先生とあたしとパイナップル (6)

第一章 - 6 頁


花 二日目 十月二日 日曜日

 どうでもいいが、世間は日曜日だ。
 私は隣で寝ている先生の身体を押しのけるようにして、床に降り立った。窓から差す光が眩しい。この家に雨戸はないのだろうか。
 電気のスイッチをドア付近まで歩いて苦労して探し、電気をリビング全体につけた。ベッドの方をふり返る。先生が起きる様子はない。
 リビングに置いてあった私の荷物の紙袋の中身は衣類だから放置して、学校の鞄を肩にかけて歩いた。
 簡易もいいところの机の椅子を引く。その上には花びらの形をしたランプと、ボールペンやシャーペンが数本のみ刺さっている鉛筆立て。その横にはメモ用紙。この折りたたみ式を見ても、まあ、使うときもあるから置いてある、という感じだ。折り畳み式の造りだからテーブルが薄くて体重がかけにくいし、本をたくさんのせたらきっと机ごと傾くし、勉強するのには向いていない。
 鞄から家からもってきた勉強道具を出した。机の上に乗り切らないので、その横にあった洋服ダンスだろう棚の上に本をドサリと重ねた。家出だろうがなんだろうが勉強はやめられない。とにかくE判定を脱しねば。この休み明けにはまたテストがある。成績がどうのの前に、東大の合格者数が五本の指に入る、といううちの学校のテストで悪い点数をとることは、入試に響くことを意味する。
 夏を制するものは受験を制する。
 誰もが口にするような「受験生のための夏」という季節は、疲れて成績が落ちる一方で終わってしまった。もう今日で十月の二日だ。まだ秋だと言っても既に年末は目の前だ。
年内どころか今月中にA判定までに持ち直さねば、ストレートでの合格は難しくなる。
 私は受験用の参考書をめくってシャーペンを握り締めた。やってやる。疲れたから、なんてそんなのは言い訳にならない。どうしても私には受からねばならない理由がある。しかも東大だ。バカ父じゃないが、目指すは日本一の大学だ。それ以外だって志望の理由はあるが、決してゆずりたくない。日本一の大学。それ以上はない、ということと同じだ。
 受かってやる。はじめの一次の試験で足切られない。高得点をとり、次の本番をこなす。東大はあまり一次の試験を重要視していない。してなくわけもないに違いないが、あくまで足きり、あるいは振り分けのための条件に使っているに過ぎない。問題は本番だ。いわゆる二次試験、と言われているものだ。
 東大の二次試験の前期日程は、私が受験する確定日の発表をまだされていないが、大体が二月二十五日、二十六日の二日間だ。これが前期日程と呼ばれるもの。はっきりいってここで思うような結果を出せないと、後期の試験もあると言っても、気持ち的に追いつめられて苦しくなるのは目に見えている。
 後期日程が大体、三月十三日、十四日頃の二日間。誰がなんと言おうとここが最後の足掻(あが)きの受験日となる。
 一次試験はその前の一月二十一日、二十二日の頃に二日間でおこなわれるはずだ。もう嫌と言うほどその辺の情報は頭の中に入っている。
 要するに、確実な募集要項は十一月下旬ごろには出るはずだ。願書とかまで配布されるかどうかは分からないが、予備校のホームページや学校の情報にしろ、その頃にはっきりした日時が出るはずだ。
 私は黙々と問題を解いてルーズリーフ用紙にシャーペンシルで書きつけていた。確かに学力が落ちている。どうにかせねば、と焦れば焦るほど“落ちる”気がしてしまう。
 でも、私は今の進学校に入るまでの中学三年生から今までの四年間近くの期間というもの、半端じゃない勉強量をこなしてきた。自分で言うのもなんだが、そうそう半端でない成績も打ち出してきた。E判定? 冗談じゃない。B判定だって冗談じゃないのに。
 東大の出願期間はおよそが一月三十日から二月七日の辺りだ。その前の試験の出願期間が十月三日から十月十四日だ。明日には学校を経由して出願をする。志望課程は決まっているからその点は問題がない。
 そもそも東大に受かっている人間を誰もが「とんでもない」と言うが、合格者は例年三千人もいるのだ。その中に私が入っておかしい理由があるものか。この夢を捨てねばならない理由が少なくともそこになどあるものか。
