第一章 - 2 頁
私はその男の腕の中から逃れようと身体を動かして試みたけれども、両手でがっちりとガードをされていた。両親のどっちかくらい、この状況をやめさせて欲しい。
「ちょっと、放して!」
私は思い切り彼の胸を叩きつけた。これも自慢じゃないが、私は短気も短気で怒りっぽいもいいところだ。
「あいたっ、茉莉ちゃん、乱暴だなあ」
「手を放してって言っているの!」
彼は仕方がないな、というように私を解放した。なんなのだ。
「僕は氷山泰明(こうりやまやすあき)。本名は長居。よろしく、茉莉」
いきなり茉莉呼ばわりですか! なんですか。礼儀知らずの人だな!
私はむっとした顔を立ったままのバカ父に向けた。あんたが連れてきたのでしょう? この変体男を。父をこれでもかと睨みつけた。
父は私の視線を受けて、なにかな? とでもいうように首を傾げて微笑んだ。
それこそ、その笑顔、キモイよ! なにかな? じゃないでしょう。
「氷山君はね、有名な裸体画家だよ。かなりの売れっ子だ」
ら、裸体ですか。父の満面の笑みを無視して彼を睨むように見た。
目があった。彼はにっこりと笑いかけてきた。きれいというか、やさしげというか、顔はツッキーそっくりでも、頭の中はエロイことでいっぱいなのね。
「で?」
彼がにこりという笑顔のまま私の顔を覗き込んだ。
「で?」
なにが“で?”なのよ。一体、なんなの。彼を睨みつけた。私の一番タイプのツッキーそっくりなのに、裸体画家であのバカ父と気があっているなんて。画家であることも、父と仲良く出来ることもともかく、裸体画家だなんて。ツッキーを汚されたようで私は面白くなかった。あー。本当にバカ父が帰ってくるといいことないな。
「で、なんですか」
もう怒っていた。彼がどうとか知らないが、ツッキーは私の日常生活の癒しなのだ。そんな彼を汚すようなこの男を私は許せなかった。
「で、いつからウチに来る? 僕は今夜からでも構わないよ?」
私は画商などという父を睨みつけた。本人に聞いても儲かるのか儲からないのか、派遣か在宅ワークか自営と言うべきか、結局どういう仕事なのか理解が出来ない。友人にも説明がしにくい。ニコリと微笑み返して来た。
殴っていいですかね、この男。
「氷山君はね、それは有名な裸体画家なのだよ」
茶の間。氷山氏は頬を母から濡れたタオルを受け取って冷やしている。私はぶすっとしたまま父に向かい合う形で絨毯の上に座っていた。全く。客用だけでなく家族全員分の座布団くらい用意して欲しい。自分で冷蔵庫から取り出してきたペットボトルの蓋を乱暴に開ける。はあ、ウーロン茶はサントリーが一番よね。癒されるわ。
「氷山君はね、有名な裸体画家なのだよ」
聞こえなかったと思ったのか、父は笑顔を崩さずに言った。
「それはもう聞きました」
大体からして裸体、裸体って、十八歳の乙女の前で言わないで欲しいわ。
「へえ、オールヌード?」
さっきまで無関心そうに横でお菓子を食べていた姉が目の前の彼に乗り出している。
「もちろん、そういうのも描きますよ?」
なんで思い切り頬を拳で殴られたのか全く分からない様子の彼がちらりと私の方を伺うように見てきた。
目をそらす。見るな、こっちを。またあんたを殴りたくなるから!
「おいしいじゃん」
姉はなにを思ったか感嘆したように言った。
「モデル料っていくら?」
「さあ……。僕はあまりよくは知りません。そういう面は税理士さんに任せています。でも二桁はしているのかなあ」
「二桁ぁ? 私もやってもいいかなあ?」
どお? どお? と姉が上着の前をちらちらと肌蹴させる。深くため息をついた。うちの家族はどうしようもないな。本当に疲れる!
