先生とあたしとパイナップル (14)

第二章 - 6 頁


 放課後はまた担任に真帆と一緒に呼び出された。
「清水はともかくだな。金田、お前、最近どうかしたのか?」
「私はともかくってあんまりです」
 真帆が抗議している。
「これを二人とも見なさい」
 嫌な感じだな。テストの判定のプリントを受け取った。ため息をついてから広げる。
『B判定 合格率60パーセント さらなる努力を期待します』
 その文字を見て、また気が遠くなりそうになった。この私がB判定!
「うわー。私、D判定ですか?」
 真帆、のんびりとD判定に感心している状態でいられていいな。
「わざわざ聞くまでもなくD判定と書いてあるだろうが。もう少しやりなさい」
「茉莉ほどにやったら、私は死にます」
「まあなあ、この短期間でE判定からB判定まで持ち直したのは、金田らしいが、単なるBだぞ? Bプラスでもない。最悪でも来週までにBプラスに持ち直せ。プレ入試試験が始まったら、A判定をとらないと厳しくなるぞ」
「分かっています」
 そんなことは言われなくても分かっていますよーだ。あんなにやったのにまだ単なるB判定! この学校に入ってA判定の文字しか見たことがなかったのに。そこまで落ちたか。
「金だ、やる気があるのだろう?」
「当然です! 私が目指すは東大のみです」
「そうか。お前はどっちかっていうと勉強のしすぎだからな。少し息抜きをしたらどうだ? 恋愛でもした方がいいぞ」
 母と似たようなことを言わないで欲しい。大きなお世話だ。
「先生、それはいまの茉莉には禁句です」
 横の真帆まで余計なことを言う。
「うるさいな。黙っていてよ」
「なによ。朝からそんな元気のない顔していて。私は気がつかないとでも思っているの?」
「思ってないけど」
「親友にも言えない悩みって一体なによ?」
 私は、え? っ、と体を斜めに真帆から離した。担任がこっちを見ているのに真帆はおかまいなしだ。だってここであれを言うのですか? 灰色の受験生物語を話すのですか。
「ごめん。いまは言えない」
 ガクリと肩を落とした。うちの家族だけじゃなく、私までおかしい。こんなの私じゃない。
「先生、私、もう帰ります。真帆の話は聞いてあげてください」
「えっ。まだ話を聞きに来たばかりじゃない? 具合悪いの? 送る?」
「ううん。ありがとう」
 真帆はいつも優しいな。笑顔を返した。
 とぼとぼと帰り道みをひとりで歩く。
 あー。もうどうするのだよ。これ以上、灰色の受験生を送り続けたら、私の世界はブラックになってしまう!
 ごめんだよ。どんな色にも負けたくはない。でも……。唇を噛みしめて空を見上げた。青と赤とオレンジが混ざりあった夕焼けだ。微妙な色合い。私にもっとパワーをくれ!


 パワーをつけるための料理は、やはりカレーですかね。昨日の夜もどんぶりもので手抜きのようだったけれども、いいか。スーパーで買い物をして帰ってきた。
 先生とは割り切った生活をする。朝に話していた通りカードは渡して欲しい。手持ちの現金は家を出る時にお財布に入っていた一万円札と小銭だ。残り少ない。通帳は持ってきているが、月のお小遣い一万円の我が家は、お年玉や誕生日も品でなく同額だ。衣類や参考書を買って来た。貯金は多くない。財政難もいいところだ。少なくともそれだけは言うか。
 スーパーの袋と学校鞄を下げて玄関のドアを開けると、玄関内に立っていた女性のきつい視線と目が合った。
 彼女を下から上へ見上げる。ナイスバディなお姉さんだった。先生が言っていたばらばらに来るモデルの人のひとりなのだろう。服装もメイクもとても派手だ。
 彼女はじっと私を値踏みでもするかのように見下ろしていた。
「どうかしました?」
 先生にご用では? そんなに威圧的に見られても困る。呼んで来きなさいってことなのかな。
「あなたが茉莉っていう子?」
 黙って見ていた彼女はいきなり言った。なんか失礼な言い方だな、と言う目で睨んでしまった。
「そうなのね? あなたが泰明の婚約者? たいしたことないわね。正式な婚約者になるのは、あなたの勝手よ。でも彼は私のものですからね」
「正式な婚約しゃぁ?」
 大声で叫んでしまった。
「ちょっと待ってください。私と先生は正式に婚約なんてしていません」
 いつの間にそんなことになったのだ。
「隠すことないわ。構わないって言ったでしょう?」
「構わないって。隠していません!」
「だから高校生でもいいわよ。泰明がはっきりそう認めたのだから」
「あの、ですから誤解です」
「泰明がはっきりと言い切ったの。婚約者がいても、泰明は私のものなのよ。分かった?」
「いいえ。人の話を聞いてください!」
「冗談じゃないわ。こんなダサイ三つ編みの小娘なんて」
 彼女はそう言い放つと、私を押しのけるようにして、玄関のドアを派手な音を立てて閉めていった。
 じょ、冗談じゃないのはこっちの方ですよ。
 スーパーの袋をその辺に投げ捨てて、私はループした階段をどすどすと上がって行った。
 玄関に女物の靴がもう一足あったから、先生はアトリエで仕事をしているのだろう。
 今いた女の人は迷彩柄のスニーカーで帰って行った。今玄関にある靴の持ち主の前に描くなりなんなりしていたモデルだったに違いない。
「先生!」
 私はバンっといきおいよくドアを開け放った。
 うわ。
 先生の方を見るより先に今朝会った飯岡ももかって人が灰色の屏風(ひょうぶ)のような壁の前で立っているのが目に入った。
「どうかした?」
 こっちを見ていたらしい先生を睨んだ。先生は彼女の少し前で立って腕を組んでなにか言っていたらしかった。
 大方、灰色がどうのと言っていたのだろう。君はシルバーグレイのはずで、灰色ではないとか。ああ、そんなことはいい!
