先生とあたしとパイナップル (8)

第一章 - 8 頁


花 三日目 十月三日 月曜日

 目が覚めたら、先生の腕の中だった。窓から陽が指している。
 明らかに向こうが先に眠りに落ちて、腕を引き剥がした時にはもう起きはしまいだろう、と思っていたのに、またどこかで起きて抱きしめなおされたのだ、と思ったら向こうが上手(うわて)だったかのようで面白くなかった。
 私は先生を起こさないように腕を放してそっと起き上がると腕時計を見た。
 早朝五時。目覚まし時計などかけなくても、ずっとこの時間に起きていたら、ぴたりとこの時間に起きられるようになった。
 私は起き上がって机の椅子を引いた。起きていないよね? 先生は私が寝ていた側、要するに今私が見ているのとは反対側の壁側に向かって眠っていた。深く寝ているように見える。
 机に向かった。机の上についていたランプをつける。腕時計を広げていた本の横に置く。
 朝、学校へ行く前の一時間の勉強。スマホを傍ら(かたわら)に置いていたら、ネットやメールを見てしまうので、学校のポケットから出さない。子供の頃から一番の友だちのキティちゃんに見ていて貰う。東大なんて本当に受かると思っている? って、真面目に聞かれたら、正直なところよく分からない。けれど、受かりたい。努力はしたい。
 私は一番苦手な国語の参考書を解きだした。よく女の子は数学や物理などの理系科目が苦手だけれども、私は文系が苦手だ。公式に当てはめ、はっきりとした答えがある教科の方が好きだし、分かりやすいと思う。特に現代文はその場のニュアンスで問題を解かねばならないから苦手だった。公式を間違えたなら明らかに正しい答えは出てこない。国語は間違っても、どの辺りが違ったのかが分からない長文問題がある。私の一番のネックだ。
 一次試験さえなかったら、もともと理系を目指しているのだから、国語関係の教科の勉強が将来的に必要ないと捨ててしまっているかもしれないが、そういうわけにもいかない。
 家から持ってきた参考書を片手に片端から解く。うちの高校の生徒のレベルは並大抵のではない。だからそこで十院が落ちたところで全体から見ればそれほど下にはいっていない。おそらく学校の試験では“E判定”でも、大手の予備校の模試を受ければ“ダブルA”を取れるかはあやしいが、“A判定”はとれる。それでもだ。相手は東大。現在が十月。ここから一気に受験生はラストスパートに入る。息抜きと勉強。両立させていかないと倒れる。だけれどうまいことは行かない。どうしたって机に向かっていないと落ち着かない、というはめになる。
 高校から与えられている指折りの大学に入るための課題のみをやっているだけでは、現役では受からない。いくらうちの高校が東大に合格する生徒数が五本の指に入ると言っても、落ちる人間だってたくさんいるのだ。その一人に入りたくない。浪人なんてしている時間もないし、お金もない。両親が許してくれるはずもない。バイトをしながら東大に受かるほど、「この私が!」といくら言ってみせても、そこまで頭はよくない。
 奨学金生という高校での待遇面もゆずれない。確実にストレートで入る必要がある。どうしてもかなえねばならないものがある。それも好条件下といわれる中で、だ。
 一時間もあっという間だった。
 息をつく。日が昇ってきた。白いカーテンがかかっているといっても眩しい。カーテンの布地が薄いのだ。なんで男所帯なのにあんなにひらひらしているのだ。ロリータ部屋にしろ、先生と趣味が合わない。
 ああ、この折り畳み椅子は背中もお尻も痛いな! せめて座布団とクッションが欲しい。背もたれの鉄パイプがかろうじてあるだけでよしとせねばならないのだろうか。家に数日後に帰るまでに身体の調子を崩したらどうしてくれるのだ。ここで休んでいる時間はない。息抜きは必要でも一日のノルマはこなしていかねばならない。それは冬に向かって増えていく。