「なにを言っているのですか」
氷山氏が参ったな、どうしよう、とおたおたした感じで隣の父を見ている。
「まあ、ねえ。オールヌードっていうのはねえ。ちょっとヌードというのならともかく」
母が困ったように言っている。その意見、本当に困っていますか。“ちょっとヌード”なら良いように言っていますけれども、どういう意味ですか。もしかするとなんですか。私は彼の前でぐるりと回っただけでモデルにでもスカウトされてしまったわけですか。それって犯罪ではないのですか。仮にも私は十代ですよ。未成年ですよ。ふけて見える、とかよく言われますけれども、現役女子高生バリバリですよ。そんな手のモデルなんていうものにはいくら画商の父を持っているとはいえ、できませんよ。
「えーっ。私、やりたい! 欲しい、二桁」
一体、なににこれ以上使って買うというのだ。姉はお金の使い方が荒すぎる。
「とにかくですね、私は失礼します」
ああ、もう勝手にやっていてよ。こんなところで裸体だのヌードだのって話している場合じゃない。立ち上がろうとした。あー、正座で足がしびれた。でも、勉強せねば。
「なんで一緒に来てくれないの?」
彼がいかにも不満、というような顔を向けて言う。
「普通、断りますよ」
氷山氏が申し訳なさそうな顔でぐっと詰まる。よく母に言われる。考えてから口にしなさい、って。でも、無理。
「私はこう見えても十代ですよ? よく知りもしない人の家になんか行くわけがないじゃないですか」
「でも僕は天下の氷山泰明だよ」
知らないよ。
「裸体画を描かせたら僕の右に出るものは今のところいないって言われているよ」
真面目な顔をしていらっしゃいますが、威張れることですか、それは。
「それに僕は港の見える丘公園の傍の一軒家に一人住まい」
ん? 私は立ち上がろうとしたまま動作を止めた。
「アトリエと家は一緒になっているけれど、部屋はいっぱい余っているし、静かだよ」
高輪なら、ここからより明らかに学校に近い。そして静かな一軒家……。
「茉莉ちゃんが言っている、受験勉強の環境にはもってこいなのに」
盛って来い? いや、頭の中の字面変換を間違えた。もってこいの環境ですって?
「いいじゃない。行けばぁ」
カールした茶色い髪の毛の先の枝毛を探しながら言った姉を見つめて睨んだ。
いやに簡単に言ってくれるじゃないの。この家の家事のほとんどをやっているのは誰よ? あんたが上着の下に来ているブラウスに、疲れているのにアイロンをかけたのは誰だと思っているのよ? 母にはスーパーのレジ担当の仕事があるし、お弁当を作るついでに毎朝のご飯を早起きしてこしらえて、家族全員の夕食まで作っているのは誰だって言うのよ?
「そうね、いいと思うわよ」
母もバカ父の隣でにこにこと言っている。
「なんと言っても氷山君だからね」
父は明るい声で同じような言葉を繰り返している。
なんで? それでいいの? 私はここに必要とされていないの?
そんなに簡単にほいほいと出て行っても構わないような存在だったの?
