ダイヤル10-X (1)

パズル

1. 一年後の待ち合わせ
2. ダイアル10まで
3. ファイナルコール (あとがき)

1. 一年後の待ち合わせ


 喫茶店の中にいても、周りに座っている人たちのにぎやかな音が耳に入ってこなかった。頼んだカフェラテは、ひとくち口に含んだだけで手をつけていない。
 ずっと携帯電話を握り締めていた。最寄り駅直結の喫茶店の中は、人の出入りが激しくてドアが開け閉めされ、クーラーも効いていないくらいに感じる温度だった。思考はそのあつさにやられたかのようにストップしているのに、ホットのカフェオレをすすりながら飲んでいる自分を自分で滑稽に思っていた。
 ルルルルルル。聞き慣れた機械的な着信音に右手の中の携帯電話を見る。画面は時刻を表示しているだけだった。
 あ、そっか。バイブのモードにしていたのだったな……。今日は連絡が来そうもないな。
 ゆっくりと顔を上げて斜め前のテーブルを見つめる。長い髪の毛をかき上げながら携帯電話を耳に当て、嬉しそうに笑って話している女の子が目に入った。
 大学生か。楽しそうだな。
 学生という職業は幸せそうに見えることとあまり関係がないか。でも、自分も大学生の頃はあんな風だった気がする。私は目を閉じて大きくため息をついた。あつい。もう夏だ。もうすぐで彼と付き合って一年になる。
 ――もう終わりにしてしまいたい。
 いつも彼からのなんらかのメールや電話に振り回されているのは私の方だった。
 几帳面さに欠ける彼とは、連絡をするまめさと、返信への時間的な感覚や価値観が合わない。携帯電話からのメールのレスポンスはすぐに来てみたり、今日は電話が出来ない日らしいな、もう寝るか、と立ち上がり、お風呂に入ってパジャマに着替えようと動き出した頃になって、時間が出来たと電話を掛けて来てみたり、待っていたメールのタイトルだけ“おやすみ”と変えて来たり、色々だった。でも、なんからの返事は届いているから、不満を彼にうまく伝えられず、自分の中に溜まっていくだけだった。
 彼はいつも忙しい人だったから、連絡が思うように取れないことが多かった。
 接客業の私と教職員の彼の勤務形態は、全く違っていたから、ろくに電話も出来ず、メールが主になった。
 メールの返信や留守番電話へのレスポンスは、出来る限り早く丁寧にして欲しい、なんて彼に言えなかった。
 彼にとっては些細すぎるどうでもいい不満なのはわかっている。でも、そうしてくれないと不安になるなんて言って、そんな君を好きになったわけじゃない、嫌いだ、なんて間違っても言われたくはなかった。彼が好きになってくれた私は、人にとても親切な女性なのだ。


