第二章 - 3 頁
七日目 十月七日 金曜日
昨日はテストで死んでいた。体力に自信がないわけではないが、さすがに二日連続、休日もなしで朝から放課後になるまでみっちり試験をやられると疲れる。
それに昨日は一次試験の願書を提出した。一度、実家に報告に帰らねば、試験には現金も必須なのだ、と思いつつ、このまま私が折れて、のこのこと帰るのはやはりむかつく。だからと言って、このまま先生の家に住ませるのもやめさせて欲しい。
勉強をやり切って夜になると、またそんなことを考えてしまった。家に勝手に帰っても色々と面倒なことになりそうだ。どうしたものか思考がまとまらず、ループしたまま眠ってしまった。気がつくと先生の腕の中にいた。
昨夜だって壁側に向かって寝たふりで、向こうが完全に眠りに入ったとなってから、腕をはがして寝ていたのに。朝は抱きしめられて眠ってしまっている。先生はあれだけよく寝ているのに、いつ起きているのだ。
彼にはどうも勝ちきれない。年齢差のせいにしたくない。なぜその部分だけが上手(うわて)なのだ。
「やっぱり茉莉が家事をしているの?」
真帆が聞きたがっていた私の変化の理由をかなりはしょって説明した。先生の家に住んでいると聞いた真帆と岸川君は、画家の家に行ってみたいと騒ぐので、親友の二人だけにしか話さないことだと念を押して連れて行くことにした。
ふたりとも同級生で同じバトミントン部で三年連続、同じクラスだ。二年生から卒業まではクラス替えの心配もない。
「まあ、そんな感じだよ」
「そうなの? お手伝いさんとかはいないの?」
「いないみたい。家事をやるのはいいのだけどさ。私、下宿人だし。タダ食いの」
「それじゃあ、家を出た意味がないだろ」
岸谷君が面白そうに笑う。
私は岸谷君に微笑んだ。ここまで来ると意地だ。家族から言わせたい。茉莉がいなくなって困った、帰って来いって。そう言わせるまで帰れない。数日間ではまだ意地の張り合いらしいが、こっちから帰ってやるものか。
「茉莉はそんな風でいいの?」
「いいかどうかはともかく、豪華なお家だよ。見たらびっくりするよ」
真帆のお爺さんお婆ちゃんのお家が元町の駅の周辺にあったから、先生に聞いて案内してもらうまでもなく、安く買えるスーパーは教えてもらえた。それはいいけど、このお金は出してもらえるのでしょうね?
自分が食べたいお菓子をカゴに入れていると、横から真帆まで入れている。
レジに並んだ。午後三時くらいってスーパーはどこも混む。この店は安いはずでも、私にとっては高いのに。
元町駅周辺のすべての品自体が高い。このスーパーの傍の八百屋の前を通り過ぎた時には、「バカな!」って叫び出しそうな値段だった。大根一本が欠けているのに二百五十円! どんな人たちが住んでいる街なのだ。大根一本を一九八円で済ませるべきだ。このスーパーが休みの日はどうすればいいの? ああ、先生の家に私はそんなに長くいる予定はないのだから、ここまで考えなくてもいいのだ。何度も思うな。
レジの清算を待ちながらぼんやりとしていた。真帆と岸川君が横で話している。この食材の買い物のお金は払って貰えるのでしょうね? 玄関の棚から自由に取って良いように先生は言っていたけれども、自己判断で貰うのは気が弾ける。
「家が豪華ってそりゃあ、そうだろうなぁ」
岸川君が私の隣で言っている。真帆は荷物をまとめる台の方に立ってこっちを向いている。
「私も名前くらいは知っているよ。売れている画家なのでしょう?」
「俺はかなり知っているぜ。氷山泰明。出版されている画集は二冊とも持っているくらいだ」
「へえ。好きなの?」
「ああ。大好き」
私はふたりの会話を聞きながら、お財布から小銭を出しつつ変な気分になっていた。
先生の絵が好きって、裸体画が好きって言っているよね? 岸川君!
