第二章 - 7 頁
どうも勉強に集中しきれない。夜ご飯を作る前に玄関の廊下でもきれいにするか、とモップで磨いていた。
「あなたが茉莉さん?」
え? と顔をあげた途端、腕をとられ、廊下の隅に引きずるようにして美人で背が高い女性に連れて行かれる。そう言えばもう一人分のパンプスが残っていた。
「泰明と婚約したそうね? 言いたいことがあるの」
あまりの美人に詰め寄られると怖いな。夜まで先生のいないところで宣戦布告ですか。
「あなたと氷山が婚約しようが、結婚しようが、かまわないの。彼は私のものでもあるの。別れませんから」
私は濃いマスカラだな、半分落ちかけているよ、などと考えて彼女を見上げていた。
つまりなにですか、婚約者だけでなく、妻がいても、あなたは全くかまわないから別れない。それでいいと開き直ることにした宣言ですか。
既に令和! 『源氏物語』の一夫多妻制の時代とは違うのよ。
「言っておきますが、先生にはたくさんあなたのような方がいるみたいです」
むかっときた私はそう言ってやった。もてていても、先生に女性を見る目はない。
「いいのよ。私が一番に決まっているのだから」
「一番って言っても、他にもいるのですよ?」
「男にハーレムは必要なのよ。特に相手は裸体画家の氷山泰明よ?」
「ハーレムって」
「ハーレムでしょう?」
「ハーレムって、オランダ西部のチューリップ栽培の中心地ですよね?」
「そんなことを誰も言っていないの! それに、そんなこと知らないわよ」
大声に身体を斜めにした。冗談だって。分かっていますよ。
「あなた知らないかもしれないわね。ホストクラブだってハーレムの一種よ」
「なにかが違うような」
ホストクラブは男性が女性をはべらせるようなところか? 画家の先生とモデル。上下関係はそれと逆だ。
「そんなことはどうでもいいのよ!」
「自分で言い出したくせに」
「いいの。ここがハーレムだろうが、恋人がいようが、婚約者がいようが、妻がいようが、私が一番美人でいいに決まっているのだから」
彼女はいけしゃあしゃあとそう言って、余裕な笑みを作った。
「じゃあね、かわいそうな婚約者さん」
そんな捨て台詞まで吐いて去っていった。あんたらはそれでよくても、私はよくないよ。
なんてことかしら。
勉強をすまして九時も過ぎる頃になってから私は夕食の料理をしていた。
いくら売れっ子の裸体画家だからって、こんなことが現代の日本でまかりとおっていいのかしら。
野菜をだんだんとまな板の上で切っていると、先生がルームウエアに着替えて後ろにやってきた。
「茉莉ちゃん、今日はカレー?」
あー。むかつく。全体的にむかつく。具体的なひとつのものにむかつくのでなく、なににむかつくのかわからないから余計にむかつく。
「カレーは甘口がいいよね」
それは辛口の箱が置いてあることへの遠まわしの文句ですかね?
「すみませんが、甘口のルーは買って来てないので、辛口に牛乳を入れるってことでいいですかね?」
事務的に言いながら、乱暴に夕食の食材を切って鍋に入れていく。どうしてこんな時にまで、カレーを作るのなら、多めに作って鍋ごと取っておけるように量を調整しておかないと気が済まないのだ。
「別に辛口でいいよ。食べられる。僕の言い方が悪かった。ごめんね」
後ろから触ろうとしてきた動きを今夜は逃さなかった。
「触らないでください!」
振り返って包丁を持ったままギロリと睨んだ。
「私にいま触れると、これで刺しますよ! 私は本気です!」
叫んで言うだけ言うと、たまねぎをきざみ始めた。
「茉莉ちゃんどうしたの? まだ不満があるの?」
その台詞を聞いて、だん、と二つに割る必要もない玉ねぎを割ってしまった。
まだ不満があるのかって。私になにか不満があるらしい、ってところから悩んで正式な婚約者として発表するってことになったのか。どういう理解力だ。
「茉莉ちゃんさあ、今日渡したカードだけどさあ、好きに使っていいからね? 僕、茉莉ちゃんが月にどのくらい使っているのか分からないし、携帯電話の料金も詳しくないから、こっちに回すか、そこから払っていいよ」
「内訳表は出します」
私はお金の問題にうるさいのだ。
「そんなさあ、他人行儀なことはいいよ」
「やらないと気がすみません! そもそも他人です!」
「だって。今日から正式な婚約者だし。誰も反対していないし。弊害(へいがい)がない」
「私自身が反対しています!」
「茉莉ちゃんはさあ、そうやって怒っていた方が好きだよ」
いきなり顔を横から覗き込まれた。
「でも、茉莉ちゃん、本当にどうしたの?」
「うるさい! 玉ねぎがしみているだけです」
今夜の献立メニューを間違えた。こんな気持ちの時に玉ねぎなんかきざんだら、涙が浮かんでくるじゃない。洋服の袖で目をこすった。
「もう覗き込まないでください!」
睨むように見てしまった。
「そんなこと言っても、茉莉ちゃん、大丈夫?」