「どうしかした? じゃありません!」
 私の大声に飯岡ももかはびっくりしたようにこっちを見て目を大きく見開いたけれど、裸体で灰色の台の上に立って、やはり灰色の毛布を握り締めている体制そのものは一ミリたりとも動かさなかった。
「あ、そうか。言い忘れていた。おかえり。茉莉」
 先生は私に斜めに振り返ったままにこりと笑った。うわー、その笑顔は仕事モードだよ。冷え切っているよ。
「いいえ。人を勝手に正式な婚約者になどしないでください!」
「え、先生、ご婚約をされたのですか?」
 さっきまで動かなかった彼女が先生の肩に指先をのせるようにして言う。
「アナタは動かないで」
 先生が彼女に息を吐き出しながら言っている。
「でも、だって。わたし……」
 彼女の指先に力が加わるのが分かった。うわー。甘い声だ。さらなるさらに嫌な予感がしてきたのは気のせいでしょうか。
「アナタ、モデルらしくいて。帰って貰うよ」
 向こうを向いて先生が彼女の手を引き剥がすようにして、彼女の手を落とすと、私の方を振り返った。
「それで茉莉、どうしたの?」
 氷の山だかなんだか知りませんが、私が短気モードなのはどこでも変わりはしませんよ。
「どうしたのじゃありません、さっきから言っているじゃないですか! 正式に婚約するなんて勝手に決められても困ります!」
「だって茉莉のご両親は許可した」
 なんて親だ。娘をのけ者にして三人で話し合って決めるな。
「私がそんなことで納得したりなんかしません! それとですね、さっき帰ったモデルの人、ものすごく失礼でしたよ!」
「ごめんね。彼女、きついから」
 ふっと笑われた。その笑顔はずるい。私にしか見えない角度でいつものようにやわらかく笑うのはずるい。
 先生を通り越して飯岡ももかと目が合った。嫌だな、そう顔に書いてある。
 ああ、もうなんでこんなことになっているのだよ。
 まだ先生は私を見ている。透明色の目。なにもかもを見抜ける瞳。
「先生に謝られても、当人が反省すると思えません」
 私はやっとのことで言って、乱暴にドアを閉めてアトリエを後にした。
「茉莉ちゃん、どこか行くの?」
 階段を下りている途中で、音もなく先生に肩をつかまれた。振り返る。
「いきなり足音もさせずに来たら、落ちそうになったじゃないですか!」
 本当にもう少しで足を滑らせるところだった。手すりに捕まって見上げていた。
「ごめん。どこかに行くの?」
「行きませんよ!」
「そんな風に見えない」
 睨みつけた。
「私に行くところなんて、もうないじゃないですか!」
 先生の手が肩から放れていく。なんでよ。怒っているのも、嫌な気分なのも私の方なのに。どうして先生がショックを受けたみたいな悲しそうな顔になるのよ。
「駅の近くのコンビニに行くだけです」
 どうせ切れそうな油を買うのを忘れてきたし。
「だったら、これを持って行って」
 差し出された皮の定期入れのようなものを受け取る。
「茉莉ちゃん、携帯電話、持って行ってね」
 軽く私の頭を数回撫でて階段を上がっていく先生を見ていた。数段だけ上がって振り返られた。弱く笑顔を向けられる。私はなにも返さなかった。
 アトリエのドアの音がバタリと聞こえるまで、ずっと手すりを握り締めて立っていた。


 なにがどうなっているのだろう。
 先生の家から十分五程度のコンビニでカゴを持って歩いていた。
 丘公園の辺りは街の外観を統一して整えている。コンビニは最寄り駅の裏手に小さく一軒しかない。
 彼の考えていることがよく分からない。義理兄が考えていることも分からないって思ったけれども、いま先生は目の前にいるわけだし、兄と話し合う時のように周りにぐちゃぐちゃと他の人がいて、邪魔が入って会話がままならなかった我が家とは違う。ほとんど先生とは二人きりで話しているのに。先生はマイペースなだけでなく、自分勝手な王様タイプということなのか。初めから仕切っていた。先生が「お嫁さんにする」と言い出したから、私は家を出るはめになったのだった。
 油の他にカット済みのサラダの数種類を選び、カゴに入れて、雑誌コーナーでツッキーが表紙の週刊紙を手に取る。
“認めてしまえば簡単なこと”
