先生とあたしとパイナップル (7)

第一章 - 7 頁


 お任せの握り寿司セットを食べる以外、ずっと勉強をし続け、夜になってLサイズのピザを取った。
 どれも良いお値段なりにおいしかった。毎回が出前の食生活はもういいとか思いながら、バスルームの更衣室に入った。一応、ついていた鍵をかける。予想通り、既に夜の十時を回るというのに、先生は下りて来る様子もない。仕事を今日中に仕上げねばならないのだった。そこまで忙しいなら、急げばよかったものを。
 洗面所で洋服を脱ぎながら考える。それはそうと、ここにドラム式の洗濯機があるし、乾燥機もついているから洋服の洗濯の問題はないとしても、脱いだものはどうするのでしょう? レースの布がかかったカゴの一つを除く。こっちはとりあえず私用、としてもいいですかね? 私の予想ではあと二日もすれば帰る予定ですけどね。先生とはまた会える。バカ父が例の調子でうちに連れてくるだろう。その時に話せれば充分だ。
 カゴに着替えを脱ぎ捨てて布をかぶせて更衣室の隅に置く。いくらなんでも先生があれをめくって見ないだろうな。明らかに端に置いたのだから。
 バスルームに入る。うわっ。天井は高いし、大理石だし、バスタブそのものが大きい。すべてがケタ違いだ。
 うちは賃貸のアパートではなく、所有のマンションなのに、3LDKに着いているお風呂なんか狭苦しいもいいところだ。しかも家族五人が好きな時間に使うから、きれいともいいかねる。私は几帳面な方に近いのにさ。ここは真っ白だよ。ぴかぴかだな。先生が掃除していると思えない。モデルの人がお手伝いさん? なんて私に言っていたくらいだから、誰かが来ているのだろうか。
 事前に沸かしておいたお風呂に入る。うちの人間が二日程度で根をあげるだろうはいいけれども、あまりここに長くいたくないな。どうも嫌な予感がする。
 バスタブを出る。目の前の棚に大きなボトルが置いてあったので手に取った。ロクシタンの全身シャンプーだ。
 髪の毛からつま先まで身体をシャワーで贅沢に流しながら洗う。薄紫色はラベンダーの香りらしかった。
 ああ、嫌な予感ってなんの予感だ? さっきの先生を「どうもおかしい」と感じたことか? それとも別からくるものなのか? 分からない。考えたくもない。とにかく勉強に集中できる環境を私にくれ。でないと、冗談抜きで本番前の一次試験の時点で落とされる。
 お風呂から出た。更衣室に戻る。ああ、ドライヤーはどこだよ。勝手に洗面台の上下段にある収納棚を開けるのは罪悪感がある。またショッキングなピンクの品々が出てきたらどうしようと恐れも感じる。
 無印良品のような外観の品が並んでいてホッとする。白いバスタオルはひとつだけあったものを使わせて貰う。 色々と考えなくても、もういいか。あの人が強引にこの家に連れてきたのも同然なのだから。流し台の下の棚を開けると、すぐにドライヤーは目に付いた。よかった。ドライヤーを置いていない、と言われたら、どうしようかと思った。先生は髪が短いから必要がないでしょう、とか言い出しそうだった。私の髪の長さを乾かすにはドライヤーなしでは無理だ。腰にもう少しでかかる髪。切る気はない。全くない。
 前髪だって切りたくないくらいなのに、校則で眉毛にかかる長さまでしか伸ばしていけないと決まっているから守っている。鏡の中の自分を見つめる。さすがに勉強しすぎた。目が疲れて赤い。
 家から持ってきたパジャマを着る。昨日は普段着もいいところで寝たけれども、パジャマなんかで寝ていいのか? ボタンをはめながら考える。でもあのロリータ部屋で眠るのは、あまりに私の頭にはショッキングだ。なにかあったら、今日こそは思い切り殴ると決めた。
 リビングに戻ると喉の渇きを感じた。冷蔵庫を開ける。あー、この明らかにオレンジジュースだと分かるペットボトルを開けてもいいですかね? 水を飲む気にはならないよ。
 ジュース一本に男がこだわるな。また勝手に決めてリビングの中央付近でグラスにも開けず、ジュースを飲んでいた。広いな。あんまり広いと落ち着かないな。上だって静かだしな。テレビどころかステレオもないのか。まあいいか。日曜日はツッキーがテレビ番組に出ないからな。そう言えば、この家にはパソコンも見当たらない。ネットのチェックはどうしてくれるのだ。