私たちは、わいわいと会話をしながら帰った。
「ほんとだぁ。家が赤茶色で屋根が緑だぁ。すごーい。カントリー風」
「さすが氷山」
感心しているふたりに笑顔を向けてリビングに案内をした。家が赤茶色で屋根が緑だとカントリー風ですごいって、真帆らしい感想だ。よく気がついてくれる。私はそんな風に感じなかった。家をよく見る余裕もなかった。今までだけでなく、今もないけどさ。
「うわー。カントリー風なのに近代的な融合体だね。芸術家って感じ」
「だなー」
いや、カントリー風なのに近代的な融合体の家。と表現できる辺り、真帆はすごいよ。偏差値を重視して志望の大学を選んだのだとしても、人のいろんな面を理解すべきキリスト教学科を目指しているだけはあるよ。
リビングのドアを開けて入ると、見知らぬ男がダンボール箱をいくつか運んでいた。
「あのう」
私にはダンボール箱を窓の横に積んでいる男性の後姿しか見えなかった。先生より明らかに高いすらりとした体型。金色に染めた少なめの長い髪をひとつにくくっていた。
ジーンズに長袖のTシャツを着て、バンダナを巻いていた彼が振り向く。
「あ、君が茉莉ちゃん?」
男の人はうれしそうに、にこにこと歩いて来て私の前に立った。
「先生のお知り合いの方ですか?」
「そうそう。俺、氷山の親友の小野寺君。よろしく」
彼が屈んで笑いかけると、愛想のいい感じの顔がさらに優しくなった。すっと大きな手を差し出さる。私はさっきから変わらずににこにこと目を細めて笑いかけている彼を見て、その手を握り返した。ごついな。大きいな。
「小野寺さんでしたか? 先生と同じ年ですか?」
「同じといえば同じ? 学年的には一歳上。正しくも一歳上」
先生もマイペースだけれども、この人もゴーイングマイウエイで芸術家って感じの人だ。
「その荷物はなにですか?」
私は彼の背後にある縦に重ねられたダンボール箱を眺めた。その大きさで四つしかないのなら、横に並べた方がよかったのでないの?
「なにって。茉莉ちゃんの荷物だよ? 泰明に言われて運び込んだ」
「ええっ?」
私は思いっきり叫んだ。
「ちょ……運び込んだって……どこから?」
「茉莉ちゃんのお家からだよ。決まっているじゃない」
はあ? 誰が本格的にここに住むと言ったのだ。
「なんで? どうして? 誰の許可を取ってここに持ってきたのですか?」
私は小野寺さんにたたみ込んだ。彼は笑顔のまま後ろに下がった。
「落ち着いてよ、茉莉ちゃん。君のお母さんとお姉さんが荷造りをしてくれた」
「あの二人が?」
母はこれ幸いとなっているのだろうからともかく、姉などフリーターでふらふらしていてバイトもきちんとしているのかあやしいくらい家でごろごろしている。掃除を全くしないどころか、その辺の小物の整理すらしないくせに。人の引越し準備だけは手伝ってくれたと言うの?
