春に見た最後 (4)

第三話 寝る?


 幸せもつかの間の昨日。恋愛事は古今東西、そう決まっている今日だ。
「人の話を聞いている?」
「いいえ。先生、めげそうなのでやめてください」
 聞いていません。塾の講師になる、という夢は出来た。お説教をされても目指すの。
「いいえ、ではない」
「喜んであげればいいのに。お父さんたちと同じ教員を目指す夢は決めたのだよ」
 隣で言ってくれたお姉ちゃんに頷く。私だって、そうか! と笑顔を貰う予定だった。
「夢というのは、決めるものじゃない。塾の教師も生徒の精神への影響力を一番に考えないと」
「なにが言いたいのか分からない」
 目をつぶり両腕を組んで話を聞いていたお爺ちゃんが一括する。
「私は教師についてよく考えている。担任の牧先生は、おめでたでお腹が大きいから卒業式まで来ないの。昨日なんか学校に旦那さんが車で迎えに来ていた。嫌いになった」
 お父さんが口を開いたのと同時に言った。真野君には言えないけど、心底嫌いになった。
 また泣きたくなってきた。真野君、思い出しているのではないのかな。黒塗りの高級車。
 私には見せてくれなかった、旦那さんに手を引かれて歩いて行く牧先生の女の顔。
「らしくことを言い出すな。そういうことを言ったけど、お前がそうなると言っていない」
 お父さんにため息をつかれる。私らしいとは、どういう風ですか? チクらない良い娘でいることですか。今、そこまで言うのは、得策でないと頭の中で考えていることですか。
「でも、嫌いになった」
「変なところで区切るな! お父さんだって傷つく。教師も人間!」
 お茶をすすっているお父さんを睨みつけた。今の今、教師たる者、生徒たちのことを一番に考えるべきなのは、学校教員だけでなく、塾講師でも同じだ、思い付きの夢でなってくれなと言っていました。でも、分かって貰わないと困る。家族に反対されてまで無謀な大学も教員も目指せない。今日、ちゃんと言って、過去問題集に取り組むと決めたの。
「聞いて下さい。一昨日、予備校で申し込んで来ました。外語大を第一志望にして、滑り止めに横浜女子大を受けます。国大は記念受験と思って受けます。受験費用は自分で持つし、教育学部に受かってから教員への進路はよく考えるので応援をして下さい。大学生になったら、土日はバイトをしてお小遣いを稼ぎます。どこに受かっても学費だけでなくて、授業に必要なお金はどうか全て出して下さい」
 頭を下げる。ちゃんとこう言うべきだったの。真野君はお金のことまで考えた夢なの。
「いつお父さんがお金の話をしたの?」
 分かりません。でも、家族が揃う朝の食卓でその話題も出でない我が家は、決して裕福とまで言えないけど、幸せだと思うべきだ。
「お金のことは、あまり考えていなかったの。贅沢をさせて貰って来ました」
「子供が悩むことではない。部活で仲いい子たちとは進路が分かれるのだった?」
 頷き返すと、そうかと息を吐いて呟いている。
 お父さん。私はそのことで悩んでいるのではないの。佳代ちゃんたちとは、学校が変わっても友だちなの。たまにしか会うことが出来なくなっても、次の約束なんかしなくても、夏休みや冬休みに会えるの。電話やメールでも繋がれるの。でも、真野君は違うの。同じ大学に行かれなかったら……。どうなるのか考えたくない。唇をかみしめる。また荒れている。
 今考えることはない。帰宅報告のメールの返事はすぐにくれた。真野君らしい二行しかないそっけないメールだったけど、予備校に何を着ていくのか聞いたら、制服で行くとまた返事をしてくれたの。
 これからはメールで繋がれる。すごくうれしかったの。もう少しだけこの恋を頑張るとも決めたの。
「ダメなの?」
「いや。自分で決めたのだから簡単に諦めるな。私大は第一志望と滑り止めは申し込んだのなら、その間のレベルの大学も受けるべきだ。国大は、当たって砕ける覚悟があるなら受けて悪いと言っていない。センター試験を突破すれば、運もあるのだから、お前の頑張り次第で可能性はある。勉強をし続けた時間は裏切らないから。東京女子大は?」
 え。国大の傍の大学に受かると言って貰えませんか。どこから出て来たのですか?
「そっちの方が横浜女子大より難しいと思う」
「試験日程がかぶらなければ、受ければいい。教育学部は、こっちの方が断然に歴史があるし、就職率が高い。良い教師陣が揃っている。学校の偏差値が高くなる理由はあるから」
 予備校で買って来た首都圏の大学案内の分厚い案内書を捲っている。
「妹が四年制大学に行くのだったら、私は語学系の専門学校に進学をしてもいい?」
 お姉ちゃんの主張はよく分からない。家政学部は就職率が厳しいのは分かった。
「今は私が話しているの。朝からリクルートスーツなのもプレッシャーになるから遠慮して欲しい」
「ムカ! 短大生は、一年生の今から就職活動を始めたって、早い方じゃないのだよ」
「今時、ムカっていうひとをひさしぶりに見ました」
「ここにいます! このままだと派遣社員が決定する。バイトと両立をしてもいいから、そうさせてください」
「お姉ちゃん、高額な学費に対するバイトの提案は私のものです。私はひさしぶりに見たと言ったのだから、ここにいますという回答はおかしいです」