「分かった」
私は背を正して立ち上がった。誰ともなく睨みつける。
「今すぐ出て行ってあげるわよ。待っていて」
リビングのドアを乱暴に扱わないようにするだけで、精一杯だった。
姉と共有の八畳程度の部屋とも今日でさらばだ。渋谷の洋服屋でバイトをして、そのお金で流行りの洋服を無計画に買いまくる姉にクローゼットを譲り、窓際に家具が積まれたせいで暗い。
自分のスペースである手前の箪笥から大きめの鞄を取り出し、制服や勉強道具や洋服を乱暴に詰め込んだ。
なによ。なんなのよ。結構、頑張っていたのに。なんだかんだ言っていても、新しい家族に早く慣れよう、って。いきなり家族が三人も増えて、引っ越しのせいでご近所さんや町内の決まりが変わって、忙しい日々の連続だった。その中でも頑張るぞってやってきたのに。なんであんなに簡単にいなくてもいいってなるの……。
ここで泣いたりなんかしたりしたら私の負けだ。誰が泣くものか。
心から強くそう思って。勉強机の引き出しや本棚から出したものを学校鞄と旅行鞄と目についたエコバックに次々と詰め込む。時間の経過も考えず。薄暗い部屋で黙々と作業を続けながら、ずっと唇をかみ締めていた。
氷山泰明氏が乗ってきたという小型のBMWはマンションの手前の駐車場に止めてあった。
彼に後ろのドアを開けられ、荷物を押し込んで乗り込むと、がくんと大きく揺れて走り出した。
後ろから運転席を覗き込んだ。ふらふらとしている。カーブなどかなりあやしい感じでぐねぐねと曲がった。
「ちょっと、大丈夫なの」
私はまだ苛立ったまま彼に言った。また揺れた! あ、後ろの席でもシートベルトを締めておかないと。
「運転するのは三年ぶりでもゴールドカードだよ」
ご機嫌な様子で彼は答える。声をあげて笑っている。
はあ、大きくため息をついた。ゴールドを自慢そうに言っているけれども、運転しないからなのは高校生でも分かる。
腕時計を見る。八時過ぎ。そろそろ公務員の兄が帰ってくる頃だ。いつものようにご飯の前になにか軽く食べたいと言っているのだろうか。いつも夕食を作る義理の妹がいないことを少しは寂しく思うのだろうか。それとも身体によくないカレーライスを与えそうな義理の母に喜びを感じるのだろうか。母は昔から料理が嫌いなのだ。私が途中まで野菜を切り、鍋に用意したカレーライスしか作らないのは目に見えている。
薄いピンクのボディの携帯電話を握り締める。
バイブ設定の携帯電話はピクリともしない。また腕時計を見た。夜の九時になれば義理の兄がいつものように遅くなっても帰ってくる。母にデートで遅くなってもいいのよ、会社の飲み会や友達の付き合いで朝方に帰ってきたっていいのよ、と言われても義理兄は会社が終われば、軽く飲んでくるくらいで家に帰ってくる。
あのバカ父とは正反対の性格をしている真面目な義理兄。普段は家に父がいないし、母もしっかりしているとは言いかねるのを気にしているのか、兄が夜の九時台より遅くに帰って来ることはなかった。母がいいのに、ってなんども言っても軽く笑って交わす。あの人だけは家族としてのやり取りが出来なくても、仲良くなれそうだったし、同じ屋根の下で顔を毎日突き合わせ、付き合っていても疲れなかった。自分と同じタイプに思えた。
お兄ちゃんにだけは、なにか言ってから出てきたかったな。やけになってきちゃったけどさ。なんか私が出て行くって荷造りして鞄二個とエコバックを三つほど持ってリビングに出て行ったら、両親は強引だった。
さあさあ、と氷山氏が荷物を率先して持ち、両親はへいこらして玄関で見送った。ドアがバタリと締まった。
静かな廊下にその音が冷たく響いた気がした。うちのマンションは七階建てなのに、エレベーターはない。両親が折半をして買ったのに! と文句を言いたいが、現在の法律では七階建てまでならエレベーターなしでも許されるらしい。四階から一階へ階段を降りる間、彼は愛車の自慢をし、後ろ座席に乗るように促された。更に腹が立った。そのせいでメモ用紙にひとことも残しては来なかった。
携帯電話を眺め続ける。色あせたキティーちゃんがこっちを見ている。お兄ちゃんだけは心配するかな。いきなり家を出て行くなんて、茉莉さんはなにを考えているのですか、って言うかな。
兄が帰って、私が出て行った事情を聞いたら携帯電話にかけてくるかな。今からでも遅くないから帰ってきなさいって。茉莉さん聞いていますかって、いつもみたいに言ってくれるかな。
