が布団の中で別世界に行っているうちに収納ドアが閉まる音がする。こんな時でも先生はゆっくりとした動作だ。ガタンと閉まりきる音がして、ベッドに入ってくる。布団を被っている。
「茉莉ちゃん、好きだよ」
 彼は昨日もその前と同じように呟いていた。顔にかかった髪を耳にかけて、後ろから抱きしめられる。私は寝ているはずなので、そのまま引き寄せられ、彼が布団の中に背中をつたってもぐっていくのをじっと感じていた。
 家からはなにも言ってこない。このままの調子だといつ言ってくるのか不明になってきた。兄がどう考えているのかも知るか、って思ってしまっている。だって。あんなに、「茉莉さん聞いていますか」って言ってくれていたのに、こっちが聞いて欲しい時には何も聞いてきてくれようともしない。どういうことよ?
 また深く息を吐き出した。困る。このまま帰れないのは困る。そうじゃないと落ちる。

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