 真野君だったらこう言う。その前に“解答”と“回答”の違いは分かっている? この場合はどっち? と聞いて、辞書を引くより分かりやすく教えてもくれる。
「直前講習だけでどうにかしようという人が何を言うの。国大は、偏差値六十五越えだよ!」
 テーブルの上にバンと手のひらを叩きつけている。
「やめて!」
 お姉ちゃんが手のひらで叩いたパンフレットを胸の前で握りしめる。これは真野君が千円以上も出して、私のために予備校で買って来てくれたの。真野君が授業に出た後、私は受付に残って直前講習だけでなく、大学入試そのものも申し込んでいたし、ガイド本も買って来たのに。まだ先の申し込みで間に合う国大のパンフレットや過去問題は買ってこなかった。学校の側のバス停で夜に家族に話してから決めると、私が言っていたのを覚えていてくれたから、まだ買っていないし、必要だろうと考えてくれたの。真野君から私へのはじめての贈り物なの。
「ケンカをしないの。プリンをたくさん作ったから食べてねえ」
「なぜですか」
 お姉ちゃんの疑問が分からない。お祖母ちゃんは、たくさん作って悪かったの。私がバカなのが悪いの。学校の成績だけは良いとも言えない。脳みそが足りないの。きっとそうなの。
「お祖母ちゃん、昨日、暇だったから」
「勝手に決めるな。父親が思い詰めさせたら違うだろ」
「親父はすぐ子供たちの見方をするから」
 お爺ちゃんは、孫たちの見方というより、孫たちの見方をいつもしてくれるお祖母ちゃんの見方だ。
「うちって何坪ある? お爺ちゃんが家主だよね」
 私は自分の家のことを知らなすぎたので、疑問に思ったことをここで聞いておくことにした。
「そうだ」
「家はお父さんとお母さんが建てたのよ」
 お母さんがぬっとカウンター越しに頭を出して喋っている。いきなり話しかけられてビックリした。
「存在感がない。いつ外から帰って来たの?」
 お姉ちゃんに頷く。お母さんは対面式キッチンカウンター内にいることすら忘れそう。
「失礼よ。ゴミを出して来ると言ったわよ」
 変な親、似たもの家族。やさしい顔で笑っていた。うちはいつもこんな風だ。私らしい?
 真野君がこの光景を見たら楽しそうだと笑うのかな。それってどういうことなの? 真野君は、お家で楽しくないの? 喫茶店の向かいの真野君のお家があるマンションは、古いかもしれないけど、五階建てくらいのレンガ色で木が周りに植わったお洒落な建物だった。
「なにの話だった?」
 お爺ちゃんが聞いて来る。どこまで話したのか、私が忘れそうです。
「存在感の話をしていたの」
「そうだよ。お母さんもお願いします。妹が四年制大学を出るのに、姉は短大卒というのもないと思うので、語学系の専門学校に行かせてください。観光会社の窓口担当になりたいのです」
 え? そんな夢、今はじめて聞いた。随分と具体的だな。その派遣員にはなれそうなのか。
「短大の家政学部に関係がないでしょう」
 テーブルの下の太腿(ふともも)をぶたれる。姉を敵に回して良いことはないと思うのも、私らしさですね?
「違う! 我が家は三十坪程度だ。登記上は俺と妻の所有権だ。そのくらいは覚えておいてくれる?」
 お父さんは急に何を叫んでいるのだろう?
「今ねえ、プリンを出すからねえ」
「分かった」
 お爺ちゃんに頷かれる。家族同士でケンカをして欲しくないから、お祖母ちゃんはプリンをたくさん作ってくれるの。
「素直なのは、お前の良いところだ」
 お父さんに真っ直ぐ褒められて泣きそうになる私は、重症だと思う。
 バイブを感じてルームウエアのズボンのポケットからキティちゃんのストラップを引っ張った。あ、真野君。
「食事の間は、携帯電話を切っておけといつも言っているだろ」
 いいえ、真野君からの連絡なら、なにを置いてでも出ます。
 お父さんに頷き返しながら、ガラケーで我慢しているでしょうと思いつつ廊下に出る。
「その決まりで就職活動も苦労しているの! だから……」
 お姉ちゃんの声がガラス扉を閉めても追って来た。
「だからってなに? お小遣いをためてスマホを買って悪いとまで誰も言っていない」
「食事の間だからって電話を切れないと言っているの! 私はね、どうしても正社員になりたいの」
 お姉ちゃんはお父さんの言葉を遮り、進路の交渉を頑張って続けている。廊下の端まで来て、携帯電話の電波が三本立ったのを確認する。
「はい!」
「真野だけど。今平気?」
「うん。食べ終わったところ」
 廊下に出ても、うちの家族が言い合っている声が聞こえるのに、真野君の後ろは静かだ。
「朝食? 遅い」
 気だるげな声。電話越しに聞こえる真野君の声は、学校で聞くよりかすれている。
「お茶を飲んでいたの。昨日はごちそうさまでした」
「ううん。母さんが見かけたから心配していて。予備校の話をしたのだけど」
 なんですと。マンションの向かいの窓際の席にいれば、見かける可能性もありました。
「はい。予備校に一緒に行く相談をして泣いただけです。ごめんなさい」
 真野君のように背筋をピンと伸ばした。よく考えなくても、私が泣いていたせいだ。
「謝ることないけど。今日、過去問題で勉強をすると話していただろ。うちに来ない?」
 全体が止まった。――うちにこない?
「行く」
 なにかを考える前にそう返していた。

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