第二章 - 5 頁
八日目 十月八日 金曜日
毎朝の勉強を終わらせ、そろそろ朝食の準備とお弁当でも作らねばって時に呼び鈴が鳴った。
時計を見上げる。七時過ぎ。誰だよ。こんなに朝早く。
どうしてこんなに豪華な家なのに、インターフォンをつけないのだ。中から確認ができるようにして欲しい。
ベッドの上の先生を見やった。起きる様子もないし、起こして特に話したいとも思えなかったので、玄関の方へと急いだ。男性用のサンダルを引っ掛けてドアを開ける。
「あ、おはようございます」
ドアの向こうに立っていた女性は、私が出てきたことに驚いたように言った。
「お、はようございます」
この前の人だ、と思った。秘書かな? って、思った清楚で地味な感じの人。あの時はよく見なかったけれども、いくらなんでも面と向かって会っているのだから分かる。
ひとことでいえば地味で目立たない感じの人だ。少しふっくらとした体系。薄いメイク。柔らかそうな頬はピンク色に染まっていて、柔らかくカールした髪がパッチリと開いた目にかかっていた。
「はじめまして。二度目まして。この前は自己紹介もせず、失礼しました。氷山先生と同じ芸能事務所に所属をしているモデルの飯岡ももかです。本名です。ももかは平仮名です」
「あ、金田茉莉です」
私は彼女に合わせてお辞儀をした。彼女と初対面の時、四十歳と見積もっていたが大違いだった。
「ごめんなさい。私、氷山先生との仕事はまるきりはじめてで。ずっと憧れていてやっとお仕事もらえて。緊張して早く来てしまいました」
えへへ、と首を傾げて笑っている。私もつられて首を傾げて笑い返してしまった。
「どうぞ」
私は玄関のドアを大きく開け放った。彼女が家の中に入ってくる。
「うわあ。素敵なお住まいですね」
彼女は感嘆したように両手を拝むように重ね、目をキラキラさせて見回している。
「上がってください」
玄関の脇にばらばらと置かれていたスリッパを端に揃えたばかりだった。屈んで揃えて差し出すと、彼女はにっこりと笑った。
「ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべてお辞儀をされる。この前とは別人だ。それがモデルの時の顔か。どこに案内するのだ?
先生がまだ寝ているリビングに連れて行くわけにいかないし、アトリエに勝手に連れて行くのも違う。待っていただける場所は、どう考えてもひとつしかない。
「上に行きます」
私は案内係の笑顔を向けた。彼女は動く様子がない。家の中を観察している。のんびりとしすぎだ。彼女にイライラしながらループした階段を上がり、ロリータ部屋に案内して、椅子に座るように勧めた。
部屋の突き当りで大きく幅を取っている窓のピンク色のカーテンを開ける。眩しいな。
目をしばたたかせながら、彼女の方へ振り返って部屋を見つめる。
光の下で改めてみると、この部屋はピンク一色だ。あらゆる家具から小物まですべてのものがショッキングピンクと言い切って問題がないだろう色で統一をされていた。
この家に私が来て一週間近く経っているが、ここにあるテーブルと椅子のセットとワゴンがどういう用途に使われているのか知らなかった。いま彼女が座っている部屋の真ん中に置かれた木製のテーブルや椅子にも同色のひらひらのカバーで覆われている。
私が立っているドア前と反対側の左の壁側にはウォーキングクローゼットがある。いつかのロリータ服が入っている。あの中にしまわれた薄い布のひらひらの服たちがどんな風に使われているのかなんて知りたくもない。
飯岡ももかは両手をパンと音を立てて合わせて声をあげた。
「すごいですね! ピンクのお部屋。へえ。先生ってかわいらしい感じがお好きなのですね」
「飲み物を取ってきます。先生、まだ寝ているので、おそらく待たされます」
「気にしないでください。私が早く来すぎてしまいました。先生って朝に弱い感じじゃないですか」
なんでもうれしそうに先生のことを話す彼女を残して、私は飲み物を調達するために階段を下りた。
先生は自分の予定を具体的に語らない。私の今日の予定はしつこく聞いて来るけれども、自分自身のことはほとんど話さない。私が忙しい仕事の予定はどうなっているのですか? と、深い意味もなく興味本位で聞いてもちゃんとした答えが返っては来ない。
――そんなことより、僕は茉莉ちゃんのことが知りたい。
などと言って油断している隙に抱きしめられるのがオチだ。先生が仕事のこと以外で真面目モードになるのを見たことがない。あ、今は真剣かな? と思っても、すぐに笑ってかわされる。いつもかわされている。そんな気がする。
リビングに戻り、冷蔵庫を開けてオレンジジュースをグラスに注ぐ。
私はどうせ簡単にかわせてしまう、お子様ですよ。なんだかんだ言ったって相手は二十七歳の成人男性ですからね。全くね。愚痴りながら階段を上がる。
お盆が見つからなかったため、オレンジジュース入りのグラスだけを持ってロリータ部屋に入った。
先生にモデルさんが来たら相手をしろとか言われたことは全くない。モデルさんが来たら僕を呼んで、ここに案内して、とかも言われていない。私がすぐこの家を出て行くつもりだったから、先生に聞かなかったって言うのもあるけれども、先生は私がなにをしても怒ることもないからだ。
「ありがとうございます。喉が渇いていました」
その笑顔。姉に言わせたら百点ではないのか。女の子らしいからって。
「ももかさんは、おいくつですか?」
思わず聞いてしまった。
「私ですか? 三十歳です。茉莉さんもモデルを希望されているのですか?」
「いえ、私は父の仕事の都合で、ここの下宿人なだけです」
「あ、金田画商の娘さんでしたね! 氷山先生って女性関係の噂がいろいろあるでしょう。だから私はてっきり。親戚の子のような関係だったのですね。すみません」
彼女はくすっと笑って軽く頭を下げた。私は笑い返せなかった。私が先生の親戚の子ってどういう嫌味だ?
