先生とあたしとパイナップル (1)

第一章 ゴング


 甘いものには棘がある。それは齧(かじ)ると苦いもの。

花 一日目 十月一日 土曜日

「だ・か・ら! さっきから言っているじゃない」
 私のその言葉に母は大袈裟にため息をついてみせた。
「だからねえ、その内容がお母さんにはよく分からないの」
「どうしてよ? そんなに難しいこと言っている?」
 私も大袈裟にため息をついてみせる。
「言っているわよ。あなたの言うことは、いつも難しいの」
「あのねえ」
「なによ」
 まさに私と母の戦いのゴングが鳴ろうとしていた時、いきなりピンポンが数回押された。
「あ、はい、はーい」
 母は白いひらひらとした機能的でないエプロンを私にぶつけて玄関に走って行く。
「マイダー!」
「ハニー!」
 あー。マイダーのお帰りだ。二人の甘い声が響き合う。玄関へのドアを今開けたくない。
 マイダーとは、母に言わせれば、マイダーリンの略であり、要は私の父である。三十八歳の若さと色白の美貌を持つ母は、十八歳の娘がいるようには見えない。この沈黙も何だろうか。
 ああ、私も迎えにいかないと、あとがうるさいのだよな。うんざりとして玄関に向かった。
「やあ! 君たち元気にしていたかね! お父さんは元気だぞ」
 バカ父が! 私は右手を上げて笑顔を向けている父にため息をついてみせた。二週間ぶりに海外出張から帰ってきたかと思えば、相変わらずのテンションだな。
「今日はね、お客さんを連れてきたよ」
 父が自分の後ろからひっぱるように男を差し出す。
 私はその男の顔をじっくりと見た。スーツの父とは違い、彼はジーンズのズボンに、ダボッとした襟開きの広いニットのカットソーというラフなスタイルだ。でもその格好が問題なのではない。彼の顔が重要なのだ。
 うっそ。ツッキーそっくり。
 男にしては長すぎると言ってもいいくらいの前髪、天然パーマでなく、恐らく弱めのねこ毛が肩の辺りまで顔に沿うように垂れている。細い身体つき、羨ましいほど白い肌、ピンクに近い唇。前髪から見える目は大きめのアーモンド型。やや茶色がかった瞳。
 ああ、理想のツッキーそのものです!
「三十点、男らしさにかける」
 目がハート型になっていた私は、いつの間にか背後に来ていた姉を睨んだ。派手好きの姉は私との共有の部屋に着替えやメイクでこもりいすぎだ。私もひとりで使いたい時間はあるのだから少しは気を使って欲しい。
「まあ、はじめまして」
 母が彼に隣で挨拶をしている。私たち女性三人に圧倒されていたらしい彼が慌てたようにお辞儀をしている。私と母は彼に笑顔でお辞儀を返した。姉は知らんふりだ。うちの家庭関係は複雑なのだ!
「狭い家ですがどうぞ」
 母が父と一緒に彼を上がるように促している。
「茉莉(まり)、元気にしていたかなあ」
 父がぐりぐりと私の頭を撫でる。はっきり言って長い髪が乱れるのでやめて欲しい。
「もうキモイからやめてよ」
 渋谷などに出たら、死語のギャルと絶対に言われるに違いないであろういでたちの姉が言う。
「なんだよ、お父さんは茉莉に愛情表現を示しているだけだぞ」
「それがキモイって言っているの」
 呆れ果てた、というように姉が愚痴る。
「なんだよ、お前もやって欲しいのかな? 素直に言いなさい」
「そんなこと言ってないって。触らないでよね。キモイを通り越してサムイって」
「なんでかね。まだ九月だぞ」
「それでもあんたはサムイの」
 ふたりで廊下を歩きながら言い合っている。疲れる! バカ父が帰ってくると疲れる!
「いいご家族だね」
 ツッキーはにこにこと廊下を歩きながら私に笑いかけてきた。
「そうですかあ」
 明るく笑顔を向ける。その笑うと出来る涙袋、前髪がかかったやさしげなアーモンド型の瞳に近くで見ると分かる奥二重。完璧です。
「うん。本当に素敵なご家族でうらやましい」
「よかったです」
 笑顔で答える。ツッキーいい人なのね。うちの家族をそんなふうに無理に褒めてくださらなくても全く構わないのですよ。それより聞きたい。彼女はいますか?
 広いマンションの部屋ではないので、あっという間にリビングに着いた。父が応接間、と呼んでいるに過ぎない茶の間を台所スペースから眺める。彼にコタツテーブルの奥に座るよう勧めている。
 母はお盆にグラスを並べて冷蔵庫にいつも私がピッチャーで備えている麦茶を注いで出しに行った。私はその様子を台所に立ったまま眺めていた。バカ父、帰ってくるのはいいけれど、お客さんを連れてくるなら来るって事前に言っておいてくれないと、夕食の準備はどうするのだ。ツッキーの分も作るのか?
 茶の間と台所の間には六人掛けの四角いダイニングテーブルがある。ここで家族五人が食事をとる。あくまで茶の間は応接間なのだ、家族やお客さんとテレビを観ながらコタツでくつろぐための場所であり、普段用ではない、と父が言い張っているからだ。この狭さで応接間もなにもあったものじゃないと思うのは私だけだろうか。
「ところで茉莉、さっきの話の続きだけれども」
 台所に戻ってきた母が真剣な面持ちで私の目の前に立って見下ろす。
「あなた、結婚しなさい」
 その目は笑ってなどいなかった。