 二〇〇二年からある程度、東大の合格者の最低レベルのランクは公表されている。それによれば、合格するには一次と本番を合わせて六割を超えればいい。本当か? と言いたくなる。いや嘘でもないのだろうが、その六割、普通の問題を解いて六割なのではない。よく偏差値三十から短期間で東大に合格、などとテレビや漫画でやっているが、どれが受験に必要で必要でないかの知識が必要になる。削るべきもの。吸収すべきもの。
 東大が日本一、などと言い切ると、京大の人間に文句を言われそうだが、そんなことは知らない。私が住んでいるのは東京だし、京都まで行けない。目指すものは決まっている。はっきり言ってバカと言うか単純と言うか、そんな頭で判断したのは、日本一と言われる東大合格をして夢を叶えてみせる。それだけだ。それ以外の根拠なんかいらない。私はこれ以上の環境はない、と言える場所で勉強がしたいのだ。
 やらねば。そう思いつつ、問題を解く進みが悪い。嫌でも自分の「落ちたもの」を実感させられた。

 ピンポンという音の呼び鈴が鳴ってはっとした。何時だよ。壁にかかっていた時計を見上げた。もう十時ですか? そんなにやっていましたか?
 お腹もすきましたよ。ベッドを見る。先生はぐっすりと眠っているらしい。起きる様子がちっともない。いい加減、起こすか、この男。
 まだ呼び鈴がしつこく鳴っているので、先生を起こすよりも、お客さんの方がいらいらしているらしいのでそっちを解決する方が先だろうか。とにかく誰が来たのか見に行くか。単なるセールスかもしれないし。
 私はリビングを斜めに歩いてドアを開け、サンダルを引っ掛けて玄関を開けた。
「あら、あなたどなた? 氷山先生は?」
 なんの挨拶もなく玄関に入ってきた女性に、私はサンダルを脱いで床の上から背の高い彼女を見上げた。
「あなたお手伝いさん? 先生はどうしたの?」
 どうでもいい普段着を着ていた私は、明らかにモデルだろう洋服からメイクまで派手で今時な様子の女性を見ていた。
「先生はまだ寝ています」
「えーっ。日曜の十時からって約束だったのに。一日かかるから重要だよって」
 そんなことは知るか。こっちにとっても日曜日は重要な曜日なのだ。ここで勉強せずにいつ勉強する? ここでやらずして、どうやって他の受験生と差をつける? 他にも考えねばならない問題があるけれども、とにかく今は月曜日になってから考える。日曜日はそれどころではない。
「そうは言われても寝ています。起こしてきますか」
 私は無遠慮に彼女を眺めた。本当にモデルそのものだな。私に視姦できるセクハラ眼が無くとも、この人の身体のきれいな線が見えそうだ。彼女は赤のバラを大量に両手に抱えていた。
 今日は赤ですか。
「茉莉ちゃん、なにをやっているの?」
 眠そうな声に振り向いた。事実、先生は昨日の恰好のままではなかったが、ラフな格好でこっちを見てだるそうな様子で歩いて来た。
「なにって。モデルさんがいらっしゃいました」
「えーっ。十時だって言ったのに」
「既に十時は回っています」
「そんなこと言われても、僕の中では経っていない」
 ひとりでぶつぶつと言っている。モデルの人の方へ行ってあげる様子もなく、リビングのドアの前の廊下を動かない。この家のフローリングの廊下は長いのだ。今まで常に狭いところに住んで来たから特に長く感じる。こうやって振り返って会話をするのだって首が痛い。
「先生の体内時計は知りませんが、世間は十時を回っています。それと、お仕事は構わないのですが、私はお腹がすきました」
 なにか食べないと集中をさまたげるし、身体によくない。
「あ、そっか。十時過ぎたのだったら、いま色々説明している時間がない」
 とか言いながら、リビングに続くドアの少し向こうの低い棚の上にファックス電話と花瓶が並んでいる方へのんびりと歩いている。急ぐ、ということばを知らないのだろうか。十時過ぎたら困る、みたいなことを言っておきながら、まだ眠そうだ。この人は時間を守る気もないのだろうか。ルーズだな。短気の私とは反対だ。
「茉莉ちゃんさあ、ここに蕎麦屋さんとかピザ屋さんのパンフレットを出しておくから、出前でもとってくれる?」
 だるだるだ、という感じで、棚の引き出しから何枚かパンフレットを出している。
「先生は?」