 携帯電話のネットで見るしかないか。気をつけないと、かけ放題プランでないから電話代が怖いけどさ。
 リビングのドアが開く音がしたのでそっちに顔を向けた。
「茉莉ちゃん、やっと終わった。もう僕、疲れきった」
 うんざり、と言う様子で先生はこっちに寄ってきた。だるそうだ。
「もう今日のモデルさん、赤じゃないって言っているのに、全然伝わらなくって。終わらないかと思った。やっと帰ってもらった。芸能事務所の人にちゃんと頼んだのに。どうにかしてよって感じだよね?」
 いや、裸の人に赤じゃない、とか言っても伝わらないのは仕方がないと思いますが。
「それはそうと、ピザを取ってあまっているので、チンして食べてください。なにも今日、食べていないでしょう? 倒れますよ」
「うん。茉莉ちゃんは優しいね。好き」
 抱き寄せられるような格好になったので、大きく避(よ)けた。
「なんで茉莉ちゃんは、そうやって僕をさけるのさぁ」
「いいですから、早く食べてお風呂に入ってください。それとゴミの分別方法が分かりませんから、これを捨ててください」
 ジュースの空きボトルを「さあさあ」と手渡した。
 分かったよ、という感じで彼はのんびりとゴミ箱の蓋を開けて捨てている。どう見てもゴミ箱、ふたつしかない。他のゴミの分別はどうなっているのでしょうか。うちと同じ市内であれ、港の見える丘公園のそばだから細かい分別は必要がない、なんてことはないでしょう。
「茉莉ちゃん、今日忙しくていろいろ教えてあげられなかった。ごめんね」
 のんびりとこっちに来た、と思った途端に腕をつかまれて抱きしめられた。なんでこういう行動だけ早いのだ。
「この家にあるものは自由に使っていいから。なにか足りなかったら言って」
 また引き寄せられる。私の背は百五十八センチだ。顔を伏せれば先生の心臓の音が耳に重なる。
「分かりました」
 既に随分、色んなものを勝手に使いました。腕を緩められたので離れて見上げた。
「茉莉ちゃんは、赤が似合っているよね」
 すみません。パジャマが通販のバーゲンで買ったイチゴ柄で。
「私は眠いのでもう寝ます」
 他に抵抗することばはないのか。
「そうだね。明日は学校だよね。なんで零時近くまで仕事をしなくちゃならなかったのかなあ」
 それは先生がのんびりしすぎているからだと思われます。
「僕はお風呂に入ってくる」
 頭を撫でられて解放された。息を吐き出す。よく朝からなにも食べないでいられるな。
 それが先生の日常ならいいけどさ。ベッドに向かう。布団をはがして壁側に向かって寝転がった。あまりに集中して勉強したせいで逆に頭がさえてしまった。眠るとは言ったけれども、眠れそうにない。でも下手に起きていて昨日のような展開になっても困る。いくら殴ると言ってもこっちの手にだってダメージが残るじゃないか。
 寝たふりをしていよう。向こうだってかなり疲れているようだし。今日は大丈夫だろう。
 それはいいけれども……。
 ドアが開く音がしてはっとした。考え事をして別世界に行ってしまった。目を開けるな。あくまで私は寝ているのだ。キッチンの方でがたがたとやっている音がする。
 それはいいけれども、どう考えても二日間もすれば家族が根を上げるだろう、もいいけれども。
 家に帰りたいな。先生と会えなくなるわけじゃないし。どうせバカ父は気に入ったとなると、しつこいくらいにその画家に付きまとって家に連れて来てっていうのは変わらないのだろうし。いくらあの家が疲れると言っても帰りたいな。だって……。
 え。
 と思ったら、先生がここのスペースのドアを閉めている音がした。ピザはどうしたの? 食べないの? なにか飲んだくらいで終わり? やせてはいるけど、そんなに食べないの? 倒れるって。
 いや、その前にドアを閉めるな。そもそもふたりしかいないのに、その収納ドアを閉める理由がどこかにあるのか。この広いリビングの端のベッドの上にいる時点で閉じ込められている状態に近いじゃないか。逃げるたってドアが遠すぎる。
