第四話 「黙れよ」
昨日に大変なことがあったって、何もなくたって、次の日は来るし、月日は巡る。
今日の予備校の授業が終わるチャイムも鳴る。
「小牧、具合でも悪いの?」
約束通り、直前講習の後、自習室で隣り合わせに座った真野君は聞いてくれた。
「……悪くはないと思う。のど飴を持って来たの」
反対側の椅子に置いたリュックのポケットから飴をひとつ出し、真野君の前に置いた。
「思うって、風邪かもしれないのだったら、早く帰って、病院に行って、寝た方が良いだろ」
黒ぶち眼鏡の奥から覗き込まれるように見られる。昨日のことを気にしていたの?
いくらお子様な私でも、あそこ止まりで具合が悪くならないことくらい知っています。
少女漫画の読み過ぎと言われそうだけど、今朝の鏡の中の自分に少し期待をしていたの。
でも、何の輝きも増していなかった。家族が揃う毎朝の食卓もいつも通りに過ぎて行った。私のなんらかの変化に気が付かれなかった。受験の悩みだろうとしか思われないの。
「病院に行くほどじゃないよ。マスクを忘れちゃったの。ごめんね」
喉の奥が少し痛い気がするけど、今朝からずっと隣の席の位置が落ち着かないだけです。
「変に気を使うな。うつるかもしれないとか思っていない」
テキストをイライラしたように捲っている。うつすな、なんて真野君が思わないよね。
「国大の二次試験対策を置いていいわけがないから、今日は暗記項目以外をやろう」
「分かった。でも、私、真野君と一緒に国大を受験すると決めたのだけど、家族に相談をしたら、当たって砕けて来いとなったから、横浜女子大を本気で狙うことにしたの」
視線を合わせて来た真野君の目が怖い。すごく真面目。昨日の流れは、夢のようだ。
「それで?」
「私はセンター試験を重視する勉強でいいの。横浜女子大もセンター利用の入試制度で両立をしやすいって、塾講師のお父さんのアドバイスも貰ったし、お母さんが女子校でもあなたはやって行けるわと言ってくれたし、他の女子大に比べて、学費は安めだし、塾の講師よりも、事務員向きだって、お爺ちゃんが決めてくれたの」
真っ直ぐに私に向けられている目に一気に喋った。
我が家のあらゆることの最終決定権は、常にお爺ちゃんにある。教師という職業がお前には向いていないから、夢見るだけでやめておけ、暗に言ってくれたのは分かっている。
お父さんが勧めた女子大と比べた結果、こっちを本命にするには、お母さんを味方につけて、学費の差で押すしかなかった。お祖母ちゃんは応援をしてくれるの。
「そうか……」
頷いて聞いてくれている。その隣に座る私。想像ができなかった。今も現実味がない。
具合を気にしてくれることなんて一度もなかった。この春、真野君が花壇に水やりをしていた時、私以外に誰もいなかったから、少し話せた。花粉症でくしゃみを連発していたのに、何も言われなかった。心配もしてくれない、迷惑だった? と思ったの。ちゃんと覚えている。それと一緒に記憶にあるのは、黄色くて可愛いお花のことではなく、せっかく勇気を出して裏庭まで行ったのに、鼻を噛もうと、校舎内に戻り、お手洗いに行った。たいして話せなかったことだけだ。
まだ私を見ている。何か聞きたそうだ。
「横浜女子大をいきなり言ったよね。知らないか。国大のお隣っていうほど近くないけど、記念公園を挟んでね、裏手にあるの。塾でバイトとか一緒に出来るといいね」
真野君が公務員を狙っているのは分かるけど、私の実力では無理だ。塾に務めるのなら、コネ就職を狙うことになりそうなのは、今から目に見えている。別々のキャンパスになっても、四年間も大学生活はあるから、バイトくらいは、私でも同じ場所で出来るかもしれない。
「小牧は……」
真っ直ぐにじっと私を見てくれる目を見返していた。どれもこれも三年間ではじめてだ。
「学費で親を説得するのって、腹黒いよね」
昨夜は部屋に籠り、真野君の真似をして、大学受験の案内や過去問題を比較検討してノートにまとめつつ、家族の動向を考えて朝食を迎えた。なんて計算高いのでしょう!