「うーん。今日は本当に時間が無いよ。締め切りが迫っている。余ったらとっておいて」
 そのいい加減な食生活はなんだ。そんなに時間がないのか。急げよ。
「それはいいですけど、私、ここの住所も電話番号も知りません」
「あ、そうだよね」
 玄関の大理石のところに立っているモデルを無視して会話は続けられている。先生は本当に急ぐ気がないらしく、時間をかけてメモ用紙らしきものに書いている。
「茉莉ちゃん、携帯電話は持っているのでしょう? 番号、書いておいてね」
「先生は持ってないのですか」
「えーっ。僕は持っているけれどね、電源を入れていない。かける時のみ使うの。番号いる?」
 そんな風に携帯電話を使っている若い現代人が今時いたのか。仮にも社会人のくせに。
「電源を入れていないのでは、どうしようもないじゃないですか」
 当たり前の意見を述べる。
「そうだけどさあ。とりあえず書いておこうか」
 もういいって。急いでいるのでしょう? 今日中にはどうにかしなければならないくらい目の前に締め切りが迫っているのでしょう? まあ、それが先生のペースなら私がとやかく言うことではないけどさ。
「先生、私、お金をそんなに持ってきていません」
「あ、お金はこの棚の中に入っている」
 棚の中から遅い動作でクリスマス柄の缶を出している。ヨックモックだ。その中身が食べたかった! 後ろにいるモデルの子にもお金のありかを恐らく聞かれているのはいいのか。
「書いた。茉莉ちゃん、他になにかある?」
 首を傾げた。なにかって言われても。
「特に思い浮かびません」
「そうなの? ならいいや。なにかあったら声かけて。上のアトリエにいるから」
 笑顔で言われて渋々頷く。やわらか過ぎるほどやわらかい笑顔だな。そんな笑顔を向けられたら、笑顔なんか返したくもないのに返したくなる。
 先生がやっとモデルの人の方へ歩いていくのを見ていた。
「もう先生! 待ちくたびれちゃったぁ」
 モデルの子は勝手に上がって先生の腕にしがみついている。私は目の前で花のように笑顔に変わった彼女を眺めていた。あんた、さっきと随分違うな。お手伝いさんの私は用なしですか。
「そんなにアナタに待たれても迷惑だ」
 またあの話し方だ。途端に変わる。アトリエ内でなくてもこうなのか。
「だってえ。先生が十時って言うから来たのに、アキ、ここでお手伝いさんに邪魔されて長いこと待たされた」
 いや、そんなに待っていないでしょう。三分もあったと思えない。
「それはそうと、アナタ」
 先生は腕を彼女にとられてこっちからは斜めに見える顔つきで彼女を見下ろした。
 つかまれていない手で自分の顎を押さえるようにしながら、彼女をじっと見ている。またあの目だ。ごくりとつばを呑みたくなる。なにもかもを見る、恐らく見えている、瞳。
「アナタ、赤の人を、って話だったのに、どうも赤じゃない」
 だからそれはどういう感じだよ、と突っ込みたくなった。裸体の人に赤色だの、紫色だのっていう色を求める方が間違ってないか? ああ、この先生の頭の中なんか分かるわけがないし、分かりたくもない。
「アキ、赤が一番似合うねっていつも言われるのにぃ」
 モデルの子はみんなこんな感じで甘ったれたように先生を見上げ、鼻にかけて話すのだろうか。
「それはアナタが洋服を着た場合でしょう?」
 いや、だから無理でしょう。どうも先生の感覚が分からない。芸術家は難しいな!
「とにかく急がないと、今日中に一枚仕上げるから」
「はーい」
 モデルの子が先生の腕にぶら下がるようにしてループした階段を登っていく。先生はこっちをちらとも見る様子もない。私はふたりの後姿を見上げていた。先生を自分の恋人のように寄り添う彼女。愛想はないものの、それを気にする様子もなく、当たり前のように上がっていく先生。ふたりは時間をかけて階段を上がっていた。彼の背丈は恐らく百七十センチを欠ける。モデルの子の方が背は高い。だからどうした、という感じだが。
 モデルの子が先生に、
「せんせー、聞いていますかぁ?」
 彼氏にわがままを言うように言っているのを聞いていた。
「聞いている」
 先生は明らかによく聞いていないだろ、という返事の様子だ。やはりあれは仕事モードだ。
 まさか、仕事用の部屋でどうのこうのなんてことはないでしょうね?