 えーと。ここが港の見える丘公園のそばなのだから、最寄りの元町・中華街駅までどれだけかかるかは不明だが、学校までは歩いて二十分程度で余裕としておけば平気か? 出かける準備をする時間を差し引くと、後時間はどのくらい残っているのだ? 勉強をしながら数字で頭の中を計算する。間違っても理系なのだ。紙など必要ない。私は洗顔とかに時間はかからないが、神経質だと言われるくらいに鞄の中身の確認をしないと気がすまないから一時間はいるとしても、あと一時間程度は残っている計算になる。だったら、国語の問題集は一問を解き終わったから、世界史に移るか。どうして文型と分類される教科が苦手かな。世界史なんて丸暗記に近いでしょうが。年代などの数字の暗記はまだいいが、文化史がやっていられない。しかも文化史が多く出る確率が一次試験では高めだ。どうも文化史もはっきりしていないというか、どっちでもいいでしょう、と言いたくなる。重要と思えない。
 黙々とやって腕時計を見る。きっかり一時間経っていた。私の勉強に対する体内時計は完璧だ。先生に分けてあげたいよ。
 顔を横に向けて先生の方を向いた。背中で機械的な呼吸を繰り返しているのが分かる。ぐっすりと眠っている。昨日、あんなに遅くまで仕事して、疲れたって顔していたからな。それでも昨日も今日もここまで寝ているところを見ると夜型人間なのかもしれない。もう七時になりますよ。
 私はあまり音を立てないようにして立ち上がり、スライド式の収納扉を開けた。
 キッチンに向かう。まあ、昨日、好きに使っていいと言われたし。いくらなんでも朝ごはんから出前だと胃に重いし、今日は早いから時間的に無理だろうし、自分で作れてしまうし。
 先生といると貞操はやばいが、タダで泊めてはもらっているのだ。朝ごはんくらいは作ってあげないとね。
 リビングの電気をつける前にキッチンの横の窓にかかっているカーテンを開ける。思わず目を閉じてしまうほどの秋晴れだった。ああ、こんなに眩しいのだったら、電気はいらないよ。
 カウンター式のキッチンの中に入って並んでいる棚のガラス戸を眺め、冷蔵庫を開ける。予想通り、ろくなものが入っていなかった。私は朝がご飯でないと目が覚めた気がしないし、お腹がお昼まで持たないのだ。キッチンの中をうろうろして米が入っている大きめのタッパーを棚の中から見つけた。床に引っ張り出して蓋を開ける。手にとってさらさらと米粒が落ちていく様子を見ていた。あまり新しそうには見えない。お手伝いさんが来ているのでなかった? 来ていても、毎日でなさそうだから、まあ、こんなものか、という程度の管理なのかな。
 まあ、食べられないわけではなさそうだ。最新型とはいいかねる炊飯器を眺めた。この家って家の造りはこれでもかって感じで豪華なのに、機械類はそんなに新しくないよな。先生が興味なさそうだけどね。
 米を研ぎ終わり、『早炊き』のボタンを押す。説明書を読んでないが、三十分もすれば炊けるでしょう。米はいいが、おかずはどうするのだ。もう一度、冷蔵庫を見て、卵とハムでいいか。他に朝食にできそうなものがない。ああ、私には朝食だけでなくお弁当がいる! お弁当箱まで持ってこなかった! 食器だのなんだのが並んでいるふたつの棚の片方の下を開ける。お弁当箱にしては大きめのタッパーがいくつかあるだけだった。もうこれでいいや。お弁当のご飯のおかずまでで作っている時間がない。このキッチン広くてどこになにがあるのか分からない。探している時間が今はない。
 窓の傍の棚を開けると、食パンが目に付いた。他に缶詰めもズラリとあった。パントリーらしかった。日付を見る。これは新しい。さすがにパンまでは古いのは食べませんよね。「天下の」ですもんね。サンドイッチでいいか。卵だらけだな。
 仕方ないな。食パンをと卵とハムとマーガリンとレタスを出して台の上に並べる。ガスコンロの上にあったやかんに清水を入れて火にかけ、ボールで卵をかき混ぜながら考えた。
 先生はお昼をどうするのかなあ。毎日、出前ってことはないだろう。外にでも食べに行くのかなあ。お手伝いさんが来ていても、どこまで家事をやっているのだろうか?
