第二章 - 4 頁
リビングに戻ると小野寺さんはもういなかった。先生とやりあっている間に帰ったらしかった。
「さっきの人、なんか今日はどうしても忙しい日だって言っていたよ。ごめんね、って、茉莉に伝えといてって」
「そう? とにかく勉強をしましょう!」
私はこの前、先生が使っていたテーブルをアンティーク調の丸い絨毯の上に広げた。廊下の奥の部屋に仕舞うのが面倒になったらしく、その辺の壁に立てかけてあった。大きめの低い丸テーブルを広げて、二人に座るように勧め、冷蔵庫から乱暴にペットボトルのジュースを三本出した。
絨毯の上に座って参考書を自宅で詰めて来たエコバックから出していると、二人に質問攻めにあった。
“私の家庭の事情で一時的に氷山先生の家に下宿人として置いてもらっている。数日中には出て行く”
と、私は二人に説明をした。それ以外の質問は聞こえていないふりをした。少し予定が変更になっているが、嘘じゃない。
「今日のスケジュールは中間テスト対策と、今日の課題、プレ入試試験対策。時間があったら赤本に取り組む」
「そんなにやるの?」
「赤本って。過去問題まで中間テスト目の前にやることないだろ?」
ふたりを睨むように参考書を広げ、ぎゅっとシャーペンを握りしめて見た。
「やると言ったら、やるの!」
「金田、こえぇよ」
「知らなかったの? これが茉莉の地なのよ。岸川君」
「ええっ。怖いのは知っている。ここまでかよ」
「茉莉の地はここまでなのよ、岸川君。そろそろ現実を見なさい」
「なんでそんな現実を見なくちゃならないわけ!」
「うるさい! 黙ってやりなさい」
私はふたりに叫んでがむしゃらに問題にかたっぱしから取り組んだ。
なによ。人のことを好きだとか言って。キスすることが特別みたいなフリをしちゃって。
なによ。頭の中はホントにいやらしいことでいっぱいだったのね。見損なった。
もっと……。
そこで頭を振った。なにがもっと、なの。あくまで私の気持ちは「○○だったりしたのに」だ。したのに、だ。
ちょっとの気の迷いだ。新しい家族や勉強の伸び悩みのせいで疲れていただけだ。
常に「そうかも」と思っていただけだ。そうだ。それだけだ。
「茉莉?」
はっと顔を上げると真帆が私の顔を覗き込んでいた。
「なにかつらいことでもあったの?」
心配そうに囁くように聞いてくる。なんていい友人だ。同年代はやっぱり違うよ。
「なんでもないよ」
笑って答えた。
なんにもない。それでいいのだ。なんだか納得がいかないけれども、静かなところで勉強に集中するために、そのためだけにここに来た。他のことを考えるために来たわけじゃない。
目一杯に勉強をして東大に合格してやる、そうやって割り切って生活していればいい。
家族との意地の張り合いがいつまで続くのか知らないけれども、大学になれたら、あんなに疲れる家族とは離れて一人暮らしをすると決めていた。今もひとり暮らしが出来る家事能力はある。高校生だから不可能なだけだ。どれだけ長くなったとしても、高校を卒業するまでの我慢だ。あと四ヶ月あるかないかだ。大したことはない。
「金田、無理はするな」
余計なことを言ってくれる岸川君を睨んだ。
「うるさいなっ」
泣かない。絶対に泣かない。意地でも泣かない。もっと……の先なんて考えない。
どうして先生はこういう日に限ってリビングで夕食を一緒に取るのだろう。
私は黙々と食べていた。キッチンカウンターの椅子に先生と並んで座っていても食器が触れ合う音しかしない。実家だとテレビがいつもつけっぱなしだし、誰かが話している。静かな食卓には慣れていないから落ち着かない。
「茉莉ちゃん、このおかず、買って来てくれたのでしょう? スーパーを探した? たくさんの荷物で大変だった? お金はどうしたの? 今度からカード渡すから。ごめんね」
先生はマグロ丼を食べながら話している。高めのマグロだったのに味が分からない。ああ、どうしてもゆずれない東大合格の目標さえなければ、さっさと出て行っている。全部をなかったことにしたい。
「茉莉ちゃん、僕の話を聞いてくれている?」
先生は夕食ができあがる頃に仕事が終わったらしく、リビングにやってきた。
疲れた、どうも紫じゃない、締め切りが近い。色々と言っていたけれども、私は料理を無言で作って話を受け流した。丸テーブルは絨毯の上に出しっぱなしだ。先生と顔を合わせて食べている気分ではなかった。
私は丼(どんぶり)を持ったまま食べ続け、先生の方を見なかったし、返事もしなかった。
「茉莉ちゃん、どうかしたの?」
先生は心配そうな口調だった。一層のこと、モデルさんたちと同じように私にも冷たく接してくれないかな。仕事モードの時のように余計なことは話さない、人の話も聞いているのかあやしい人でいてくれないかな。そんな風にやわらかく話し掛けられたら、ぶちまけちゃいそうだ。
