春に見た最後 (5)

第三話 - 2 頁


 真野君のマンションの前に着いた。腕時計を見る。約束通り午後一時。静かだ。
 バス通りにも曇りガラスの扉の向こうにも人影はない。セーラー服、本当に似合わないな。
 くもりガラス扉に薄く移った自分の姿を見て、はじめに嫌なことを思ってしまった。急いでいたし、真野君のお家に訪問だしって、他を何も考えられず、ルームウエアから制服に着替えて来てしまったけど、可愛いワンピースだって持っているのに。でも、勉強しに来るような恰好でなくなってしまう。
 前髪が跳ねている! 洗面所でブラッシングをしていた時に鏡をよく見て来たのに。気が付かなかった。いつも左肩の上でみつあみをしている長い髪は、校則の通り黒いゴムで留めているだけなのに、今日は花柄のシュシュをつけて、ピンクのリップグロスをつけて来ている。それだけでも悩んだ。
 真面目な真野君は、そんなことより、国大の去年の入学試験の問題を解くための勉強道具を忘れて来て欲しくないはずだ。受験生たるもの、そうあるべきだ。
 手のひらで抑えたくらいでは、言うことを聞いてくれない前髪を諦め、暗証番号を押して中に入るボタンの前に立って考える。お部屋の番号は聞いた。四階だって言っていた。その四ケタの番号が出て来ない。時間が過ぎ去る。
 真野君に電話をしよう。学校鞄のポケットから携帯電話を引っ張り出してかける。コール音を聞いているだけでドキドキした。今この瞬間に真野君も同時に聞いている私からの発信音だ。
「はい」
「あ、あの、小牧」
「分かっている。着いた? 今行く」
 緊張をして、どもってしまった。あっさり電話は切られた。真野君は、私がお部屋の番号など忘れることは分かっていたの。
 うれしくない。なんてことだ、と思っているうちに真野君が向こうから来て、ガラスの扉が開いた。
「おはよう。道に迷いまでしていない?」
 お家でも白いブラウスシャツに黒いズボンの制服の真野君。見慣れた恰好なのに、軽く微笑まれただけで心臓が鳴り響いて何も返せなくなった。気が付いた時には、後ろで自動ドアが閉まり、ピンとした姿勢で見下ろされていた。しばらくその瞳を見つめ続けてしまった。
「四階だというのは覚えていたの」
「続く番号を忘れたのだと思った。エレベーターはこっち」
 前にくるりと向きながらふっと笑われる。真野君の予想通りの私、少しうれしいかもしれないと思い直した。背中を追いかける距離もなく、一階にいたエレベーターに乗り込む。
 二人きり、何事もないどころか、会話もなく四階にポーンと着いた。
「どうぞ」
 すぐ傍のポーチになっている門を開けて振り返られる。でも、普通、カップルがエレベーターの中で今のように二人きりになったら、沈黙して見つめ合ったりするのではないでしょうか。
 自分が青春する屋上でキスして欲しいなんて誘っていないと言ったことを思い出した。
「お邪魔します」
 うん、と言われて玄関のドアを開けた真野君の後から中に入った。
「いらっしゃい!」
 お母さんの明るい声がする。今も真野君は、私を待っていてくれた。笑顔がこぼれた。

 真野君のお母さんは、ボブカットがよく似合う若々しい人だった。玄関で自己紹介をした私に「堅苦しいことはいいから」と遮ってスリッパを出し、賑やかに迎えてくれた。
