先生とあたしとパイナップル (5)

第一章 - 5 頁


 頭を抱えられたまま長いのではないのか、というキスの後、彼の手からすっと力が抜けた。私は顔をふせて先生の身体から少し距離をとった。その途端に肩に担ぐように抱きかかえられる。
「ちょっと! 下ろしてください!」
 なにいきなり抱き上げて歩き出してなんかいるのだ。
「そんなに暴れると落っこちるよ」
「落としてくださって構いません!」
 先生はふっと笑っただけで、すたすたとベッドの前までたどり着いた。
 そしていきなり私はベッドの上に肩の上から投げ出されて、ベッドの端の木に足の先を思い切りぶつけた。
「あいたっ」
「ご要望どおり、落としてみました」
 私が見上げて睨み付けたことなどお構いなし、という様子で先生はニコリと笑った。
「この根性ワル男!」
「茉莉ちゃん、口が悪いなあ。そんなふうで大学受験とかの面接は平気なの?」
「ご心配なく。大丈夫です。時と場はわきまえます」
 先生は、ふうん、とか言ってこのベッドがあるスペースとキッチンを隔てるように引かれていた一本の線の上をスライドさせるように、脇の壁から引き戸を引き出してきた。
 へえ。こんなものがあるのか。さすが高級住宅街の一軒家! 最新型の収納型ドア! などと感心しているうちに、私と先生がいた場所は、先ほどの机などの家具がある狭い密室状態となり、さっきと同じようにランプの明かりだけが部屋の中を灯(とも)していた。
 これって、感心している場合じゃないって。私はベッドの上で周りを見渡した。
 彼がベッドの上に無言でのってくる。布団がかすれる音がした。
「あ、あのちょっと待って!」
 ベッドの端にいる私の方に来ようとしていた先生は、素直にぴたりと止まった。
「先生が空いているって言っていた部屋はどこですか?」
「二階にピンクの部屋があるよ。あそこは元書斎でね」
「仕事部屋だろうがなんだろうが、あんなショッキングな部屋はお断りです!」
「そうだね。あんまり受験生にはお奨めできない」
「だったら、他にはどこですか?」
「ああ、あっちに倉庫代わりになっている部屋があってね」
「あの部屋は見ました! 埃だらけじゃないですか! あんなところで眠れません」
「だったら、ここで眠ればいい」
 いくらランプの灯かりしかなくても相手の表情くらいは見える。彼は、「ね?」とでもいうように微笑んでいる。そんなのんきに微笑んでいる場合か。
「せ、先生のベッドは?」
「ここだよ」
 彼はあと二十センチという程度のどころまで来ていた。私はじりじりと後ろに下がった。
「そ、そんなことは聞いていません。部屋が余っているって」
「だってさあ。茉莉ちゃん、本当のことを言ったら来なかったでしょう?」
「当たり前です」
「なんで声が震えているの?」
「いいから、それ以上来ないで!」
 私はいよいよ最後の逃げ場、壁に頭をぶつけてしまった。頭を抱える。痛い。頭も足の先も痛い。先生はむっとしたように言った。
「なんで? あの展開であんまりじゃない? キスしてきたのは茉莉ちゃんの方だよ?」
 う、それはそうですけど。それはそれで。
「でも、でも、嫌なの。無理」
 私は先生が踏んでいる青いカバーの布団を無理やり胸元までひっぱった。
「茉莉ちゃん」
 責めているような口調ではなかった。やわらかく響いた。
「ごめんなさい……」
 目が潤んできた。先生を懇願(こんがん)するようにしか見ることができない。無理。
「どうして?」
 先生は私の肩に片手を伸ばしたけれど、私はびくっとしてその手を避けてしまった。
「そんなに嫌?」
 彼はショックを受けた、というように顔をうつむかせた。どうしよう。どうしようっておかしいでしょう、私! 私がキスをしてしまったのもおかしいけれど、だからってこの展開はないでしょう。どう考えても無理に決まっているでしょう。
 そっと顔を上げる。まだ顔をうつむかせて悩んでいるのか、困っているのか、がくりと言う感じの先生を見た。それほど拒まれてショックですか?