「どういうことですか!」
「えっと、うん。茉莉ちゃんのお母さんが先生にくれぐれもよろしくと……」
私は彼の話を最後まで聞かなかった。
「金田、どこに行くわけ?」
「茉莉、私達はどうすればいいの?」
後ろにいた真帆たちの発言に返さずに押しのけ、リビングのドアを開けていた。
「そのキッチンのところの椅子にでも座っていて。戻ってくるから」
「えー」
岸川君の不満げな声もよく聞かずにリビングを出て、ループした階段を勢いよく駆け上がる。
ノックもしないでアトリエのドアを一気に開け放った。
あっ……。
女性が裸体で立っていた。この家に来た日、紫じゃないとか言われていた人だ。
また紫のバラを背負っている。やはり造花らしい。私は息を切らして彼女を見ていた。
「どうしたの、茉莉」
振り返って先生を睨みつけた。先生は座高が高い丸い椅子に斜めに座り、キャンパスに鉛筆でデッサン画を描いていたらしかった。
「どうして私の荷物を勝手に運び込んでいるのですか!」
「だって。茉莉の家の人がとりにきて、と電話をして来た。不便だろうからって」
「私の許可なく、不便とか決め付けて取りになんか行ったりしないでください!」
「そんなこと言っても。茉莉の荷物、ないと不便でしょう?」
これが先生の仕事モードと分かっていても、いま飄々(ひょうひょう)と普段とは違うものの言い方の先生にいらいらした。
「誰がここに長く住むと言ったのですか! 持ってきた分で足りています!」
「住まないの?」
さっきまでぼんやりとした視線で私を見ていた先生が身を起こした。視線がぶつかる。冷たい目だった。
なによ。なんだって言うのよ。そんな表情を向けられても、ちっとも怖くなんかない。
「しばらくしたら帰るつもりだったの」
「でも、茉莉がもう帰るところはここしかないよ」
淡々とした言い切り口調にムカッときた。なに勝手なことばかり言って進めているのよ。
「そんなこと言い切らないでください!」
「茉莉はずっとここにいればいい」
「お断りです!」
大きく息を吐き出して叫んだ。
「えー。帰って貰えばいいじゃないですかぁ。先生はカナのものでしょう?」
モデルが先生の方へ歩いて来るのを見ていた。全裸。いや、これは作品。マネキン人形……。
「あ、アナタはそのままでいてくれないと、紫が終わらない」
先生が立っていって彼女に戻ってというように肩に触れる。
「お仕事はしていますぅ。その間、先生はずっとカナのことだけを見てくれる約束だよね?」
モデルが裸体なのも気にする様子なく、先生に近づいていって、両手を先生の肩に回して微笑んだ。彼女の身体の線の先から先までが先生の身体にくっつくのを見ていた。
ちらりと私を見たモデルの子と目が合った。
「カナと先生は大人の関係よね?」
私は先生に抱きついている彼女を見ていた。先生は背を向けて動かない。
嫌な予感が的中してしまった。
しかもさらに嫌な感じがする。なんだ、この嫌な感じは。だから、この私の勘、ろくな結果を呼ばないのだよ!
「はい、はい。仕事をしっかりして」
先生は肩に回されたモデルの子の手を軽く放しながら淡々と言う。
一体、そんな感じで何人の女性と大人の……関係を持っているのよ。
先生はモデルの子に「このままね」とか言って椅子に戻って腰掛けると私を見た。
睨み付けてしまった。さらに嫌な感じってなんだ? ああ、そんなことはどうでもいい。
「私は先生がなんと言おうとお断りです!」
「茉莉。また後で話をしよう?」
「しません!」
ジーンズに絵の具がついた灰色のTシャツの格好の先生。後ろには裸体の女性。また叫ぶしかない制服姿の私。
ドアの前まで戻り、勢いよく振り返って全裸でただ立っているモデルの目を見て叫んだ。
「お邪魔しました!」
ドアを派手な音を立てて閉めた。
そのドアを背に大きく呼吸を何回も繰り返していた。
まさか、とは思っていた。嫌な予感もしていた。本当にそういうことだった。
先生は裸体画をこの部屋で描いているだけでではなくて、いかがわしい行為もしていた。
「サイテイ」
聞こえよがしに呟いた。そういうことだったのね。もう少しで騙されるところだった。
ちょっとはいい奴かもって思っていたりしていたのに。かわいいかもって思ったりもしていたのに。
なによ。本当になんなのよ。
自分の都合の良いようにみんなして勝手に私のことを進めてくれちゃって。
こっちの気も知らないで。
先生のやわらかい腕の中が心地いいかもって、かもって、感じたりしていたのに。