第一章 - 3 頁
目を開けると白い天井が見えた。ベッドの上らしい。ゆっくりと起き上がってひらひらと舞っている窓のカーテンを眺めた。どうして窓を開けていくのでしょうか。
薄暗いな。電気のスイッチすらよく見えない。今、何時? 目を細めて、腕時計を見る。まだ夜の十時だった。
風が吹いて来る方へ寝返りを打つと、すぐにシステムキッチンが視界の中に入った。はっきりしない頭で部屋の中を見渡す。向こうの机の上で小さいランプだけがついていた。
私が寝ていたのは、広いリビングの端にある青い布団がかけられたベッドだった。その横には二つの木製のタンスが並び、首を伸ばすとその更に向こうに折りたたみ式の簡易な机と椅子が見えた。あの机、あの先生の様子だとろくに使っているように見えない。デスクスタンドしか置いていないし、それ自体もアンティーク風に洒落ていて実用性は欠ける、などと考えた。
部屋の全体が薄暗い。部屋の明かりはそのデスクスタンドがついているだけだった。
フローリングの端には、このベッドと反対側の壁際に低い棚があり、その上にさっきから風が入る窓があった。白いカーテンがひらひらと舞っている。リビング全体が広いわりには家具が少ない気がする。まあ、男の一人暮らしだからこんなものなのかな。
来たばかりというか、運ばれてきて、放置されたので、自分がだだっ広いリビングと台所をかねるらしい部屋に寝かされていた以外、どこにいるのかよく分からない。
「どこに行ったのよ、あの人」
ベッドから下り立つ。長い髪を手でとかすようにひっぱった。ああ、もうこの腰まである髪切ろうかな。邪魔だな。そうは年中思うが、本音から言っているわけではない。
息を吐き出した。今いるのは恐らく一階のリビング。ベッドはあるが、ここは普段、寝るべき場所ではないのだろう。まだこの家には本格的な寝室だとか画家らしい部屋がありそうだ。
本当にこのリビングが広い。私はフローリングの真ん中のみに広げられた何の柄か分からない丸い絨毯の上を歩いて、廊下に続くらしい曇りガラスのドアを開けた。
「うわ」
思わず声をあげた。大理石の床ですか? 玄関と吹き抜けの階段が目に入った。その階段はループして二階に繋がっている。上を見上げる。あれはもしやシャンデリアですか? それほど大きくはないが、小さなガラスがきらりと薄暗い暗い中でも光った。玄関とは反対側の廊下を眺める。お手洗いやお風呂がありそうな木製のドアが並んでいる。廊下も当然、フローリングだ。長い廊下だな。さすがに自分で「天下の」って言っていただけはあるわね。裕福な人なのね。バカ父が有名だって言っていた。
「先生?」
私はちょっと大きく声を上げてみた。しん、とした静寂だけが返ってくる。
何の案内もせず、コンビニにでも行ったわけじゃないでしょうね!
小さい灯りだけが着いている一階の薄暗い廊下を歩く。
もう! どこかに行くのはいいけれども、電気のひとつやふたつ点けていってよ。
あの人には無理そうなことを愚痴る。廊下を歩きながら、曇りガラスのドアの前から見えた三つのドアのうち、一番手前のドアを開ける。トイレだった。つきあたりのドアを開けた。
その部屋はそれなりの広さだったが物も多かった。キャンバスに大きな木のテーブル。使い古されたと思われる棚。床やテーブル、棚の中から上まで所狭しというように美術関係と思われる本が重ねられ、具材などがばらばらと置かれて埃(ほこり)を被っている。
床にはダンボール箱がいくつも開け放たれたまま置かれ、その中に絵の具だのスケッチブックだのなんだのがごちゃごちゃと入っていた。咳払いをした。埃っぽい。物置ですか?
さっさとその部屋のドアを閉めて、その隣の残りのドアをすぐに開けた。洗面所、その先がお風呂のはずだ。
壁に手をつくと、ぱっと電気がついた。自動? いきなり明るくなったので目が変になった。
「お風呂場、広いなあ」
ひとりで私が声に出して感心してしまうのも無理はない。ここも明らかに大理石だし、浴槽だけで軽く三畳はある広さだ。なんて贅沢な。
お風呂場のドアをガラガラと閉め、洗面台を見つめる。鏡がついた広い流し台、憧れの赤色のドラム式洗濯乾燥機。おそらく着替えや洗濯物を入れるのだろうカゴがふたつ。それとも……。この先を考えてはならない。
ため息をついてお手洗いを拝借する。ここは壁から天井まできれいに磨かれている。壁のタイルには何かが描かれていた。便器に座ってじっと見つめた。白地のタイルになんの柄だろう? 色合いや形からして果物と英字みたいだけれども、何かまでは分からない。自分で描いたのかな? 磨けば見栄えがよくなるだろうに。
私は元来た廊下を歩き、再びシャンデリアを見上げた。電気をつければきれいに見えることだろう。
腕時計をまた見てしまった。これまたキティちゃんがこちらにポーズをして見返して来る。どこかに行ったってもう十時過ぎよ? 遅すぎない? 二階にいるのかしらね?