「そんなこと思っていない。小牧は、友だちと笑ってそんな話をしているのが似合う」
弱く笑って何度も頷いている。真野君が言いたいことが分かるようでよく分からない。
「どんな話?」
「うまく言えないけど、小牧は、人懐こくて。笑っている方がいい」
私の特技は、女友だちを作ることだと思っているの? そんな風では全くない。
女子たちの輪に入るのは、どちらかというと苦手な方だ。でも、私はチアバトン部に入り、真野君を応援したいと相談をして、コイバナというやつをみんなとしたら仲良くなれたの。
堂々と発言をして来たから、彼女と勘違いをされてもいたの。真野君は牧先生しか見ていなかったし、他の女生徒が真面目でそっけなくもある真野君にコイバナなんて持ちかけないのは分かっていたから、特に否定も肯定もせず、彼女のふりをして話し続けて来た。
学校では、勉強とバレー部と仲よしの市村君と話しているばかりの真野君と、いつかこんなデートをしたい、誕生日にはサプライズがあるといいな、二人きりになったらきっと、こんな風だ、そうしたら私は……、って、話して来た。
同じに体育館で練習をしている男子への片思いに悩む仲間たちは、えー、真野君はそんな風に見えない! きっとこうだよ、やあだ! って、お互いの想像を話し合って、クルクルと回す練習をせねばならないバトンで身体を叩き合い、コイバナを回して来た。
バレー部は、全国大会出場を目指して一生懸命に練習をしていた。その体育館の隅で、私たちは、特に何を目指してもいないゆるい部活動だったから、練習中に打ち合わせと称して自由に話し合い、笑いあっていた。
だから、真野君のお母さんの誤解、本当に勘違だった、としてもちっともおかしくないの。
チアバトン部に真野君と同じバス停で降りる子はいない。真野君と同じマンションに住んでいる子もいるはずがない。そこから出た噂なわけもない。
でも、真野君のコイバナの噂が立ったのは、私たちの会話からかもしれない。真野君はちっとも知らないけど、私にも少しは責任がある。牧先生ではなく、私が相手だったとお母さんに安心をして貰えるのなら、今は完全な嘘でもないのだし、私にとっては本望なの。
人懐こく、追いかけ続けていた私を煙たがっていても、好いてもくれていたの。
「……ありがとう」
真野君に心から言えた。
「うん」
息を吐くように返され、何か考えるようにしてシャーペンシルを握り、テキストに視線を落としている。勉強するための時間、丸暗記だけで勝負して受かるほど、どこの四年制大学も甘いわけがない。同じテキストのページを開く。でも、真野君は手を動かさないままだ。
やっぱり分からない。こんなに近くになったのに分からない。
昨日も今日も真野君はこんなに近くにいる。それなのに……。どうして、不安になるの?
自分が自分で分からない。今の私と真野君の間にあるこの変な空気は、受験のこととは別のはずだ。近くになると見えない。なおさら分からなくなるなんて分かれない。
私は、別の学校に進学することになっても、真野君を変わらず見つけられる。傍の学校の校舎内の窓から、木陰から、道端にいても、そのピンとした変わらない背中を見続けられたら幸せ。
両想いにまでなれなくても、クラスメイトとして話せる関係になれたから、私に気が付いてくれたら手を振れる。真野君は、少し迷惑そうに目を細めて、こっちを見返して、手を振り返してくれる。
こっちに歩いて来て何か話して欲しいなんて思っていない。その場からでいい。かんたんには気が付けないくらいにやさしく、真面目な真野君を、今と同じように見つめられたら、それだけで元気になれる。私は先のことでも言い切れる。真野君は変わってしまうの?
真野君は変わらないと決めつけていた。自分の都合でそう思っていただけだった。
私が真野君をすごく近くに感じられたのは……。
真野君も同じ気持ちだったからだ。
――牧先生、この時期にめでたすぎますね。
牧先生が担任になったこの一年間。自由に席を選べたから、教壇のすぐ前、教室の中央の席に座り続けて。牧先生にあんな風に気楽に話しかけるようになるまでには、私が真野君を裏庭まで追いかけて行った以上の気持ちが必要だった。喋らない真野君の、一生分の勇気だった。
絶対に……。
この三年間、私と真野君は、同級生という以外、何の接点もなかった。
三年生になって、クラスメイトになれたけど、それ以上の関係にはなれなかった。
だから自分から作った。こんな風に隣同士で勉強ができるのも、最初で最後の時間なの。
真野君に懐いている私、撫でてくれるだけでいいと待っている。消極的と思わないでね。
お願いだから……。私が夢見て来たような関係のままで、これからもいさせてね。
真野君を好きなままでいさせてくれないと、今のままの私でなんかいられないよ。