 そこまで考えて、はたと気がついた。そういえば、このあたりの道のりを知らないのだよな。先生は疲れているらしいし、音をさせているのに起きる様子もない。悪いけれども、これを炒めたら起こして案内をしてもらおう。月曜日はいろいろ学校だって忙しい。
「静かだなあ」
 今度は卵を焼くため、フライパンを探しながら呟いた。いつもなら戦争のような朝なのに。
 お母さんは私が朝食を作り始める六時ごろには起きてはくるけれども、バカ父がどうしたの、ご近所の奥さんがどうしただの、と言ってエプロンをしているくせにろくに家事をしてくれなくて。低血圧の姉をバイトに遅れないようにうるさく言って起こして。お母さんのパートがある日は自分のお弁当と一緒に作って。父がいたら朝から台所でまとわりついて来てうるさい。お兄ちゃんだけが家事を手伝ってくれた。お兄ちゃんだけは器用な人だった。今日だってお兄ちゃんが料理や洗濯をしているとしか思えない。
 やっと流しの下の引き出しからフライパンとフライパン返しを見つけた。パントリー内の新しいオリーブオイルの瓶を開けて、スクランブルエッグを作り始める。
 あーあ。なんかお兄ちゃんのことを考えると私の短気さがなくなるな。やめておこう。
 お弁当箱にサンドイッチをつめる。付け合わせのサラダや果物もなにもあったものじゃない。ハムと卵とレタスのサンドイッチオンリーだ。もうなにから処理をしていけばいいのか分からない! 結局、ふたり分を同じ大きさのタッパーに入るだけ作ってつめてしまった。
 目の前の引き戸を半分も開けていなかったのに、めいっぱいガラリと開けて、先生が眠そうなままこっちにやってきた。
「おはよう。茉莉ちゃん。早いね」
「おはようございます」
「すごーい。朝ごはんが出来ている」
 先生は私の背後に立って半分に切っていたハムを一枚口に入れた。ホントこの人、子供みたい。
「愛しているよ。茉莉ちゃん」
 いきなり後ろから抱きつかれた。
「だ・か・ら、後ろから抱きつかないで!」
「朝から元気だなあ。僕なんか茉莉ちゃんと同じベッドでよく眠れなかったのに」
 どこがだ。私は、はあ、とため息をついた。
「だったら新しいベッドをもうひとつ買ってください」
「それはダメ。夫婦はやっぱりひとつのベッドで寝ないと」
「だから、夫婦じゃないって……」
 振り返って睨んで言った。疲れる! あの変人バカ親父の相手をするのも疲れたけれども、このマイペース男の相手をし続けるのもやはり疲れる!
「隙アリ」
 唇が軽く奪われた。
「もう朝っぱらからやめてください!」
 台所に向き直ってハム入りのスクランブルエッグをちぎって洗っただけのレタスと共にお皿に盛る。もう少しでこがしてしまうところだったじゃないか。
「朝じゃなければいいの?」
「そういう言葉遊びをするのをやめてください!」
「なんで茉莉ちゃんはそんなにカリカリとしているのさぁ。なにかの栄養分がきっと足りないよ」
 先生はめげずに後ろから抱きしめてきた。
「もういいから、早く朝ごはんを食べてください。私、今日は朝練があるのですからね」
「部活? なにに入っているの?」
 先生はキッチンカウンターに腰を下ろして、うれしそうにポタージュスープを飲んだ。
「おいしいよ! 茉莉ちゃん!」
 目を見て笑顔で言われた。太陽と共に眩しい。
「それはどうも」
 たいした料理じゃないのですけどね。褒められたスープはパントリー内の粉をマグカップに溶かしただけのインスタントだ。おかずを買ってこなければ。私が倒れる。
 私は先生と椅子をひとつ空けて腰を下ろした。あー。卵、こげかかっているじゃないか。
「バトミントン部です」
 視線を感じて慌てて笑顔で答える。
「ふうん。運動部なのかぁ。力があるはずだよね」
 一昨日から突き飛ばされたり、殴られたりしたことが余程、ダメージだったらしい。
 私は割り箸をわり、黙々と食事をとった。本当は部活なんかやっている余裕はどこにもないのだが、年内はやらねばならない。東大は内申点があまり重要視されない、とか言われているが、その噂もどこから来ているのか分からない。良くて問題があるわけがない。いや少しでもよくして欲しい。どうせやるなら文化部より運動部の方が身体にもいい気がして、真帆が入るって言っていたバトミントン部に一緒に入っただけだ。
「ね、もしかしてこれってお昼ご飯?」
 先ほど作って置いておいたタッパーを指差している。
「うん。ついでに作った」
「僕の分も?」
「うん。私のお弁当のついでだったから」
 ついで、を強調したのに、先生は、「感動だぁ」と言って、うれしそうにタッパーを持ち上げている。
