ダイヤル10-X (2)

2. ダイヤル10まで


 それから。二人で出かけるまでに十回の電話のやりとりがあった。
知り合った日の夜に学生寮からメールをした。週末、暇? 番号ちょうだい? と電話にすぐに切り替わった。
 お互いまだ内定を貰えていない就職活動の苦労話に始まり、住んでいる所やよく行くお店の話。好きな食べ物や嫌いなもの。趣味や特技。私から電話を掛ける時もあったし、彼からくれることもあった。週末に会うというのに、私たちは何度も連絡を取り合い、色んなことを話した。時間を忘れた。
 週末の土曜日、クローゼットをひっくり返した。悩みに悩んで花柄のワンピースに決め、肩までの髪を無理やりにポニーテールにしてバレッタで留め、新しく買ったカゴバックを持ち、就職活動ではリクルートスーツにパンプスを合わせるばかりで、箱から出すのも忘れていた華奢なデザインのサンダルをおろし、自宅から駅までの道のりを落ち着かない気持ちで歩いた。時間通りになんとか着いた。
 彼はじめて会った時と変わらない格好で横浜高島屋前に立って待っていた。ジーンズにポロシャツにリュックというラフな格好の彼を見つけただけで“らしい”と笑みがこぼれた。
 彼は目が合った途端、顔全体で大きく笑い、手を伸ばして、ぶんぶんと振って出迎えてくれた。
 お礼の奢りの居酒屋まで、自然に手を取られて並んで歩いて行った。それだけで心が弾んだ。今でもよく覚えている。
 飲み放題の時間はあっという間に過ぎ去った。まだ飲める? 歌いに行く? カラオケボックスに寄って、同じに好きだった歌手の曲を競うように歌い合って、終電がなくなるとラブホテルに入って、私は真夏の夜、彼にあつく抱かれた。
 後先を特に考えていない、学生カップルのお決まりのようなコースのはじまり方だったけど、うれしいことだらけだった。
 大学卒業後、彼はチャリで通えるという距離の母校に勤めたから、ご両親と妹さんがいる実家住まいのままだ。
 夜じゃないと落ち着ついて連絡は取れなかった。夕方に連絡をしても、すぐに返信が彼から来ないし、ご家族と食事や会話をしている時に私からの電話をとるってどうなの? 自分の部屋にいる夜の方がいいと思ってメールを出しても、“おやすみ”というタイトルの変更だけの返信って。読んだよって言いたいのは分かるけど……。
 感じが悪い。私だって働いているし、悩んでいるのに。
 もてるのだろう彼は、地味でもてたことなど一度もない私を理解しない。コンプレックスだらけだった見知らぬ私にせっかく声をかけてくれたのに。コピー機のお礼の居酒屋からラブホテルにまで行っちゃって。彼に求められて抱かれて。はじめて男の人と付き合うことになったのに。私は細かいことばかり、携帯電話のやりとりやそのメールの返事の内容なんかをごちゃごちゃと悩んでいる。そんな自分が嫌いだ。
 私は、その年の秋、彼がお礼の居酒屋として選んだお店のホールスタッフとして勤めると決めた。小学校の教員の内定を既に貰っていた彼は、そのことを大学の帰り道で話した時、ひどく喜んだ。
 横浜西口のどこに店があったのか覚えていなさそうだったのに、って。
 彼がお礼だから気にしないでって、レジの前に立って、百円玉の貸しと三千円程度の奢りでは採算が全く合わない精算をしてくれていた時、お店のポケットティッシュをカゴから貰って来ただけなのに。自分たちがはじめに一緒に行った場所、自分がお礼のために予約をして選んだ人気の居酒屋、そこに最終の就職活動をして内定を貰ったのに、特にそんな売り込みをしない私に彼は微笑んで長いこと抱きしめた。うれしい、かわいいと何度も耳元であつい息を吹きかけながら、くすぐったく呟き続けていた。
 ただ、ポケットティッシュの裏側に“当店舗勤務の新卒正社員募集!”という広告の紙が入っていただけのことだった。そういうかわいい理由から就職先を選んだわけでもなくて、ハロウィンで街が飾られ始め、もう後がなかっただけなのに。そんなにかわいい理由じゃないよって、否定をしても、彼はいいの、って、私の口真似をして更に喜んでいるだけだった。
 なにがいいの? なんか騙されやすそうな人だった。こういう人のことを言うのだな、と思った。
 そのなんか騙されやすそうな人に、電話やメールをするたび、会うたび、抱かれるたび。一回目、二回目、三回目と会うよりも、電話をするよりも、早いスピードで惹かれていったのは私の方だった。
 どうすれば、ああいう、感じがよさそう、って一見して分かる人になれるのだろう。
 彼は明らかに今時の都会的な外見をしているのに。私なんかはじめの印象が悪い、第一印象で不採用、年中言われるくらいなのに。
 覚えきった彼へのダイヤルを押す指先が。携帯電話で彼の名を選び出す目が。誰を呼び出すよりも早くなるのは時間の問題を越えていた。ものすごいスピードで恋しくなっていったのと同じように、連絡を取ろうとする一回のスピードも比例して早くなっていった。