 出会いは大学四年生の夏。就職活動時期。学校の就職センター内だった。
 私たちは、同じ大学出身と言ってもいわゆる私立のマンモス校であり、つながりは薄い。
大学から文学部に入った私と違い、彼は中学校からあがって来た教育学部の生徒だった。専門分野が違うし、語学のクラスで一緒になることもなかった。彼はボランティア活動も活発に行う交流が多い手話サークルに入っていたのに対して、私は週一回しか活動のない茶道同好会だった。同じ文系学科の建物に通っていても、接点がないに等しく、それ以前に見かけた記憶もなかった。
 お盆休み前、私はまだ内定が取れていなかった。また新しい企業へのエントリーシートを埋めるため、コピー機の順番を待ち、長財布を握り締めながら、新卒求人募集先が張りめぐらされた壁を首が痛くなるまで見上げていた。相変わらず、どこもかしこも若干名という名の一名採用だろう募集しかない。文系の生徒の新卒正社員採用は、女子だと特に厳しかった。私にはコネもなく、大卒以上の武器を持っていなかった。履歴書の資格欄にはパソコン関係と英語検定の二級、職歴欄にちいさい喫茶店の三年続けたバイト経験があるだけだった。
「やばっ! 小銭がない。ちょうだい?」
 コピー機の蓋を持ち上げ、エントリーシートを置いていた時、隣のコピー機の前で友だちに男子学生が言っていた。
「え? 俺も今、コピーしちゃったから、小銭はないよ」
 コピーをしながら楽しげに話しているふたり組を見ていた。隣の男は、リュックやズボンのあちこちのポケットに手を入れて、「ないって!」とか騒いでいた。彼が手に持っていたエントリーシートは、同じ大学の就職センター作成のテンプレートに埋め込んだものとは思えないくらい、四角い欄のすべてに文字がびっしりと埋まっていた。白いスペースが目立つ私の自己アピール書面とは大違い。彼らの話を聞いていると、やはりエントリーシートを窓口に出す前に、自分の手元に残す予備の保存分を私と同じようにピーしたいらしかった。
うちの大学のコピー機は、古くて小銭しか使えないやつだからな。
「あの、私、百円と十円玉が少しでよかったらあります」
 さっき自動販売機でお茶のペットボトルを買って小銭を用意して来た。長財布の小銭入れのポケットから手のひらに出して数えながら、隣で小さいお財布を広げて、私を見下ろしている彼を見上げた。
「え? 本当? いいの? 百円でいい。この十枚分のコピーをきっかりとりたいから」
 十枚もエントリーシートがあるの? そんなに考えたい企業がまだあるのか、私など残り一社だ、と思いながら百円玉を小銭入れから取り出した。
「同じ四年生だよね? 今度、返すから。この五百円玉を使わないで欲しいって張り紙、今知った。あとは一万円しかない。くずすのにもくずしにくい。せっかく並んだのに!」
「分かります。気にしなくていいですよ。百円じゃジュースの一本も買えないから」
「えっ。だったら、下のカフェでなんか奢る。俺の希望先はぎりぎりだから資格証明書をつけて出さないと」
 だったら? なんかそういう言われ方をすると、私が百円玉に文句をつけたみたいではないか。
「えっと、本当にいいです」
「俺の方がそれで本当にいいって。どうせ下の大学のカフェだって、たいした値段じゃないから。どうせって、失礼? でも、今の俺には、百円玉が福沢諭吉様より必要だから。五時にここ閉まるし、急いでもいるから!」
 彼があまりに真剣な感じで私に身振り手振りを加えて話しているので笑ってしまった。
うちの大学のコピー機の方が問題なのだ。古くてお札だけでなく五百円玉が使えない。正確には、機械そのものは、五百円玉硬貨が使えるのだけど、“五百円玉はできるだけ使わないでください”と手書きの紙が機械に張られている。大人数が五百円玉を使うと調子が悪くなるらしい。前にコピー機に並んでいた時に同じ就活生がそんな話をしていた。百円玉を手のひらにのせて差し出すと、彼は照れくさそうに指でつまんで笑った。
「助かる。ありがとう! 今度、奢るから、俺の携帯電話にメールしてくれる?」
 使い混んでいるネイビーのリュックから取り出したメモ用紙にボールペンで書き込み、丁寧に破くのを見ていた。
「俺が百円玉様をもらってしまっていいわけ? あと十円玉がいくつかしかないのだろ? どこの企業も締め切り前だから、確認をしなくても平気?」
 百円玉様? 今友だちのコピーが終わって機械が空いたのだから、手に持っているプリントを早くコピーしてしまって、窓口に出しに行けばいいのに。彼が屈んで見下ろし続けてくるので、その必死な言い方に笑って返した。
「私は一枚コピーが出来ればいい。他にエントリーする先も見当たらないから」
 なんだ? 彼がじっと見て来るので考えてしまった。私は、プリントをフォルダーに入れて就職用の革鞄にしまい、コピーの用事を済ませた。「行くね」と隣でまだこっちを見ていた彼に声をかけて歩き出した。
「お礼をするからメールするのを忘れないでね、夜ね! 必ず!」
 後ろから念を押されて振り返ると、笑顔で大きく頷かれた。軽く頷き返して、手を振りあって帰った。
 本当に百円玉のお礼まで考えて貰わなくてもいいのだけど。なんで夜? 電話をするのは、明日の朝だっていいはずだ。数日後でも忘れてしまっても、このお礼がどうだって、彼にはいいことのはずなのに。
 背が高めで奥二重の瞳。スポーツが得意そうな体型だった。もてそうな人なのに、その”必ず!”という夜になにかあると期待をしてしまっていいのだろうか。

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