「あ、先生、駅はここからどう行くのですか?」
 彼はしばらくぼんやりタッパーを見つめていたけれども、「ああ、そうか」と言った。
「この家の道の前を右に真っ直ぐ行って右に曲がると、港の見える丘公園に出て、その前の坂を下ると元町に出るよ。すぐ分かるよ。この辺りは観光地で案内板があちこちにあるからね。駅までは僕の足で十五分くらいかな。僕のBMWで送るよ」
「大丈夫です。まっすぐなのでしょう? 丘公園まで出られれば、学校まで迷いようがありません」
 私は立ち上がった。そろそろ学校に行く準備をしなければ、朝練に間に合わない。
「どこに行くの?」
 リビングの隅から紙袋を持ってドアの方に歩いていた私に先生が言う。
「お風呂場で制服に着替えてきます」
 ここで着替えればいいのに、っていう先生の声が聞こえてきたけれども、聞こえないふりをする。
 脱衣場で着替え、髪の毛をみつあみにしながら考えた。それにしても、もうすぐで二十八歳って、お兄ちゃんと同じ年だ。とてもじゃないがそう思えない。お兄ちゃんが大人っぽいだけだったのかな。そうは思えない! 先生がマイペース過ぎるのだ。
 赤と緑と紺色のチェックのひだスカートに白のブラウス。その上に金のボタンの紺色のブレザー。白ブラウスにスカートと同じ柄のリボンをスナップで襟の下につける。この学校の制服は可愛いと評判らしいが、着るのが結構面倒だし、リボンは変につけると曲がるし、そんなにいいと思えない。もっと機能的なものにして欲しい。勉強をしに学校に行っているのだから。
 廊下に出ると先生が目をこすって裸足で立っていた。
「そんなに目をごしごしこすらない方がいいですよ」
 思わず親戚の子供たちにでも言うように注意をしてしまった。
「うん」
 先生は特に気にする様子もなく頷いて、目をこするのをやめてこっちを見ている。
「かわいいね。その制服。茉莉ちゃんによく似合っている」
 服を着ていてもその人の身体の裸の線が見える、などということを聞いてから、あまり私をまじまじと見るのをやめて欲しいと思ってしまった。
「じゃあ、行ってきます」
 私はローファーに履き替えて、玄関までついてきた先生に振り返って言った。
 先生はなにか言いたげにこっちをじっと見ている。その視線はなんですか。また見えるとか言いませんよね。それって、どういう目なのでしょうか。あー。黙っていられない。
「なんですか。玄関の鍵は閉めてから、もう一度寝てくださいよ」
「そんなこと分かっているさぁ。行ってきます、のチューは?」
 息を吐き出した。なにかと思えばそんなことか。また殴られたいですか。
「そんなことを私がするわけがないでしょう? この私が」
「うん。そうだね」
 いきなり引き寄せないでください。そして抱きしめないでください。
「私、本当に急いでいて」
 抵抗のことばをもっと考えておかねば。国語は本当に苦手だな。問題はそこなのか。
「うん。行ってらっしゃい」
 軽く頬にキスをされた。解放されて斜めに見つめる。
「茉莉ちゃん、急いでいるのじゃなかったの?」
 先生の満面の笑みに渋々と頷いた。
「行ってきます」
 気をつけてね、という明るい声が返ってきた。背中でオートロックが閉まる音を聞いた。頬を片手で抑える。ああ、私、全体的に大丈夫だろうか。


 先生の家から駅まで続く道はなだらかな坂道だった。大きくてきれいな家が並んでいた。一軒家ばかりのマンションなどない歩道。家々の前には犬がいたり、猫が歩いていたり、外人さんが花に水をやったりしていた。都会のど真ん中。住宅街のはずなのに、静かでのどかな風景が続いていた。
 いいな、この辺り。喧騒だらけだったうちの周りより好きになれるかもしれない。
 大体からして母が再婚するまでは都心でも、もっと静かな町並みに住んでいたのだ。
 朝の済んだ町の空気。木々の緑の香りが混ざる。
 いろんな花や木が植わり、猫に「にゃー」と言えば、なに、と言う目で見上げてくる。どの家の庭先にも色とりどりの花が咲き、しあわせそうな町の香り。
 この町の雰囲気、先生のやわらかい感じに似ている。
 ゴングの鐘は既に鳴った。
 どうも問題がありすぎるし、嫌な予感はするけれども、鐘はカーンと鳴り響いた。
 この勝負、なんの勝負だか知りたくもないけれども、この私が勝ってみせましょう。
 柱の案内書きを確認し、公園の方向へ走るように向かっていた身体には先生に抱きしめられた温もりがまだ残っていた。


 甘いものには棘(とげ)がある。
 その棘があるのはこの場合、果たしてどちらか。

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