先生はなおも心配そうに聞いてくる。さっきの、どうしたの? って、言った声だって私の奥のどこかを打った。そのやわらかい感じは絶対にずるい。
「しつこいですよ! 大丈夫だって言っているでしょう? 放っておいてください」
私は一気に叫んだ。まあ、ここまで言えば、さすがに先生も黙ってくれると……。
「茉莉ちゃんのおうちの人は、茉莉ちゃんがそういう風に言うと、茉莉ちゃんが悲しそうな顔をしているのに放っておいたの?」
「……そういうのを見て見ないふりをするのだって愛情です」
「僕はそんな愛情はいらないな。欲しくない」
私は振り返った。先生はちょっと寂しそうに微笑みかけてきた。
「そんな顔をしてみせてもダメです」
あ、鍋が。野菜とルーを突っ込んで混ぜ合わせる。
「どいてください」
まだなにか言いたそうな先生を押しのけて、冷蔵庫から牛乳を出す。辛口のカレーでいいだろうと勝手に決めてしまったから、お鍋だってひとつしかないじゃないか。甘口ってどのくらいだよ。見当がつかない。
「目分量で牛乳を入れて作ってみます」
私はどかどかと牛乳を入れた。ああ、軽量カップが欲しい。
「それはいいけどさあ、僕、茉莉ちゃんとお話をしようと思って早く仕事を終わらせたのに」
「恩着せがましいことを言わないでください! 頼んでいません」
「僕が話したかっただけだけどさあ、茉莉ちゃんがお勉強やお洗濯やお掃除をしている様子を見ているだけでも忙しそうだから、ご飯作ったり食べたりしている時くらいしかゆっくり話す時間がないと思って」
「私は話したいことなんかありません!」
カレーの中身を小皿にのせて口に含む。甘いというより薄味な気がする。でも、こんなものか? 私はこの味をおいしく食べられない。
「それでもさあ、茉莉ちゃん、僕になにか言いたいことあるでしょう?」
「ありません」
「でもさあ、そんな感じがするから」
「だ・か・ら、男のくせにしつこいです!」
「なにをそんなに怒っているの? 昼間のこと? ごめんね、そんなにひどいこと言われたの? 茉莉ちゃんになにも言わないようによく言っておくから」
「別に。言いたい人には言わせておけばいいです」
「そう? でも、茉莉ちゃんにそんな風につらそうな顔して欲しくない」
「つらくないですし、そのせいでもありません」
「茉莉ちゃん、だったらなんなの?」
頭に手のひらを置かれて例の調子で言われたので、振り返って腕をつかんだ。その腕を引っ張り、カレーを煮込んだ鍋の火を止めたところでおたまを突きつけた。
「私、今日はもう寝ます。カレーは出来ているのでお皿にご飯と盛って食べてください」
「えっ、具合が悪いの?」
私はそれに答えなかった。もう今日もこのまま寝る。そのままリビングを歩いて、ただベッドに横になって壁側に向くと、布団に顔までもぐって目を閉じた。
私はどうしても第一志望の東大に受からなければならない。勉強をもっとしなくちゃならないし、ずっとここにいられるわけでもない。
先生はなにを血迷ったか私をお嫁さんにするとか言っているけれども、私はいつかここから出て実家に帰らなければならない。そうでないと落ちる。
中学三年生のときから東大のみを目指してやってきた。月日は経ち、高校三年生の十月になった。
まだ高校最後の体育祭や文化祭やバトミントン部の追い出し試合などは待っているが、ここからはそれらの行事を無視するようにして勉強をしなければならない。国公立大学を目指す受験生たちはみんなそうだ。ここでがんばらずにいつやるのだ。ここでの頑張りがものをいう。
他のことに空回りしている余裕などどこにもない。
私は全身全霊で受験へ向けて努力をしなければならない。
先生の周りの女性関係のごたごたや、おかしいって感じることに巻き込まれている時間はどこにもない。
そのはずなのに……。
「……茉莉ちゃん」
身体を左右に揺さぶられた。
「茉莉ちゃん、ちょっとでいいから起きられる?」
目を開けるのも重かった。疲れていると思っていたが、本当に疲れていたらしい。目を開けて定まらない視界にベッドに乗り出している先生と目が合った。
「具合が悪いのでしょう? なにか食べて、ビタミン剤でも呑んでおいた方がいいよ。それでも治らなかったら、病院に行こう?」
「寝れば治ります」
「いいから。起き上がられる?」
起きる気なんかなかったのに、強引に抱きかかえられるように起き上がらされた。
「はい、茉莉ちゃん」
先生は目の前になにかを差し出した。お盆の上にはグラスに埋まったピンクのゼリーがのっていた。
「どうしたのですか、これ」
「棚の下の方をね、あちこちひっくり返してみたらゼラチンが出てきたから、ゼリーを作ってみたよ」
さあさあ、というようにスプーンを握らされたので、私は仕方なくゼリーを口に含んだ。
そのゼラチンの箱の賞味期限は見ていただけたのでしょうね?