でも、そうか。芸能界の人が先生の女性関係がいろいろあるっていうほど、あるのか。
「じゃあ、私は失礼します。用があったら、テーブルの上の子機でシャープを押して内線一番にかけてください。一階に繋がるので」
これだけは先生がまともにしてくれた説明だった。二階のロリータ部屋と一階は内線電話で繋がっている。アトリエでは電話が鳴ると集中をさまたげられるから携帯電話も持ち込んでいない。二階はここに子機があるって。
「私はモデルの仕事で食べていけないので、この前みたいに芸能事務所の運営側のお手伝いのバイトもさせて貰っているのです。大体は分かります。何かありましたらかけます。ご親切にありがとう」
笑顔の彼女を見ながらドアを閉める。自分は事務も出来るから、学生に用はないと言いたいのは分かった。
階段を下りながら、私はなんでこんなに複雑な気分になっているのかよく分からなかった。考えないようにしよう。やるべきことは他に山のようにあるのだ。
朝ごはんを用意していると、先生がぼんやりと起きてきて私の後ろに立った。
「おはよう」
眠そうな声だった。私は野菜を黙々と刻んだ後、炊けたご飯を混ぜていた。
「茉莉ちゃん、今日も早起きだね」
先生に頷いた。私は今日も話したくない。このまま正に灰色の受験生活を送らなければならないのだろか。
なにの天罰だ! 最近、勉強と家事が忙しくて日曜学校にあまり行けなかったことへの罰か? そうだ。日曜学校に行こう。ひさしぶりだし、寝てしまいそうだけれども、少しは落ち着くかもしれない。
「茉莉ちゃん、本当にどうしたの?」
ねえ、というように両肩を後ろから弱く押される。意味不明に不機嫌な私を抱きしめては来ない。
「先生、二階に飯岡ももかさんというモデルさんがいらしています」
棒読みを通り越して、事務的な口調になってしまっている。しっかりし過ぎている娘と言われるゆえんはこの辺りにあるのだ。
「え? もう? 朝の十一時からの約束だよ」
「初めてで緊張して早く来てしまったそうです」
「ふうん。暇なだけだよ」
先生は興味がないとでも言いたげに呟いている。
「そんなこと言われても、僕が仕事を始めるのは予定通り。十一時からだよ」
朝食って卵の割合が多くなるよな。もっと栄養配分を考えねば。
「二階にいてもらえばいいよね?」
私は料理をやっと買ってきたお弁当箱に詰めたり、お皿に並べたりしていた。
「茉莉ちゃんさあ、今日はいろんなモデルさんが来る日だよ。朝から数人、ばらばらとした時間に来るはず。いつ来ることになっていたのか、細かい時間は手帳を見ないと覚えていないのだけれども、いつもより忙しい日だよ。だから今日は僕の仕事がいつごろ終わるのか、少しは時間があくのか、その辺りよく分からないどさぁ、言いたいことは言うからね?」
珍しく自分から今日の予定を長々と話している。やっぱり先生はずれている。そこは私の言いたいことは言ってくれていい、というべきなのではないのか。長く話されても、先生がなにを言いたいのかよく分からない。
「ねえ、分かった?」
「おそらく。私は疲れているので、眠ければ寝ます」
こればっかりだな、私。
「そうだけどさあ。茉莉ちゃん勉強がたくさんで大変だし。でもさあ」
でも、も、へったくれもあるか! 私は朝食を台の上に並べて先生が座るのを待った。
椅子同士の距離をあけて腰掛ける。カウンターが広くて良かったわ。
「茉莉ちゃん、なにが不満なの? 僕に、でしょう? 言ってくれないと分からない」
暗く悩んでいるらしい声だった。言いたくないなら言わなくていいみたいなことを言ったり、やっぱり分からないから言えって言ったり、忙しいな。
今日は私も忙しいのだ。この前のテストの判定が出る。うちの学校は、東大合格者数が五本の指に入るのを謳い(うたい)文句にしているから、回転は速い。
あっという間に食べ終わるとエコバックと学校鞄を持ってリビングを出た。先生はまだ食べながらじっと私を目で追っているらしかった。ふりかえりはしなかったけれども、視線を感じる。
更衣室で制服に着替え、みつあみをする。昨夜のあれはなんだったのだ? 先生が寝付けなかったから、人の髪の毛をいじっていただけなのだろうか? ああ、もう分からない。分からなくていい。
着替えて鞄を肩にかけて廊下に出る。裸足で立っていた先生と目が合ってしまった。
目をそらしてそのまま玄関に向かう。
「茉莉ちゃん」
やわらかく呼びかけられた。でも振り返らなかった。
そのまま無言でローファーを履いて、玄関の扉を開ける。
外に出た。青空。嫌いじゃない街の風景。誰かを思わせる空気。
ぐっと前を見て歩き出した。
私はただなにも考えずにしっかりしている、かわいげがないとか言われるような行動をしてきたわけじゃない。そうやってやるしかなかったのだ。そうやってやると決めてやっていたのだ。
負けない。ここで絶対に負けない。勢いよく風を切った。