 明け方のモーニングコール。深夜に交わすメール。いつも続いている。予約投稿でなく、朝にベッドの中で本当に打っていると言い張る彼は、“おはよう”とタイトルと本文も同じだ。夜は“おやすみ”とタイトルを変えたメールの返信だけでも返して。
 教員の彼は、行事がない限り日曜日が固定休だし、祝日がお休みだ。普通に暮らしている。私が平日に連続して固定休だし、夜型勤務なのが悪いのだ。でも、まだ一年目で、イレギュラーのシフトを嘆いていたら、仕事や他の従業員の先輩たちに慣れることも出来ない。厨房内のスタッフは、特に厳しい。彼にだって似たような職場の人間関係の衝突や悩みはあるだろうし、新人はこき使われて疲れているに決まっている。だから、彼を責めたくはなかった。
 私がひとりで居酒屋から帰宅する明け方の道から、彼の携帯電話に毎日かけた。
 毎朝六時に起きるはずの彼が出ない時は、要件を留守番電話に残した。特別なことじゃない。今度のデートの日の希望とか、ただのおやすみを伝える挨拶だ。面倒な奴に聞こえないように話した。
 今日は一杯だけ職場で飲んで帰って来た、賄い飯はどんな風だった、今日も暑かったね、身体を壊さないでね、とか最後に加えるのを欠かさなかった。酔っぱらってでもいるかのように明るい声で電話を切った。事前に頭の中で作り上げた通りに留守番電話にメッセージを残せるように簡単な言い回しを考えて入れておいた。
 彼は電話やメールの応対に対して、いい加減な面がある割には律儀なところがあって、私が寝ただろう朝方の時間帯になら携帯電話の方ではなく、パソコンにメールを長い文面で送ってくれた。うれしい反面、ムカついた。
 彼はどんな時であっても必ず返事をしてくれる。タイトルを書き換えて返信をするだけでも、“読んだ”と返事をくれる。小学校の頃のことなど忘れ去った私は、教職員の仕事内容を分かっているようでも、分かってはいなかった。後でそんなに忙しかったのなら、パソコンにメールまでしてくれなくてよかったのに、と言っても、携帯電話のボタンを押すよりは、キーボード操作の方が十倍も楽であり、早起きは得意だからと笑って言っていた。今も時間が遅くなれば、パソコンにメールを送ってくれる。
 彼は、私が気にしている十分の一程度しか携帯電話やパソコンのメールのやりとりを重視してはいなかった。それは、私が特別だったからとか、返事を書くならパソコンのメールの方がいいからとか、来週には会う私にメールの本文を書くまでもないと思うから、というようなわけではない。彼はみんなに対してそういう風に接している人なのだ。私が気にすると分かっているし、彼だって実家だから気楽だと言いつつ、小学校の新米教師として大変なのだし、こんなに私自身が気にしていないとも思っているから、そうやっているだけなのだ。
 私は、そんな風に人と丁寧に付き合う、なんか騙されやすそうな、神経質な性格の彼を好きになっていった。

 必ず返事をくれる人にメールを送るのはいいものだ。
 電話をかければ、必ず反応をくれる。そんな人が自分の近くにいてくれるのはしあわせなことだ。その相手が自分の好きな男性だったなら、なおさら素敵なことだ。
 でも……。
 私はこの理想的な恋がつらくなってきてしまった。
 必ず、彼から返事は来るけど、いつくるのか分からない。そのメールを待っている時間。電話が鳴るその瞬間。かかってきた相手の名前を確認するまでのコンマ一秒。
 誰にでも優しい彼の、私を好きだって言ってくれる彼の、その差がどうしても見えなくなった。
 自分の気持ちをどこまでぶつけていいのか、分からなかった。
“いつでも電話してきていいからね”
 彼は、きっといろんな人にそんなことを言っている。
 私が深夜に電話をしたら、起きている限り必ず出てくれる。どうしたの? と囁くように柔かく聞いてくれる。
 深夜に電話なんかしたことは、数回しかないけど、いつも通りの彼の様子をすぐに想像できる。
 彼は電話をとってベッドから起き上がり、勉強机の椅子を引いて腰掛ける。この部屋には出窓しかないというスペースに肘でもつきながら、暗くなった家の前の通りをなにか考えるまでもなく眺め、だからどうしたよ、って、沈黙にも笑っている。机に投げ出された文房具をいじりながら待ち、相手の話に耳を傾ける。
 きっと何時間でも。
 なんか騙されやすそうな人だな、って。だけど、みんなそんな彼のことが好きなの。そこに惹かれる。無意識に視線が彼に集まる。輪の中心にいる。穏やかに笑いかけて相手が話し出すのを待っていてくれる。
 私はそういう彼が好きなのだ。自分の大切な人たちみんなに誠意を送る。そんな彼がすごく愛しい。
 だけど、私には自信がない。私が彼にとって彼のなかのどの位置にいるのか。
“どんなに長いメールでも送って来ていいからね”
 そんなことを言う彼に私は負担にならない?
 ねえ、聞いてくれる? いつでもいいって、必ずって。それって、自分を好きになれない私には返って怖いよ。
 そんな風に私を受け入れないで。たまには否定をして。
 君はわがままだよ、って。お前にばっかりそんなにかまっていられないよ、って。
 そう言って私を困らせてみて。
 俺のほうがつらい、って言って。なぜいつもそうなのだ、って、私に電話をかけてきて。
 私だってあなたと同じだよ? いつだって電話を待っているよ?
 どんなに長いメールでもいいよ。朝一番に読むよ。こんなにメールが長いの? って、私を困らせてみてよ。
 ねえ、優しくして貰ってばっかりじゃ不安だよ。私もあなたを受け入れたいの。

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