私は仕方なく木のループした階段を上がりだした。
なんだかお化け屋敷でも体感しているようだ。なにか出てきたらどうしてくれるのよ。いくら短気でもその手のものは苦手だ。二階に上がり、薄暗い廊下を眺めた。
腕を組む。すぐ傍に見えるドアはどう見てもトイレだ。配置もドアのデザインも下と同じ。あとは少し向こうに見えるドアと自分の真横にあるドアがあるだけだ。
首を傾げた。この家の部屋そのものは確かに広い。だが、部屋数があるわけではないらしい。彼が一人で住むにはいいが、この部屋のどちらかが言っていた通り、仕事部屋と言う名のアトリエだとすると、そんなに部屋が余っているという感じではない。
ということは、さっきの倉庫と言ってもいい埃の部屋に私に住め、ってことですか?
なんたることかしら。足を踏み出さずとも手を伸ばせばつかめる隣の部屋のドアを空けた。
「……なに」
入ってドアの横にあった電気のスイッチを入れて呟いた。
派手なピンクのカーテン、ピンクのベッド、ピンクのソファー、ピンクのひらひらしたテーブルクロス。ピンクの絨毯。ピンクの壁。部屋中どこを見てもピンク、ピンク、ピンク、ピンク。ピンクというよりショッキングピンクと言っていい色だ。
なんだ、この部屋は。中の奥まで入った。見渡す。壁までピンク柄だ。花だかなんだかの小さい柄が描かれている。光の明るさなど関係なくショッキングピンクが目にまぶしい。ここはピンクハウスなど顔負けの乙女と言い切れるのかも分からない世界が繰り広げられている。
まさかここに住め、と、言わないでしょうね! 冗談じゃない。こんなにそれこそショッキングな色に囲まれていたら勉強どころか、落ち着いて眠れない。
明らかにクローゼットと分かるピンクがかった見開きの棚を勢いよく開ける。
見なければよかった。
一番初めにそう思った。
さっき車の中でうちの家族のことを話した時、根掘り葉掘り聞かず、もう耳にタコの決まり文句も言わず、何も態度を変えずにいてくれたから、いくら頼りなくても芸術家なだけはあって人の細かい感情を感じ取れる人なのかと思っていたのに。
ロリータ。そんな表現がぴったりくる洋服たちを見ながら、私は肌寒くなった気がして腕を組みなおした。
――いいわねえ、金田さん、茉莉ちゃんは手がかからない良い子で。
――お母さんに迷惑がかからないように家事をやっているのですって? 偉いわねえ。
――茉莉ちゃんは頼りになるわよ。しっかりしているし、真面目だからねえ。
なにこれ。
なんで目から水なんか出るの。
指で目元をこすった。もちろん泣いているのは分かっていた。
どうしてこの私がずらりと並んだロリータ服を前にして泣かなければならないのだ。
「うっ……」
なんで私はいま泣いているの?
ずっと左手で握り締めていた携帯電話を広げる。着信どころかメールの一通もない。乱暴に閉じてズボンのポケットに無理やり携帯電話を突っ込んだ。
私は涙をふいてその部屋を出た。斜め前の部屋を見つめる。よく見れば、そのドアは数センチ開いていた。電気が少しだけ漏(も)れている。歩いていってドアの前に立つ。
「先生?」
声が思うように出なかった。かすれる声で呼びかける。
「開けますよ?」
今は変態な奴でもいいから一緒にいて欲しかった。
いや、変態では困るけれども、ロリータ好きを変態男と決めつけて良くないし、あの男はちゃんとした立場の社会人なのだから平気だろう。
ゆっくりとドアを開く。目に一面のスポットライトを浴びて目を瞬(またた)いた。
「あっ」
慌ててドアを数センチだけ開いた状態に戻した。
部屋の中から目を放すことはできなかった。ドアから斜め前に座っている先生、その数メートル前にいるモデル。
大丈夫。先生はキャンパスに向かっていてこっちを見た様子はない。振り向いてもない。
先生の目の前で全裸になり立っている女性を見た。彼女の後ろには紫の薔薇が飾られている。あれは造花だろうか? 薔薇に紫なんてあったか? 『ガラスの仮面』じゃあるまいし。
ごくりとなった。
――全裸って描くの?