 大きく書かれた文字だった。見開きのページを斜め読みする。彼の演技についてのことだった。自分の演技が下手だと認めてしまえば、楽になって肩の力が抜ける、自分は自分でしかない、ありのままでいい、と呟いてみる。そうすると良い演技ができる、と言っている。
 さすがツッキー。言うことが違う。感心してしまった。考えずにカゴに入れる。
 油のみを買いに来るつもりがたくさん入れてしまった。カゴが重い。先生の家、足りないものが多いのだよな。
 私には高めでも、この街に住む人たちにとっては安めのスーパーには刻まれたサラダが置いてなくて、小さすぎるコンビニには置いてある。先生の家に来てからお金の使い方が雑になっている。どれも納得がいかない。
 レジの列に並び、さっき先生から受け取った黄土色の定期入れのようなもの制服のスカートのポケットから出す。定期券が本来は入るはずの窓の中では福沢諭吉が笑っていた。中を開いた。すぐ二枚のカードが目に入った。
 これはクレジットカードですか。引き出した。『Mari Kaneda』と文字がある。VISAがついた外資系の銀行のカードだった。いつの間につくったのだろう? 私が学校に行っている間に作ったのは分かるけども、こういうのって親のハンコやサインが必要で、すぐには作れないのでなかった? 今日、出来たのかな? このカードは私の名前になっているが、先生の銀行名義からお金が落ちるようになっているのだろう。それって先生が銀行に行かないとつくれないのでないの? 今日に出来たなら、今日にとりに行ったの? とても忙しいとか言っていて?
 レジの順番が来たので首を傾げながら、台の上にカゴを置く。
 なぜか三千円近くしてしまった。コンビニって使い慣れない。便利なのはいいけれども、値段が怖い。
 コンビニから出て、スカートのポケットにお釣りを入れながら、定期入れの残りのポケットに入っていたもう一枚のカードを取り出した。『保険証』だ。この前、小野寺さんって人が来た時に持ってきたのだろうか?
 定期入れのポケットの部分にもなにか入っている。カードらしい。引っこ抜いた。ああ、イオカードか。至れり尽くせりだな。先生は引きこもりに近い生活をしているくせに、よく気がついたな。
 イオカードは持っている。チャージをしていないから使っていないだけだ。それもあの先生が気付いたってあるか? カードを元に戻してコンビニの前の道から端の方に移動して考えてしまった。
 家計費うんぬんは先生からもらうとして、私は本当に家に帰らないのか? このままのこのこと帰れますか、と思っていた。でも正式な婚約者とまで言われてしまっては、いくらなんでも行きすぎだ。婚約になっても、なにが変わるわけでもないのかもしれないけども、“正式”とまでつけている。モデルさんが「はっきり言い切った」と、氷山先生にはじめて感心したかのように言っていたのも気になる。
 このまま家に帰らないわけには行かないのではないのか? 受験にもお金は掛かる。先生に出して貰うわけにはいかない。先生の女性遍歴には目をそむけとけ、としか思えない。こんな灰色の受験生活を送ったら落ちてしまう。あらゆる意味で。
 暗くなってきたな。腕時計を見た。そろそろ六時と言うところか。
 携帯電話を取り出す。仕方がない。母に言っても結婚をそのまましろ、とか言われかねないから、そう言うに違いないから、バカ父に抗議しよう。
 バカ父、と自分で入れた名前を呼び出しコールする。あの人も先生と似ていて、どういう仕事のスケジュールで動いているのか分からない。何か聞いても、ちゃんとした返事が返ってこないのまで同じなのだからやっていられない。早く出てよ。
「やあ! 茉莉。元気かなあ! お父さんは元気だぞ」
 相変わらずのテンションだ。このひとことを聞いただけで私はため息をつき、疲れそうになった。
「私、氷山先生の正式な婚約者だとモデルさんに言われて、とても迷惑しています」
 ん? なぜかあのバカ父が黙ってしまっている。お互いの後ろで音はしているが、そんなにうるさい場所にいない。
「……どうかしたの?」
 いつも喋りまくる人なのに。私から電話なんかしようものなら、必要以上に喜んでうるさいのに。なんでそんなに長く黙り込んでいるの?