 私はふたりが階段を上りきり、おそらくアトリエと先生が呼んでいる部屋に入ったのだろうドアの音がしても、同じ場所に立ち尽くして両腕を組んだ。
 どうもおかしい。
 電話の辺の一点を見つめて考える。いや、こんな色んなことを考えている自分もおかしいが、それはそれとしておいておくとして、おかしい。仕事モードと普段モードが違うのはいいけれども、違いすぎる。
 なにかが引っかかる。
 これも自慢じゃないが、それなりに勘はいい方だ。なんの勘かはともかく勘はいい方だ、と信じている。
 おかしいな? と思うが、あまり触れないでおこう。どうせすぐ出て行く家だ。あまりこのひっかかりに触れると嫌な予感がする。あの違い。あの冷たさ。氷山。彼のその苗字にぴったりだ。それでも、モデルの子にはもてるのだろう。顔つきはツッキーに似ているだけはあってやさしげなのに、性格はかなり冷え切っている。返ってその冷たい感じがそっけなくて、ふり返らせてみたくなるのかもしれない。でも、彼がそれを狙っている、とも思えない。
 どうもなにかが……。ああ、こうやって勉強に関係がないことを考えたり、先生の世界に触れたりするのをやめようって、今の今思ったのだった。こうやってなんだかな? って、嫌な予感がするときは、ろくなことが待っていないのだ。
 とりあえずなにか食べる。電話の前まで行って数枚出されたパンフレットを眺めた。余ったらとっておけ、って言われても。朝昼晩の三食分をとっておくのか? あの様子だと一日中、アトリエにこもりっきりになるのではないのか? モデルの人の分もいるのか? 質問はあるのか、って聞かれたときに聞いておくのだった! またわざわざアナタの赤がどうだ、向きがこうだ、ってやっている部屋に行く気にならない。日曜日だけはとにかく勉強にのみに集中させて欲しい。他のことはあとで考える。
 もういいか。先生だって子供じゃないのだし、食べたければ自分で頼んで食べるでしょう。夕食の分だけとっておけるものにしよう。朝からしつこいものを食べる気にもならない。お寿司を頼んでいいですかね? 私は、朝はご飯を食べないと始まらないのだ。もう十時過ぎているのだから、お昼に近いけどさ。
 勝手にお寿司を自分の分だけ注文してリビングに戻る。コーヒーが飲みたい。でも人のうちの台所を勝手に触る気にもならない。いいや。お寿司にはお茶くらいついてくるのだろうから。
 机に向かいかけて携帯電話を広げる。メールが来ていた。ボタンを押す。
『昨日、電話を待ってきたのにかけなおしてこなかったね!』
 真帆からのメールだった。そうだ。昨日はびっくりしてしまって勝手に電話を切ったのだった。その後もいろいろありすぎて電話をかけなおすことなど忘れていた。真帆に謝罪メールを作りつつ考えた。
 なんでお兄ちゃんは今日になってもメールのひとつも寄こしてくれないのかな。
 他の家族は別として、お兄ちゃんとだけは上手くいっていたって思っていたのは、私だけだったのかな。「茉莉さん、聞いていますか」って、いつも言ってくれたのは、なんだったのかな。社交辞令っていうか、家族になった義務感みたいなものから来ていたのかな。
 ああ、家族のことを考えると休み明けのテストに響く。また担任に呼び出される。これでも私は奨学金生だ。当然のごとく、あの母が私立の有名進学校になど通わせてはくれない。「高校くらいは卒業しないとね」とは言いつつも、その財力がバカ父なしの我が家にあったわけもない。奨学金が打ち切られては困る。公立高校に編入して転校しろ、この際、東大も諦めろ、などと言われかねない。
 やらねば。私はいろんなものを頭の隅に置いて、黙々と本を広げて机に向かった。

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