 どうしよう。布団を握り締める。この展開もおかしいけれども、それ以前に私は困るのだ。
ここに来る時点でこういう展開も考えておけ! いくら家族に怒(いか)っていて頭がそっちにばかりに向かっていたと言っても、この人はお嫁さんにする、とか勝手に言っていたのだから。
 先生を見る。まだ悩んでいるらしい。
私まで同じようにうつむいてしまった。心臓が波打ってしてしまっていて、思考回路がうまく回らない。
 どうしよう。無理は無理だし、嫌なものは嫌だ。でも、そんなに悩まれてしまっても困る。そこまで落ち込むことか? ああ、でも、やっぱりそういう問題でもない気がする!
「あの、痛かったのです。初めてのとき。その次も痛かった。本当に痛くて。相手ともそのせいで気まずくなって。私の我慢が足りないというか。そんな感じで……」
 痛いって言った。はじめだけ、のはずだった。でも、我慢がたりないって言われて。
 えっ。
 そう思ったときには、うつむいていた首元にすっと手が伸びてきて、私は先生の腕の中にすっぽりと納まってしまった。座ったままほぼ正面から抱きしめられる形になった。
「茉莉ちゃんの彼氏は、えーと、ツッキーだっけ? 下手だったのかぁ」
 先生は私の首元に顔を埋めた。軽く抱き寄せられているだけなのに背中が痛い。
「ツッキーは人気タレントで私の彼氏ではないし、その今言っていた彼氏とも別れました」
 実は今の話、ひとりではなくて、ふたりなのです。私って男、見る目がないのですかね。
「ふうん。最後までその彼氏とはイッタの?」
「そんなことは分かりません!」
 先生は、「よしよし」と言いながら私の頭を撫でた。そんなバカ父と似たような子ども扱いはいりません、と言ってやろうかと思ったけれど、先生の腕の中も私の頭を撫でている手のひらも温かくてやわらかかったので黙っていた。
「僕は上手いよ。なんて言ったって裸体画家だからね」
「それ、関係ないと思います」
「だって。女の子の身体のことはよく知っているよ?」
「男性は描かれないのですか?」
「え、男性? うーん」
 悩まれてしまった。裸体画家は裸体画家でも男性の裸体画は描かないのね。女性専門なのね。こころのどこかでなにかが引っかかった。こんなのは気のせいよ。最近の私は疲れているのよ。うん。
「とにかく僕は、女の子の身体には詳しいよ」
 そんな詳しさはいりません。彼は肩に回していた手でいきなり胸に触ってきた。
「ひゃっ!」
 私は身体を引いた。先生の胸を両手で押した。無駄な抵抗だった。
「なにをするのですか!」
「小さいよね。茉莉ちゃん」
「ひ、人が気にしていることを」
「ごめん。そんな泣きそうな声を出さないで」
 私は先生にまたぎゅっと抱きしめなおされた。彼の香りがして。部屋の灯りは暗くって。
「さっき、茉莉ちゃんの実家のキッチンで、茉莉ちゃんにくるりと一回りしてもらったでしょう?」
「はあ」
「あれだけでね、大体、女の子の身体の線は見える。洋服をどれだけ身につけていても。その服を脱いだときと同じ線が見える」
 ぞくりとした。服をたくさん着ていても相手を裸にすることが出来る瞳。
 それはまさに視姦だ。
「昔はそういう僕、おかしいって思っていた。でも、今はそのおかげで食べられているよ」
 言いたいことの意味が分かるようでよく分かりません、というように顔を上げた。お互いの頬と頬が触れただけだったけれども。
「細かい説明を省いてしまうと、さっきくるりと回ってもらっただけで、茉莉ちゃんの身体の線も見えたわけだ」
 その台詞を聞いた途端、私は腕に力を込めてめいっぱい先生を突き飛ばした。
 私に体重をかける形で抱きしめていた先生は、いきなりの出来事にベッドに転がった。
「地獄に落ちてください!」
「だって。分かっちゃうのだから、仕方がないじゃないか」
「でも嫌!」
「なんで? 茉莉ちゃんの身体。きれいだよ」
「私は先生の裸体モデルになんかなりませんからね」
「ああ、なんだ。そんなこと」
 私に突き飛ばされたことにショックを受けていたらしい様子の彼は、すぐに持ちなおした。ガバリと起き上がってこっちの抵抗もむなしくまた抱きしめられる。