「茉莉ちゃん、誰の電話を待っているの?」
彼が気にしたように斜めに振り返っている。車は走り続けている。
「ちょっと! 前を見てよ! 前を!」
私は人差し指を前に突き刺して慌てて叫んだ。
「ごめーん」
彼はそう言って前を見る。私はセンチメンタルな気分にもなれないのだろうか。
「茉莉ちゃんは長女タイプだよね。しっかりしている感じ」
しっかりしている感じ、ね。
「もともと私、長女ですから」
「え?」
彼はこっちを見た。
「だ・か・ら!」
睨みつけた。彼は大げさに「ハイイ!」と言って顔を前に向ける。
「うち、今年の春ごろに再婚したのです。知らなかったのですか? 私だけが母の連れ子なのです」
「画商の金田さんとの付き合いが今年に入ってからだからね」
「今日いた家族の他に社会人の兄がいます」
「そうなんだ」
彼は両手でがっちりとハンドルを握り締め、笑顔は笑顔だが、不安そうな目つきで前を見ている。さっきから体制が変わらない。余程、運転に自信がないらしい。見ているこっちの肩が凝ってしまいそうだ。
「じゃあ、茉莉ちゃんたちは家族なりたてだ?」
「そうは言っても、もうほぼ半年は過ぎ去りました」
「でも、まだまだってところはあるでしょう?」
「そうですね」
昨年の春。忘れもしないゴールデンウイーク中の五月五日。画商の父に中華街の店で引き合わされた。丸いテーブルを囲み、人生で初のフルコースのランチを食べながら自己紹介をし合った。その帰りに役所に両親が婚姻届を出すのを私は義理の兄と姉になる予定の二人と見守った。たったそれだけでその場にいた全員が家族になった。
その約一か月後、両親があちこち見て共同名義で購入を決めた今のマンションに、その近くで母と二人暮らしをしていたアパートからクロネコヤマトのお任せパックで引っ越し、同居をはじめた。
梅雨の時期からあっという間に夏休みになり、両親はハネムーンと称して札幌に二人だけで行った。
ありがたいことに渋谷のギャルの姉は滅多に家に帰らず、兄も静かな人だった。もうすぐ秋だ。でもまだ半年。もうすぐで母が再婚して六か月くらい。喧嘩もした。分からないところを埋めあおうとした。少なくともそうやった。でも分からないことだってある。分かりあわねばならない人数だって多すぎる。だから時間をかけた。
向こうにだって私のことなど分かってはいない。でも。それは時間だけの問題だったのだろうか。
「そっかあ」
彼は呟くようにそう言った。私は窓際の手すりに頬杖をついて彼を見上げた。
隣の彼はこっちの視線になど気がつく様子もなく、真剣な顔つきで運転をしている。
ねえ、聞かないの? 言わないの?
茉莉ちゃんにお父さんが出来てよかったね。家族ができて大変だろうけど楽しいでしょう。今日はいなかったお兄さんは優しくしてくれるのでしょう? いかにも彼は言いそうだ。
「先生っていくつですか?」
「えっ?」
また彼はこっちを見そうになって、斜めに視線が合うと慌てて顔を前に向けた。
「ああ、僕はもうすぐで二十八歳だよ。大人でしょう?」
私より十歳も年上なの? その感じで? 全然しっかりしていない。なんだかとっても頼りない。身体つきも話し方も。今、真面目な顔して運転している表情すら、大人っぽいというよりは、緊張している同年代の年下の男子のようだ。
「そうですか」
ため息と同じような私の呟きを、大人でしょう? と聞いたことへの肯定と受け取ったらしく、彼は満足したように微笑んだ。本当に大丈夫なのだろうか、この人。
あーあ。またため息をつきたくなってきた。
「あと、どのくらいで着きますか?」
「えー。よく分からないけど、四十分くらいじゃないかなあ」
よく分からない、って道順すら大丈夫か分からない、とでも言いたいのだろうか。
「私、寝るので着いたら起こしてください」
「分かった」
バックミラー越しに目があった。にこりと笑いかけてきた彼の視線を私はそっけなく逸らして頬杖をついたまま腕に体重をかけて目をつぶった。
なんだか最近、疲れてしまった。成績は下がったけれども、特になにがどうとかあったわけではないのに疲れた。私がなにも変わっていないのに疲れた。
瞼(まぶた)を閉じていても、みなとみらいのイルミネーションに彩られる夜景が流れて行くのを感じていた。
携帯電話は夜の九時を回り切った時間になっても鳴らなかった。