「本当にねえ、こんな可愛い彼女との噂だったなら、早く紹介してくれれば良かったのに。小牧さんだったわね? うちは狭いけど、いつ遊びに来てくれてもいいからね」
 笑顔でそんなことを私に向かって言いながら、保冷バックに入れて来たお祖母ちゃん特製のプリンを手渡すと、嬉々として中身の四つのカップを取り出し、プラスチックのクリスマス柄を見て「女の子らしい」と容器を回して眺めて笑顔をくれた。あまりに親しげだったからすぐに笑顔を返せなかった。
 どういう噂ですか? お母さんの歓迎ぶりはどうも違うようだった。
 真野君はダイニングテーブルに置いてあった丸いお盆にグラスを二つ並べて、冷蔵庫から取り出したペットボトルからお茶をグラスに注ぎつつ、何か言いたげにお母さんの笑顔を見ていた。
「冷蔵庫に残りのプリンは入れさせて貰っておくわね。私も仕事から帰ったら頂くわ」
 笑顔に笑顔で返した。何人家族なのか聞いていなかったから、あまりを全部持って来た。
「母さん、俺と小牧は……」
「細かいことはいいの! 私、もう時間なのよ」
 真野君が何か言いかけたのに、手をパンと叩いて話題を遮り、私にくるりと向き直った。
「小牧さん、うちは母子家庭だからね、私がそこの総合病院で看護師をして稼いでいるの。今日は遅番だから、これから出勤なの。息子が何か困らせたら相談をしてね」
 小柄な私に合わせて屈んで満面の笑顔を向けられた。母子家庭、看護師、真野君が私を困らせることなんかない、頭の中ではいろんな言葉が駆け回っていたけど、何も返せなかった。
 頷き返すと、重そうな鞄を肩から下げて忙しく出かけて行った。
「烏龍茶で良かった?」
「何でもいいよ」
 真野君は頷きながら、お母さんが二つ出して行ったスプーンとプリンもお盆に載せた。
 その後ろの食器棚に真野君がランドセルを背負っている写真盾が飾ってあるのが見えた。
 入学式、という大きな文字の前でご両親に挟まれてカメラに向かって笑っている。
「プリン四個も持って来てごめんね」
 真野君とお母さんが二人暮らしだと知っていたら三個にしたのに。私は、てっきり家族三人で暮らしているものだと決めつけていた。よく考えたら、真野君は家族の話をしない。
「気にすることない。俺が食べられる。うちのマンション、学校の奴らもいるから……」
 真野君らしくなく視線をすっとそらし、言葉を濁して、お盆を持って歩いて行く。
 ――母さんが見かけたから心配していて。
 その丸めた背中を見て分かった。お母さんは、牧先生と真野君のご近所の噂を、小牧という一文字違いの私と自分の息子との噂話だったと聞き間違えた、周りの勘違いだった、良かった、と思ったの、ということを……。早くそう言ってくれれば、お母さんは、心配しなかったの。
 私がマンション前の喫茶店で真野君と向き合って座り、泣いているのを見かけたから、何かあったのかと心配したのではなかったの。担任の女性教師と自分の息子との噂に対して心配をしていたの。だから、昨日、喫茶店で一緒にいた子は誰なの? となったの。
 そんな……。真野君の恋愛事の噂なんか聞いたこともないのに。同じクラスの教室にいる私が気付かないってある? 真野君は牧先生の目の前の席に座っているし、この前も自然におめでたいと話していたばかりだ。
 結婚をする前のことなの? 私たちが高校一年生の頃、牧先生は独身だった。でも、それだったら、牧先生のクラスの生徒にならないのではないの?