「氷山君が困っていたから、茉莉をあげるって言っちゃった」
「言っちゃったじゃないでしょう!」
 叫んだ。なにを勝手に義理とは言え自分の娘をあげているのだ。
「氷山君、困っているように見えない?」
 バカ父。いつもこうだ。私が電話をして文句をつけているのに、質問をするな。
「女性面で困っているようには全く見えません」
 あの先生のどの辺りが困っているのだ。一人暮らしで家事全般が不便なところだろうか。確かに家は広いし、随分きれいにしたけどさ。倉庫部屋は私が使うこともないので触っていないが、生活している部屋の端に埃があると思うと、落ち着かない。自分の周りの空気も汚く感じて、他のことを置いても掃除を夢中でやってしまう。
「お父さんも氷山君が本当に困っているのかどうかは、よく分からない。茉莉も同じように感じたか!』
 わはは、というように楽しそうに笑っている。バカ父! 相談する相手を間違えた。
「そうでしょう? 特に困っているようには見えないでしょう?」
 帰ってきていい、ひとこと言って。そしたら帰る。すべてなかったことにしてあげる。
「でも、茉莉がいいって思ったぞ。氷山君に茉莉をあげるのがいいって。俺たちの信頼の証だ」
 バカ父! それは自分の先生への想いの証であって、娘の意見はどこにいったのだ。
「氷山君なら経済面でも、人間性にも問題ない」
「経済面はいいとしても、先生の人間性が分かるほど付き合っていないでしょう?」
 今年に入って会ったと言っていたはずだ。うちの家族が三年経っても分かり合えてないのだから当然だ。
「茉莉は相変わらず手厳しいな。実際の付き合いなんかなくても、彼の人間性は初めに一枚の絵を観た時からすでに知っている。彼のすべてが彼の裸体画に描かれていた」
 すべてが裸体に……。絵のことになるとこうだ。真面目な意見に変わる。たった一枚の絵を観ただけでその人の人間性まで分かるというのは強引な主張だ。その評価は自己満足でないのか。この前の男の人じゃないが、理解しがたいものは理解しがたい。我が親ながら。
「だからって、私をあげないで!」
「氷山君に茉莉をあげたいからあげた。お母さんはそのまま結婚すればいいと言っている。お姉ちゃんにも少し家事を覚えて貰わないと、嫁の貰い手がない。この家は長男のアサヒに継がせる。帰ってこなくていいぞ」
 バカ父は言うだけ言って電話を切った。いつもこうだ。携帯電話を乱暴にポケットにねじ込んだ。
 帰り道を歩く。
 あげたいからあげたって、今日のうちに私抜きで決めるな! 母は、「あなた結婚しなさい」の台詞がどう見ても本気だったから、バカ父があの調子で先生のことを褒めていたら、良かったわと考えているのだろう。
 帰ってこなくていいと言っていても、今から帰って行ったところで怒られはしないし、元通りなのだろう。両親に怒られ、兄や姉に文句を言われたところで、喧嘩をするだけだ。ストレスに感じてもどうとでもなるけどさ。
 既に暗くなった夜空の月を見上げる。
 はじめに先生の瞳と重ねたような月だ。今夜のように眩しくない。やわらすぎて消え入りそうで、それでも確実な光だ、って感じた。
 あの美術バカの父は、先生の女性遍歴まで知らないのだろうし、何か見ても気がつきもしないだろう。
 でも、あのバカ父、ただのバカではないのだ。そんなことは知っている。初対面の時から、いつだって姉より私をかまっていてくれた。姉が「キモイ」とか言って年中父を避けていたせいも大いにあっただろうが。
 問題は多くある。はっきり言ってバカ父の性格や価値観のすべてをどうにかして欲しいことに変わりはない。でも、あの人はただのバカではないのだ。理解しがたいが。あまり分かりたくもないが。
“でも、茉莉がいいって思った”
 バカ父を感覚の人だと、この前、飯岡ももかと来ていた男の人が言っていたように、なぜそう思ったの? と問い詰めても、頭が痛くなるような疲れる答えしか返って来ないのだろう。
 先生は経済面に問題なく、人間性に富んでいるらしく、父があれだけ買っている。
 どうも分からない。国語の現代文の解釈にすらついていけない私に、生の感覚の人間についていけ、と言う方が無理だ。全く理解ができない。
 それでも。バカ父は思ったわけだ。茉莉をあげる、って。それがいいって。
 義理兄はともかく、両親には知るか、とされたわけでもないらしい。だからってバカ父はどこまで言ってもバカ父に違いはないのだが。
 これは私への挑戦か!
 変な怒りはエネルギーになり、速足で家路に着いた。

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