「茉莉ちゃん、随分、お友達とお勉強していたでしょう? 倉庫部屋に用があって覗いた時にもやっていたからね。それで夕食まで作って疲れたでしょう?」
確かに夕食として食べているが、もう十時近い。真帆たちが帰ったのが七時ごろだ。勉強に集中し出したら止まらなくなってしまった。
「あのさあ、茉莉ちゃん」
だめ。
「先に寝ます」
棒読みのように言って私は立ち上がった。なにも聞きたくない。
「えっ。もう? お風呂は?」
先生を睨むように見てしまった。お風呂なんて朝でいいよ。先生が寝ている間に入る。
「僕、そんなに睨まれている理由がよく分からない」
顔をそらした。殴ってやりたい。だめ、殴るな。無視だ。これ以上、関わるな。割り切れ。
「茉莉ちゃんが怒りっぽいのはいいけどさぁ、いつもは睨んでこないのに、なんで今日はそんなに睨まれているのさぁ」
さすがに睨まれていることが分かっていましたか。私は今までも睨んでいなかった? そんな風に見えるの? いいけどさ。短気な性格でも人を睨みつけたいわけじゃない。
私は学校鞄をずるずると引きずって、ベッドのスペースに入ると収納ドアを半分くらい閉める動作をした。脱衣場に行く気力すら残っていない。なんか今日は疲れきった。
「ちょっと。待って」
え? と思ったら、先生に腕を取られていた。本当にこういう行動は早いな。
「さっきから、先に寝る、としか話をしていないよね? なんで?」
今度は不安そうな顔つきだ。なんで、ってさ。ため息をついて顔を伏せる。
無理やりとられた腕を無言で引き離した。普段みたいじゃなくて簡単にとれた。
「僕、なんかした?」
あの場面を見せておいてもそんなですか。先生にとって、たいしたことじゃないのは分かっていますよ。
「言ってくれないと、分からないよ。でも言いたくないの? ごめんね」
引き寄せられて軽く抱きしめられる。
だからだめだって。そのやわらかさは心臓を打つ。
だめ。
手のひらに力を入れてそのまま先生の胸を押し返した。やはり今までみたいに抱きしめ直してこない。すぐに解放された。
「……おやすみ」
歯切れが悪く呟いて頭を撫でられた。先生がリビングを出て行く音を聞いた。お風呂に入りに行ったのだろう。予定通り収納ドアに隠れて着替えてベッドにいつものように入る。夕食の後片付けも明日の朝でいいよ。
今夜もすぐに眠つけない。寝たふりだ。彼がベッドの中に入ってきて……。
「茉莉ちゃん、好きだよ」
と呟いて。顔にかかっているとも言いかねる髪を耳にかけて。いつも通り……?
え?
布団を引っ張った感じはしたのに、寝ようとする様子がない。彼は私の髪の毛をとって細くみつあみをしはじめている。この人、本当に二十八歳になる男性か。大人の人なのだけども、いかがわしい。なにかがおかしい。
しばらく先生はみつあみをしたり、なんだか知らないが、長い髪をいじったりしていた。
いつになったら眠るのでしょう? 私の体内時計が正しければ0時半は回っているはずだ。いつまでそうやっているのだ?
午前一時近くじゃないのか。さすがに眠くなってきた。先生は髪の毛をいじるのをやめると、布団に入って弱く私を抱きしめた。
そのやわらかい感じは心臓を打つ。ここを打つな、っていう部分を打ってくる。こころの中の中。自分ですら触れることがない部分。
先生の頭が背中にそって布団に入っていくのを感じていた。
ゆっくりとした息遣い。寝ているらしい。
さっきの、さらに嫌な予感は……。
なにかがおかしい、と感じるところからきている。
なにかがこの人の中でずれている。仕事のモデルさんと画家の先生がいかがわしい関係を持つ時点でずれているが、それとは別の、あるいはそれと同じ部分でずれている。
息を吐き出した。あー、だからこうやって国語的な答えの出ないことを考えるのは苦手なのだ。でも先生のなにかがおかしいからこそ気になるのだ。
先生女性関係に触れてはならない。そんな気がする。
あの冷たい態度や声は仕事モードなだけか。日常とは全く違う。恐ろしいほどの変わり身だ。仕事場も兼ねているだろうけれども、ここは先生のうちだよ? どう見てもモデルさんたちは先生を好いているよ? さっきのおせっかいな友人の小野寺さんも好き勝手なことを言っていたけれども、先生を好いている。
それなのに、あそこまで自分の家の中でがらりと態度を変えるわけでもなく、人柄そのものまで違える必要がどこにあるの?
だめだ。これ以上、踏み込むな。
いかがわしくても穢れていても、彼の中ではその行為が聖域に近いのだろう。キリスト教信者として神への冒涜(ぼうとく)かもしれないが、そうしないと賞レースに勝つ作品が作れないのかもしれない。
えー。これって先生側にいいように解釈してあげてない?
大人の男性の性処理の問題じゃない? だって。ねえ。でも、もしかしたら……。当たっているかもしれない。
先生が眠っているって分かっているのに、やわらかく私を後ろから抱きしめる腕を引き剥がせなかった。