先生とあたしとパイナップル (4)

第一章 - 4 頁


「ごめんなさい」
 私は目の前にゴトリと置かれたコーヒーを前に顔もあげずに謝った。
「あの、見るつもりは全くなかったのですけれども、先生を探していて、思わず見てしまったというか」
リビングのダイニングキッチンに備え付けられていた椅子に腰掛けていた。
 先生は大して幅もないカウンター台の向かい側に立っていた。
「泣いた?」
 ぐいっと指で顎をつかまれて顔を上げさせられる。その顔は笑っていない。
「泣いてなんかいません!」
「だって、目が赤い」
「これは寝起きだから」
「声もかすれている」
「かすれてなんかちっともいません!」
「どうして?」
 ふっと彼は笑った。大人の笑い。余裕のある笑顔。
「別に泣いたっていいよ。ここは君の家族がいる家じゃないのだから」
「はい?」
「本当の家族の前、あるいは、あの家で泣けなかったのでしょう?」
 かっと頭に血が上った。事実、椅子を勢いよく突き倒して立ち上がった。
「なにを言っていますか。私は別に泣きたいなんて思ったことはありません」
「そう? ならいい」
 先生があっさりと引き下がって隣の椅子の背を引き寄せたので、私は軽く息を吐き出した。
「そうです」
「あんなに今にも泣きそうな顔をしていたのに?」
「だ・か・ら!」
 目を見て叫んだ途端、ぐっと腕を引き寄せられて、身体全体が引っ張られる。しまった、と思ったときには遅かった。
「だ・か・ら?」
 ぎゅっと抱きしめられて顔を首元に近づけて耳元で囁かれる。私は動けなかった。
「どうして茉莉ちゃんはそんなに意地を張るの?」
「意地なんか張っていません!」
「可愛くないね」
 ふうっ、と吐かれた息が耳元の髪の毛を通り越して肌に伝わってくる。熱くて嫌だった。変になりそうだった。
「どうせ可愛くなんかないですよ!」
 昔から言われてきた。しっかりしすぎだ、真面目すぎる、可愛げがない、子供らしさが足りないって。
「でも僕は好きだよ」
 なにを言っているのだ、この男は。
「先生、内容が変ですよ」
「うん?」
 顔をさらに首元にうずめられる。熱い息が首元にかかる。どくりとした。
「やめ……」
 顔を背けていたけれど、彼の方に向けて叫ぼうとした。私はその瞬間を逃さなかった。
「ひどい!」
 すんでのところで相手との唇の間を手のひらでとったのだ。危なかった。横を向いて顔を向けた途端に持っていかれてしまうところだった。私の唇。
「なにがひどいのですか。人の許可なく勝手にキスなんかしないでください」
「ええー」
 いかにも不満そうな口調で彼が言う。
「キスをするのに許可がいるの?」
「いります!」
「僕はそんなの聞いたことがない」
「私の場合はいるの!」
 ええー、とまた言いながら、彼は再び私の肩に顔をうずめる。いかにもがっかりだ、という様子。やわらかい腕。強く抱きしめられているけれども、全体はやわらかい。
「茉莉ちゃんは大変だなあ」
 さっきの調子に態度も話し方も戻った。なんだかとってもほっとしてしまった。
 モデルに接していたのと同じ態度をとられ続けていたら、ひどく傷づくような気がしていたから。