 マンション内だけのことなの? そんな噂が立てられたら、ものすごく嫌だったに決まっている。お母さんはそんなこと……。品行方正で絶対に家族思いのやさしい真野君に聞けないに決まっている。噂の牧先生が担任になったら心配もしていただろう。
「私が彼女でいいよ」
 真野君の背中に呟いた。私、何も聞かないし、余計なこと、絶対に誰にも言わない。
 その代わり、クリスマス柄のカップに詰めたプリンは、私が作って来たと騙されてね。
「小牧、俺の部屋こっちだから」
 ダイニングテーブルの傍で立っていたままの私に真野君は振り向いた。
 玄関から入ってすぐのリビングからはどう見ても、ドアが二つしかなかった。

 真野君のお部屋で出された座布団に座り、長方形のテーブルに隣同士に並んだ。
プリンはさっきうちで食べて来たと言えず、烏龍茶が入ったグラスと前に置かれ、真野君が銀のスプーンとプリンのカップを手渡して来て、視線に促されるまま一緒に食べ始めた。
 少し動けば、腕と腕が振れる距離でうつむいたまま真野君はプリンを食べていた。表情は見えなかった。お母さんには、私が噂の彼女だということにしておいていいよ、と投げかけた言葉は、私に背中を向けていたから聞こえなかったのではなく、聞かなかったことにされたと分かっている。
 なにを話していいのか分からなかったから、なにも話さなかった。沈黙に耐えらず、部屋のあちこちを眺めていた。私の部屋と広さが変わらないから四畳半くらいか。真野君らしく整っている。私らしい部屋とは、真野君に言わせたら散らかっていそう……。
「うまいよ」
 隣から小さい声で呟かれた。やっと私は真野君の顔を見られた。
 ゆるく笑んだ真野君がものすごく近くて、息が顔にかかって、やっぱり何も言えなかった。
「勉強をしよう。俺は昨晩のうちに過去問はざっと解いてみた。小牧はどうせ一問も解いて来ていないのだろ。英語から」
 黒ぶち眼鏡をかけ直し、床に積んであった辞書や参考書の山をテーブルの上にどっさりと移動した時には、いつもの真野君に戻っていた。ホッとして問題を解き出した。
「ここの最後のスペル、aでなくて、e。aとeが紛らわしい? 文系って本当?」
 ルーズリーフ用紙に隣からシャーペンシルで書き込まれる。まるで家庭教師みたい。
「でも、私は英語が一番得意なの」
「前もそう言っていたけど、学校のテストの点数からの判断だろ。文系じゃないと思う。どう見ていても数学や物理の計算を解く方が早いし、回答も正しい。理系の科目に力を入れた方がいい」
 なんてことだ。今更、理系だと言われても、丸暗記するもの以外、捨てて来たのも同然だ。
 真野君とのこんな場面を想像して、バレー部の応援をしたり、片思いの友だち同士で話したり、恋愛の小説やCDを貸し借りしたりして楽しんで来たのに、全く実感がない。過去問を解いていても長たらしい文章読解が頭に入って来ず、計算をする方が楽だった。集中が出来ない。
 なにせ真野君の部屋の中は、リビングから入って来たドアの向かいに洋服掛けがあり、中央にブルーのラグを敷いて、このテーブルがおいてある。テーブルの向かいの壁側にはずらりと本棚が並び、後ろに出窓から陽が差し込んでいるベッドがある。移動スペースがないし、色んな本やCDは並んでいても、遊びが全くないのだ。
「聞いている?」
「どう見ていてもと言われても」
 睨んで来ないで欲しい。そんなに私のことを見てくれていないでしょう。
「単語帳を作っていただろ。どこで見返している? その時間に英文を読み上げる方が覚えられる」
 え? それっていつ見たの? いつだって真野君は私の前にいたよ。
「私が牧先生に授業であてられた時に見たの?」
 あれもやめて欲しい、なんて思わなくても、もうその機会もないかもしれない……。
「真野君、ごめん。単語帳の話をしていたから。深い意味はないよ」
 シャーペンで英単語をノートに書き込んだ体制でじっと私の目を見て固まっていたから、牧先生の名前を出したことに気が付いた。この話はさっさとやめよう。
「あの黄色いお花、可愛いね。なんていうの?」
 私は後ろを振り返り、出窓の縁(ふち)に置いてある小さい鉢植えを見て聞いた。この部屋に入って来た時、はじめに目についた。唯一の遊びだ。
「ユーリオプスデイジ。前に好きだと言っていた」
 誰が? 真っ直ぐに見つめられる。今、私が真野君にそう言われて見つめられている。
「お前、花壇のこの花を見て、可愛いと言っていた」
 あれは……。学校の裏庭にある花壇の水やり係をしていた時の真野君を見に行っていたの。黄色のお花は、今も可愛いと思ったから、そう言ったのだろうけど、覚えていない。私たちが一緒にいても、覚えていることは同じじゃない。
「可愛いと好きは違うよ」
「そうかもしれないけど。うち日当たりがいいマンションではないから、育てるのが大変だった」
 え? でも、あれって、いつ?