 話は数時間前にさかのぼる。私が通っているのは都内でも有数の私立の進学校だ。今日は土曜日だが、そんなことはお構いなしに授業はなくても、テストだの、模試だのが当たり前のようにある。土曜日などのテストなどの出席は強制されていないが、私はサボるわけにいかないので通っている。
 放課後、担任に職員室に呼び出された。ひとりで名指しされたホームルームの時から嫌な予感はしていた。
「金田、このままだと冗談抜きで志望大学に間違いなく落ちるぞ」
 担任の小林先生が眉間にしわを寄せて椅子を回し、校内選抜模試の結果のプリントを渡した。表を見つめる。
“志望大学 判定十五パーセント E判定。大いなる努力が必要です”
 その文字を見ただけで頭が痛くなりそうだった。E判定! この私がE判定。見たこともない。信じられない。
「お前、ここのところ成績が落ちる一方だろ。ここで頑張らないと志望大学どころか滑り止めの大学までレベルを落とさないとならなくなるぞ」
「そんなことは無理です!」
 私には大いなる野望があるのだ。
「だったらもっと努力をしないとなあ、特に社会……」
 社会は丸暗記科目。大嫌いな科目が担任。最終学年で運が悪い。
 ため息をつきたくなってきた。担任の前なので耐えた。内申点まで落とせない。ああ、E判定。以前は常にA判定をキープしていたのにE判定。最低ランクだ。つまりは圏外ということだ。判定不能と同じだ。そんな馬鹿な。
 第一志望の大学進学の可能性が十五パーセントだなんて! ゼロというのは気の毒だから、とりあえずつけてあげた数字、みたいなものに近いじゃないか。偏差値はどれほど落ちたのか考えたくもなかった。
 E判定。その文字が脳裏に焼きついて離れなかった。この高校に入ってからは常にA判定しか見たことがなかったのに。
「お前はもともとできるのだから」
 担任の説教と言うか励ましというか忠告はまだ続いていたが、私の頭はそれどころではなかった。
 E判定だなんて! この私がここまで落ちるなんて! ありえん! ありえんがありえてしまった! 気が遠くなりそうだった。だめだ。このままでは本当に大学に落ちてしまう。