「もういい加減、放してください」
 いくら人がほっとしたからって、何分抱きしめているのだ。やわらかい感じだと言っても男の力は強い。
「お金取る?」
「そういう問題じゃありません!」
「うーん。そう言われてもさあ」
 彼はぐずぐずと言っている。
「子供みたいですよ、先生」
「僕、茉莉ちゃんの子供になりたい」
「また殴られたいのですか?」
「うん……」
 どっちだ。私は軽く息を吐き出した。彼にぎゅっと抱きしめられているので息が苦しい。
「私の子供になんかならない方がいいですよ。きっと完璧なことばかりを要求するから」
 そうだ。私が短気なように、私の度量は低いのだ。軽く足がつけるほど浅い。きっと。
「完璧、かあ」
 どうでもいいから解放してよ。私は彼の腕に内側からかけていた腕に力を込めた。
「あの、本当に放してください」
 だんだん冗談じゃなくなってきた。腕の力を緩めなさい!
「先生がいくらツッキーに似ているといっても、許しませんよ」
「誰なの? ツッキーって彼氏?」
「知らないのですか?」
 いまや国民人気度ベストスリーの彼を。いや、彼氏にしたいランキングでは、キムタクだけでなく、長たらしい名前の変なロック歌手にも負けたけれども、アイドル及び俳優業界の三位は三位だ。
「なんで僕が茉莉ちゃんの彼氏を知っているの?」
 拗ねたような口調で彼は言う。
 そう言われて気が付いた。この家でテレビを見ていなかった。
「彼氏のことはとりあえず忘れようよ」
 とりあえずって。彼は私の身体を左右に振って顔を髪の毛にこすり付けるように埋める。
 ねえ、モデルの子にもこんな風にする?
 そうやって拗ねてみせる?
「どうでもいいから放してください。セクハラですよ!」
「ええー。セクハラじゃないじゃないか。茉莉ちゃんはモデルさんじゃない」
「それでもカテゴリーで分ければ、セクハラ行為です」
 たぶん。
「僕、そんな法律的なことまで分からない」
 本当に殴ってやろうか、コイツ。私はバリバリなバトミントン部員現役レギュラーだ。こんなひょろりとした芸術家の一人やふたり。倒せなくても、全力で殴りつければ多少のダメージは見込め……。
「あっ」
 思わず声が出た。
「うーん。ごめん」
 先生の熱い息とともに吐き出される声にびくりと身体が反応した。
 うそでしょう。全然うごけない。
 もちろん、彼がぎゅっと抱きしめているというせいもあるけれども、私の身体が固まってしまって動かない。
 ちょ、ちょっと待って。
「うー」
 私は変なうなり声のようなものを出して彼の両肩を握り締めた。ちょっと、どうしろというのよ、この状況。その、それ、やめて。
「はなしてください」
 泣きそう。いや、別に泣きたいわけではなくって。悲しいわけでもなくって。うれしいわけでは当然のごとくなくって。緊張と感情が高ぶってしまって、叫びだしそう。
 どうして? なにを叫ぶのだ?
「うーん、僕としては欲しい」
 彼の固いものが右太股(もも)に当たって……あたしは……文字通り、おかしくなりそう。
「茉莉ちゃん、聞いている?」
 囁くような声。息が耳にかかり続ける。どんどん先生の腕に力がこもっていく。
 それは、つまり、硬いものが私の股(もも)に食い込むってことで。それを直にじわじわと感じるってことで。
「だ……か……ら」
 さっきのような大声は出なかった。絞り出すような声しか私の喉からは出てこない。喉の奥が乾ききって皮という皮がくっついてしまっている。
 顔をそっと起こした。
 目があう。
 きれいというより、読み取れない目だ。大きな窓から見える月と同じようなイメージの瞳だ。その月の光が先生の瞳を照らすように見せている。光っていた。
 私がぼんやりと見上げていると、彼はゆるやかに笑った。月の光だ。今日が満月だったか、もう窓の外を確認する気にもならないけれども、彼のやわらかい笑顔は、見上げても眩しくないと感じる時のやわらかい満月だ。
 これは誰?
 だれ?
 どうしてツッキーに似ていると思ったの?
 確かに似ている。似てはいるけれども、全く違う。ツッキーは眩しい人だ。この人は眩しい感じじゃない。やわらく、て。瞳だって優しげなのに透明色(とうめいしょく)だ。月の光をくっきりと映してしまいそうだ。
 気がついたときには首を傾けて彼の唇にキスをしていた。彼の両肩に置いた手に力を入れて、つま先立ちをして唇を重ねた。
「キスをするのには許可が必要じゃなかったの?」
 彼が呟く。ちょっと面白くないというように、拗ねたように。
「私が先生にキスをするのでもいる?」
 その質問の答えは聞けなかった。
 頬をつかまれて唇をふさがれて、何も考えられなくなっていたから。

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