「春のお花ではないの?」
 真野君がいつから花壇の水やりの係をしていたのか知らないけど、クラスの係の仕事だ。
 同じクラスになる前は、自己紹介しあって貰っただけの真野君を追いかけてまでいない。チアバトン部員として、バレー部レギュラーの真野君を応援していただけなの。体育館を一緒に使っている仲間でしかなかった。
 高校三年生まで私と真野君の接点は、部活が放課後に行われていた週二回の体育館だけだった。うちのバレー部は強くなくて、外での試合は年に二、三回かしかなかった。でも、真野君はボールを最後まで拾い続けた。負け試合だと分かっていても全力を尽くす姿にも惹かれたの。
「ううん。まだ春にも咲いていたけど、冬の花。咲いた」
 ムッとした顔を向けられる。もしかして、それを私に見せたかったの? 咲いたよって?
「あ、春に咲いていたけど、今の時期から咲くお花だからね。そう言ってくれたら、すぐに思い出したのに」
「誰が!」
 シャーペンシルの芯をボキリとやり、照れている。真野君が可愛い。斜めに見つめられる。
「らしいよな。何も聞かないの。ありがとう」
 角度を変えて、真面目に言われる。お前らしくないことを言うな、お父さんも怒っていた。
 私らしいとは、どういう風なのか自分でよく分からないけど、今すごく褒められた。
 太陽の光が眩しい。目を細めると、真野君は立ち上がり、カーテンを閉めてくれた。部屋が薄暗くなる。真野君が電球から下がった明かりを調整する紐を引っ張る前に呟いた。
「真野君とキスしたい」
 私だけを見下ろしてくれている真っ直ぐな目。好きです。付き合って下さい。そんな告白まで出来ない。でも、頬にキスをしてくれたし、今も一緒にいてくれるから言えた。
 上を見ていた視線を落とされ、元のように隣に座ると、真野君の手のひらが頬に振れた。
 真面目過ぎる真野君の表情に息も出来ないし、声も出せない。心臓が跳ねて壊れる。
 髪に指先で触れられ、頬を手のひらでくるまれ、その反対側の頬にまた軽くキスをされる。
 間近で視線を受け止められずに目を閉じた。指先を髪の毛に絡めるようにして頭を引き寄せられ、唇が重なった。やわらかい唇と生ぬるい息を感じる。心臓が痛くなるほど音を立てた。唇を離しておでこ同士をくっつけられ、薄暗い中で目があった。
 ふう、と真野君が中腰になり、温かい息がまつ毛にかかる。角度を変えて唇を落とされる。変な声が出そうになった。背中をもう片方の手で抱きしめられた。
 頭を撫でられながら、上から強く押しつけられた。二度目のキスは、ものすごく長く感じた。
 顔が離れ、息を吐いた。軽く笑われたのが分かる。息を止めてキスをする子供でした。
「寝る?」
「え?」
 真野君は何も返さず、私の両脇をグイっと抱え上げられると、ベッドの上に座らせた。
「俺は小牧と一緒に眠りたい」
 身体を引き寄せられたまま耳元で低く言われる。横向きに倒れそう。そうした方がいいの? 顔をあげられない。
「寝たい」
 低くかすれた声にドキリとする。顔をあげようとしたら、頬にキスを落とされた。

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