――そういうのも描きますよ。
聞いていたじゃない。散々バカ父から聞かされたじゃない。裸体画家だって。
もうこの場から去らねば。そう思っているのに、足も身体も固まってしまって動かない。
「ちょっと違う」
先生のことばに思わず大声をあげそうになって、慌てて手のひらで口を押さえた。
十五センチくらい開かれたドアから中の様子を窺(うかが)う。
先生はモデルの方を見ている。よかった。気がつかれていない。なぜかは分からないが、私が今ここにいることを気がつかれたくはなかった。
「なにが違いますか?」
モデルの女性が答える。甘ったれた声だ。声が鼻にかかっている。ふくらませた顔で立ったまま裸体を先生に向けていた。先生の絵はイーゼルの上に置かれ、斜めの加減でここからは全く見えない。ちょうどスポットライトに当てられている。眩し過ぎて色味も飛んでいた。見たくもなかったのでそれで良かった。
「なんかさあ、紫のイメージじゃないのよ、アナタ」
さっきまでとは随分違う。冷たい声だった。ちょっと前までは優しげなオーラ全快だったのに。仕事の時はこうなのだろうか。それともあれは外用で実際はこんな人なのか。
まあ、そんなことはどっちでもいいことだけどさあ?
でも、でもよ。もしかしたら私はここに数日は住むわけよ。
だって悔しいじゃない? 家族にあんなこと言われて、のこのこと帰れますか。少しは私がいなくなって困った、と思わせたいじゃない? そんなようなひとことを言わせてやりたいじゃない?
「どうすればいいですかぁ」
モデルの子はくねっと身体を曲げて訊いている。あんな仕草をする女、漫画以外でする人を初めて見た。
「そうだな」
どうしようもないじゃないか、と突っ込みたくなった。
そもそも裸の人間に対して紫だのと色のイメージもなにもあったものじゃない。
「こうさ」
先生がけだるげに彼女に近づいていく。
「アナタの角度を変えて」
先生の細い手が彼女の肩に触れる。彼女の腕に背中に、肩を片手で押すようにしながら彼女の身体全体を観察するように眺めている。真剣な目。厳しくて痛くなるような顔つき。
「で、アナタこっちを向く」
先生の顔が彼女の顔に近づいていく。お互いの息がかかりそうな距離の頬の近さだ。
モデルの子は、ポヤンとした顔で先生を間近に見上げている。
先生と彼女の目が合った。相変わらず先生の目つきはものを観察するような瞳だ。目が合った彼女の頬が赤くなったように見えたのは、こっちの気のせいだろうか。
先生の両手が彼女の背に触れて、抱きしめるような格好になった時、後ろに下がった。
私は音もなく床に腰を下ろした。身体から力がふっと抜けたのだ。
なにこれ……。
ぺたりと腰を下ろした時、少しドアから放れる格好になったので、中の様子はもう見えなかったが、先生がまだモデルの子になにか同じ調子でアドバイスをしているのは分かる。台詞の内容は頭に入ってこない。
なにこれ……。
なんかとてもいやだ。
自分の中にあるすごく黒くて汚い感情が湧き上がってきた。心臓が高鳴る。
嫌悪。(けんお)
なんの嫌悪? 人への? 男の人への? この世界への? それとも、先生への?
違う、そんなはずはない。そこまで考えて首をふった。先生になにかを感じるはずがない。先生がツッキーに似ているから。そう、似ているから、先生がツッキーにそっくりだから気に入らないって思うだけだ。
絶対に違う、これは……。
一瞬、なんの音楽がかかったのか自分でも分からなかった。中で先生がなにかの曲でもかけたのかと真剣に思った。
あ、携帯電話!
慌ててズボンのポケットから携帯電話を取り出して蓋を開けて受信ボタンを押す。
ガタン。
私は携帯電話を耳に当てる動作を止めて座りこんだまま開け放れたドアを見上げた。目の前には怒られるのを覚悟したかのような瞳をした先生と、いかにも私に文句を言いたげなモデルの子の姿。誰もなにも言わない。私も声が出てこない。
「電話に出るのが遅い」
携帯電話からは大声で親友からの呼びかけが聞こえた。
「ちょっと! 茉莉ってば、聞いているの?」
先生と目が合った。見下ろす視線を逸らせもせず、声が出ない。真帆。間が悪すぎです。