ベッドに上がってきた気配を感じる。布団がめくられているのが分かる。
 身体を横に倒しただろう、という雰囲気が分かる。
 手のひらで頭に触れられた。やわらかい手だな。
 顔にかかった髪の毛を解かすように上げて耳にかけられた。寝たふり、わりとつらい。
「茉莉ちゃん、好き」
 呟くように言われて、そのまま後ろから昨夜と同じように抱きしめられた。やはり同じように布団の中に彼が顔をうずめたのが分かる。頭が背中をつたって落ちていく。腰に回された両腕にやや力が入っているか、って言う程度だ。払いのけられるだろうが、寝ているのだから無理だ。
 息を吐き出す。別に。あのバカ父に会えなくてもいい。もともと二週間に一度会うか会わないか程度だったのだ。母は年中出かけていて、スーパーのパートの仕事以外でも近所の奥さんとお茶会で忙しくそんなに家にいなかったのだから、今更さびしいとか思わない。ギャルの姉とはあわなすぎる。会えなくてもいいし、会いたくないに近い。でもだって……。
 お兄ちゃんはどうしたの? 義理兄妹だからって気にかけてくれていたでしょう? 私のこの勘は外れていないでしょう? なのに、なんでなんの連絡もないの? 特になにかあったと思えない。いくらうちの家族があんなだって、なにかあったら連絡はあるはずだ。なのに、なにも言ってこない。どうしてなの? どうでもよくなった? 私がいなくなってみたら楽になった? そんなに「茉莉さん、聞いていますか」と聞くのが嫌だった?
 この涙はなんの涙だ。先生が眠っていることは分かっていた。息遣いが変わっている。腕の力が緩み、半分向こう側にずれている。
 お兄ちゃん意外はいい。大体、他のうちの家族が考えていることは分かる。バカ父は「氷山君は天才が可だ」と、あれだけ繰り返して言っていたのだから、彼の絵の才能を買っているのだろう。母は母で「結婚なさい」と真顔で言っていたのだから、これで茉莉の将来は安泰だわ、となっているだろう。姉が連絡をしてくるはずはない。私が家を出てきた理由を知っているし、自分が先生のモデルになりたがっていたのだから、羨ましがりこそすれ、気にするわけもない。それは分かる。そこまではいいのだ。
 でも、お兄ちゃんはどうなったのだ? なにを考えているのだ? 全然、分からない。私は勘がいいはいいが、男を見る目はないのだろうか。付き合ったふたりもはじめはよかったのに、結果的にどうしようもない男たちだった。
 目元をパジャマの袖で拭いた。どうなっているのだ。ここへ来てからもう二回も泣いている。私にとって泣くなんてありえないことだ。短気もいいところなのだ。泣くより先に怒る。
 先生の身体がこっちに寄ってくるように寝返りをうったのが分かった。
 身体の線が重なる。心臓にきた。この感じだ。このやわらかい感じ。身体全体がやわらかい感じ。女の子っぽいと言っても問題のない感触。画家で運転もあれだけ苦手そうなところを見ると、そんなに外に出る方ではないのだろう。身体を動かしたり、運動をなにかしていたりするとも思えない。筋肉らしきものはない。力がないわけじゃないが、それは男女のどうしようもない差だ。このやわらかい感じは心臓にくる。なにかを打つ。こころの奥の触れられたくない部分を打つ。打たれているのに、やめてください、と言えない。やわらかいからだ。硬いわけじゃないからだ。
 やわらかいから打たれる。それをやめて欲しいのに、やわらかいから言えない。心臓が打たれる。どこかが打たれる。その感覚が涙を誘う。この私ですら泣かせる。卑怯だ。
これ以上、泣いて、また昨日みたいに「泣いた?」とか聞かれても困る。彼の腕を引き剥(は)がすように向こうにやって布団を被った。
 このベッドはダブルサイズなのだろうか? シングルよりは広い気がするが、ダブルといえるほど大きくないのではないのか? 分からない。壁側に身体をこれ以上は無理なほど持っていき、深く息を吐いて目を閉じた。

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