 私は抱きしめられた先生の腕を手で押しながら、もっと鍛えておくのだった! と真剣に後悔した。
「茉莉ちゃんは、僕のお嫁さんになってもらうのだから、そんなことはさせないよ。どこのだれが自分の奥さんになる人の裸体をいくら有名画家の絵のモデルだと言っても、世間に晒(さら)したいと思うのさぁ?」
「先生の言っていることは全部、筋が通っていません!」
「どごがさぁ」
 ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。先生の胸に嫌でも顔を突きつけられ、埋められる。先生の顔が私の肩に埋まって、長い髪の毛と洋服を通り越して彼の息の熱さが伝わってくる。
「どこが、って。先生のモデルさんだって誰かの奥さんにはなるかもしれないのに」
「まあねえ」
「それに私は先生の奥さんにはなりません」
「高校は卒業してからでないとまずいよね。あと何ヶ月もあるよね」
「そういう時間の問題ではありません」
 そこでまた先生は「よしよし」と私の頭を抱きしめながら撫でた。
「まあねえ、そういうことにしておこうか」
 なんなのだ、この男は。完全に私は振り回されている! この私が! なんてことだ。
「もう寝ます」
 私はやっとささやかな抵抗として言った。
「いいよ。こうして寝る?」
 強引に押し倒されて、腕枕をされた。本当に殴りたい。
「嫌です!」
 叫んだ。バカ父、もっとまともな男を連れて来い。
「なんでえ」
「こんな枕は痛いです」
「みんな喜ぶことじゃないの?」
 その”みんな”っていうのは誰だよ。少なくとも私ではない。ぷいっと壁に向かって横になって布団を被った。
「おやすみなさい」
 淡々と言った。もうとにかく寝かせてよ。今日は疲れた。
「そんなあ。茉莉ちゃん、こっちに向かい合って寝ようよ」
「お断りです」
 先生は散々、「ええっ」「そんなのはないよ」「あんまりだよ」とか言っていたけれども、私は無視をした。
「いいよ。分かった」
 数分後、諦めたようにベッドの上で文句をつけていた彼がそう呟いて、布団に入るのが分かったので、私は大きく息を吐き出した。疲れる。この男の相手も家族と同じくらいに疲れる!
 とにかく問題はまだあるが、とりあえず今晩は眠れる。
「なっ!」
 いきなり後ろから抱きしめられた。
「心臓に悪いから、なにからなにまでいきなり行動するのは、やめてください! 抱きしめるなんて言語道断です」
「茉莉ちゃんがこっちを向いてくれないからだよ」
「責任転嫁ですか」
「茉莉ちゃん、さすが東大を目指しているだけあって、ことばをたくさん知っているよね」
「……」
「もう寝ちゃったの?」
 先生がぐっと私の肩を引き寄せた。
「どうして私の志望大学を知っているの?」
「だってさあ。金田さんが僕にいつも言っていたよ? うちの茉莉は日本一の大学を目指しているのだぞって。誰にも引けを取らない日本一のみをいつも見ているのだぞって。すごいのだぞって」
 あのバカ親父。いつの間に人の志望大学を知ったのだろう。言ったことなんかないのに。
「どうせ無理だって思っているのでしょう?」
 みんなして、いくらなんでも無理だ、とか言ってくれちゃって。別にいいじゃないか。私にはなりたいものがあるのだからいいじゃないか。目指すくらいいいじゃないか。本気でがり勉をしたっていいじゃないか。夢を見るのは自由でしょう。
「僕もね、君に画家なんて絶対になれないからってよく言われた。才能なんてひとつの欠片もないって、さんざん言われたよ?」
「私はそこまで言われていません」
「でもさあ、一緒だね」
 先生があんまりにうれしそうにいうので、私は大きくため息をついた。
「そんなものが一緒でもうれしくなんかありません」
「そうかなあ。僕はうれしいよ」
「もういいから、寝てください」
「うん。寝る。おやすみ、茉莉ちゃん」
 先生は私の腰を抱きしめたまま布団の中にもぐった。彼の身体が下にさがっていくのを感じる。
 ほっとした。それでいい。いま間違っても私の顔を覗き込んでくれるな。
 表情が緩んでいるに違いないから。

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