「だ・か・ら! どうして結婚の話がでてくるの!」
 茶の間で話し合っている父たちを無視して私と母のゴングは今、鳴り響いた。
「だってえ。結婚っていいわよ。愛し愛されている感じ?」
 バカ父もどうにかして欲しいが、服装だけでなく頭の中もふわふわしているだけの母もどうにかして欲しい。
「私はね、学歴が欲しいの! どうしてもなりたいものがあるの!」
「模試の結果がよくなかったのでしょう? 大して出来もしないくせに」
「失礼な。もっと勉強すれば、できるようになって見せます」
 私の希望大学は国公立の大学だ。うちの家計も私が管理しているのも同然なので、その家計簿を見る限りでは、私がバイトでもすれば私立の大学に行けない状態でもないだろうと思われるのに、両親共に高卒だし、それ以上の学歴は生きていくのに必要ないと考えている。“大卒”の学歴を取得すると、学歴で人や物事を判断して、何かの時にも学歴に頼るだけの人間になってしまう、そうでない大卒の人間に会ったことがない、らしい。
 両親の独断と偏見の価値観で私立受験は許してくれなかったので国公立が志望となった。それは、まあ、自分の希望でもあったので仕方がない。が、滑り止めも私立は駄目ってあんまりだ。
 両親の「そこまで勉強してどうするのだ」という意見と、「どうしても勉強をしたい」という私の意見が一致をすることはなかった。最近は話しあうのも疲れきり、実力で国公立大に行くことに決めた。
「茉莉。勉強をするより、好きな人のために生きた方がいいわよ」
「しつこいな。私はやるべきことがあるの。そのために死ぬほど勉強してきたの」
 大体からして私の成績が落ちはじめたのは母がバカ父と再婚した今年の春からだ。
 あの春は最悪だった。花粉症でもなかったのに、いきなり目も鼻も薬を呑んでもどうにもならないほどやられるようなひどいアレルギー症状になり、桜が例年になく咲かないほど天気が安定しない、と気象庁がニュースで騒ぎ、好きなお菓子ばかり食べていたらお腹を壊し……そんなことはどうでもよい。
 とにかく、母が再婚した途端、いきなり家族が五人に増えた。父、兄、姉と多すぎる。そのおかげで私の家事労働も増えた。両親は再婚と同時にこのマンションの一室を買ったのだが、どう考えてもこの人数で4LDKのアパート住まいは狭すぎる。その証拠にどの部屋もあらゆる家具と家電と束買いの品々で埋め尽くされている。
 父は仕事柄、年中出張をしていて、家にいない。何か抗議をしたくても帰ってくるのは毎度のごとく二週間に一度くらいだ。やっと父が帰ってきて文句を言っても、今日みたいにスキンシップと無意味な会話が増えて疲れさせられるだけだ。母は母でのんびりとした人で、ご近所で仲良くなった奥様方と何時間も時間などお構いなしに話し込んでいる。
 たまに両親が揃ったか、と思えば両親がべったりしてしまって、ろくに私の話に聞く耳を持たない。私の成績が落ちたのはこの家庭環境のせいだ! そう言っても過言ではない。
「そんなこと言ったって、あなた受からないでしょう」
 母の言葉にむっときた。自慢じゃないが私は短気だ。
「だったら予備校に行かせてよ。ここじゃあ、うるさくて集中ができない!」
 最近の予備校はすごい。冷暖房などの設備完備は当然のごとく、自習室にはパソコンがあり、インターネットも使い放題だし、二十四時間、その自習室で勉強可能というところまである。そのくらいやらないといまの私の状態では本当に間に合わない。E判定に落ちた成績をA判定まで上げなければならない。こんな狭くてうるさい家では夜ですら集中が出来ない。どんなことをしてでも私は大学に受からねばならないのだ。
「そんなこと言ったって。いいじゃない、結婚すれば。その後、大学進学を考えたら?」
「どうしてそうなるの! 私はストレートで大学に入りたいの! ちんたらなんかしていられないの」
「恋愛もろくにしたこともないくせに、偉そうなことを言わないの」
「失敬な。私だって恋愛のひとつやふたつしています! それに、それとこれとは関係がないでしょう!」
「そんなこと言っても、お母さんとしては茉莉に結婚して欲しいわ」
「娘の希望を打ち砕くようなことを言わないで!」
「あなたねえ……」
「おふたりとも落ち着いてください」
 私は、ん? と振り向いた。ツッキーが真後ろに立っていた。いい! その笑顔。まさに癒し系!
「どうかしました?」
 あっさりと外用の笑顔になって彼に話しかける。
「ね、君、回ってみてくれる?」
 え。まわる?
 ツッキーは私の肩をとって、半ば強引に押して私の身体を回した。
 私はその時の彼の視線を一生忘れないと思う。
 さっきとは打って変わった鋭い上目遣いの目つき、真面目でありながら読み取れない無表情に近い顔つき。私が回り終わっても、片手の上で肘をついて顎を押さえ、じっくりと上から下まで私の身体を眺めていた。なんか視線が怖くて文句をつけたくても動けない。
「あのう?」
 やっと声を発した。この人、ツッキーにそっくりなのはいいけれど、大丈夫だろうか。あのバカ父の知り合いだから……。
「いいですよ」
 いきなり彼はにっこりと笑顔になって私を抱きしめた。
「ちょっと、ツッキー」
「ツッキー?」
 彼の声と共に息が耳元にかかる。どきりとした。彼は私の顔を覗き込むように見て微笑んだ。その笑顔もいい! ああ、そうではない! なんでこの人、抱きしめているのよ?
 かなり強く引き寄せられて抱きしめられていた。う、思っていたより身体がやわらかい。
 力は強いのに、身体全体が優しい感じ。いくら別人でもツッキーそのものの人に抱きしめられるなんて、こんな機会はそうそうないかも。って、いいわけないでしょうが!
「ツッキー離して!」
 私の大声の抗議を彼は聞かずに家族の方を見ていた。
「いいですよ。僕が彼女をもらってあげます」
「はあ?」
 叫ぶ私、派手に拍手をする母、立ち上がる父、テレビに気をとられていた姉が振り向く。
「僕が彼女と結婚します」
 な、なにを言っているのですか、この人。
 彼の腕の中に彼より背が低い私はすっぽりと埋まってしまい、抵抗が出来ない。
「大丈夫。大学にくらいどこにでも行かせてあげるから」
 彼は私の顔をまた覗き込むように見て、微笑んで囁くような声で言いながらうなずいた。
 安心してね、とでもいうような彼の語りかけるような目に私は呟いた。
 いや、そういう問題ではない。

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