「やっぱり具合が悪い人には、消化がいいものじゃないとね」
身体の具合が悪いのでなくて、虫のいどころが悪いのだ。ごくりとゼリーを飲みこんだ。
「どお?」
「ものすごく苦いです。味見はしたのですか」
「したよ」
ベッドに腰掛けて私の顔を見たまま先生が拗ねたように言ったので、笑ってしまった。
「茉莉ちゃん、そうやって笑っていた方がいいよ。眉間にしわが寄っちゃうよ」
彼は私の眉間を人差し指で軽くつつくように触れた。
「先生、これにはなにを入れましたか?」
私は無理やりゼリーをほとんど食べ終わってから言った。
「なにって。赤ワインだけど?」
やっぱり。苦いと思った。そんなことじゃないかと思ったよ。まずいぶどうじゃなかったのね。
「赤ワインって言うけどさあ、僕、赤ワインにはそれなりに好みがあって、安物じゃないから、そんなにまずそうな顔をされる覚えはないよ。そんなに具合が悪いの?」
「私、お酒はだめなのです」
「ええっ? 今時の高校生はアルコールなんて当たり前じゃないの?」
「私もその高校生の中に含まれるように見えますか」
「見えない」
私は納得したらしい先生にお盆を返した。
「ごちそうさま」
「ついでにこれも呑んで」
もういいよ。息を吐き出しながら水のペットボトルを受け取り、ビタミン剤を手に取る。よくこの家にビタミン剤なんてまともなものがあったな。
「じゃあ、寝ます」
先生に押し付けるようにペットボトルなどを返して、また壁側に向かって眠りなおす。
「どうして茉莉ちゃんは、そっちを向いて寝るの?」
私は彼の質問を無視した。まだ怒りが収まったわけではない。気持ちの整理もついてない。
「ゆっくり寝てね」
先生は私の頭を軽く撫でて行ってしまった。リビングから廊下に出て行く音がする。音が消えて枕と布団の間に挟んであった携帯電話を広げて電源を入れた。0時半。
分かっている。あの先生がゼリーを作るのに、いくらワインを入れてゼラチンを固めればいいだけだと言っても簡単ではなかっただろうと言うことくらい。私だって結構、棚の中はあちこちみたのに、ゼラチンの箱など見なかった。それを見つけるのだって、真剣にひっくり返したのだろうことくらい。
彼がまたリビングに戻ってくる音がする。お風呂にあまりじっくり入っているタイプではないらしい。
ベッドの上にのって、私の髪をひっぱるように耳にかけている。
「茉莉ちゃん、好き」
呟くような囁き。くちびるが耳にそっと触れるのを感じた。
「おやすみ」
先生はそう言うと布団の中に入ってもぐっていくのを感じた。すぐに眠りに入ったのが分かる。仕事を急いでやって、慣れない料理をして疲れているのだろう。
今日はいつもみたいに抱きしめてはこない。
自分から触れるなって拒絶をしておいて、なんで寂しいなんて思うのだろう。
でも……。なんて思うのはルール違反だよね。
彼が寝返りを打って身体が寄り添うのを感じた。このやわらかい感じは……。
私はそのまま布団の中に顔をうずめた。私にだって触れて欲しくない部分はある。先生の聖域がどんなものなのか分からないけれども、あの女性遍歴、触れてはならない。下手に踏み込んではならない。この勘は間違っていない。それが芸術の才能面と繋がっているのかまで分からないが、下手に踏み込むと嫌な結果だけが待っている。それだけは分かるのだ。
先生のやわらかい身体つきを感じて涙が流れた。
『認めてしまえば簡単なこと』
ツッキーの記事を思い出した。もう分かっていた。もういい加減に分かったでしょう?
手の甲で顔を拭う。私はなんだかんだ言っていても帰れた。家族への不満と意地から家出をして来たのも同然だったけれども、よくしてきた喧嘩のひとつだ。絶対に許さないとか腹が立っていたのは二日間くらいのことだ。そこから先の意地の部分はどこへのものだったのか。
このままだと落ちる。何度も思った。このままでは落ちてしまう。
だって。彼には勝てない。
なんだかんだと抱きしめられる。抵抗しつつもキスを受け入れてしまう。
そのまま流れる涙をパジャマのすそで強く拭い続けた。
勝てないよ……。勝てない?
目を見開く。誰が彼には勝てないって?
ここで負けてたまるか。源氏時代がどうした。今は今だ。過去と比較をするな。恋人だろうが婚約者だろうがなんだろうが、一対一の戦いだ。聖域に踏み込むようなことはしない。でも、次は相手が誰でも嫌なことを言われたら、私も同じくらい嫌なことを言い返してやる。ゆずるものか。当たり前のことを大人に教えてやる。
先生にはなかなかか勝たせてもらえそうもない。いつも私が負けるはめになっている。
それでも、だ。最終的にはこの私が全部に勝ってやる。
考えているうちに涙なんか止まっていた。小娘だって負けるものですか。