3. ファイナルコール
私は携帯電話の電源を落として、画面を暗くしてパタンと閉じ、ズボンのポケットに押し込んだ。
留守電の設定もしていないから、これで電話は繋がらない。彼からの反応を気にしなくていい。
帰宅の道のりは、勤め先の居酒屋がある横浜駅から各駅停車で座ってニ十分、更に今いる最寄りの駅からバスで十分程度だ。アパートの固定電話は、一年保証期間が切れた途端に壊れてしまった。まだ買い替えていない。携帯電話があれば、困るようなことが特にない。その方が今の私には都合がいいのだ。
家に帰って勉強机に座り、ノートパソコンを立ち上げた時、メールの受信のマークがあっても、最近はその中身を見ていない。タイトルすらも見ていない。それが彼からのものなのか、他の誰からのものなのか、ただのダイレクトメールなのかも知らない。
パソコンなんか立ち上げる必要がもうない。大学時代には授業があったけど、今は必須ではない。お店のバックヤードには正社員が共有で使えるデスクトップパソコンがある。帰る前にマイページの報告欄を埋めて来てしまえば間に合う。ネット通信販売の利用もやめた。
アパートの部屋に帰宅して一番に、ひとり画面をどきどきしながら眺める日課などいらない。
彼が悪くもないのに彼のせいにするくせに。彼に不満に思っていることは、彼に自分を悪く思われたくもないから何も言えない。でも、分かって欲しい。わがままばっかり。ぐるぐると考える自分自身が一番嫌い。もうたくさん。数日前に自分に苛立ち、ぱたんと蓋を閉じて以降、しばらくは部屋でノートパソコンなんか立ち上げてもいない。
私から連絡をしなければ、彼からのメールは朝と夜だけになった。生活時間も休みも合わないのだから……。
全く彼からイレギュラーな時間にメールが来ないわけじゃない。私はたまには携帯電話を今も使っている。時間が定まっていない賄い飯を食べている時、見計らったように届くのだ。
“今日はすごい雨だったね。急に降られて参ったよ。学校は欠席者が多い時期です。風邪をひいていない?”
“自分でもびっくりしたことに図書委員会の顧問は、やることが多岐にあります。お勧めの本を教えてね”
“夏休みは、いつ取れるの? 合わせてどこか遠出をしない? 海でもどう?”
彼から用事もなく送って来る時は、いつもそんな当たり障りのない平和な内容のメールだ。
“ずっと好きだからね”
そんなひとことで終わる二行のメール。彼は電話にすぐ切り替えるから、いつも二行以内と決まっている。
それは彼の優しさからくるもので、忙しい私への気遣いだ。体力に自信がある方でもないのに、立ち仕事をしている私の負担にならないように。彼なりの思いやりだって分かっている。それは痛いほど感じている。だからひどく切ない。私と彼は同じ年なのに、私が彼にそんな風に何か気遣ってあげられることは何もない気がした。
私は顔を上げた。喫茶店の中は夕方になって混雑してきたけど、六畳一間に帰りたくない。
何の変哲もない都会によくあるアパートの部屋に帰り、ひとりきりになりたくなかった。人込みのうるさいなかにいたかった。
ひとりになって、静かな部屋にいると、彼のことばかり考えてしまう。
これは私のわがまま? こんな恋愛の仕方はどこか間違っている? 私が彼のことを、彼が私を思ってくれているのと同じように思いやれないの? 本当に好きなのではないの? ここまで携帯電話のやり取りに捕らわれて、少しおかしいのではないだろうか。
でも……。たまには困らせて欲しいの。私にも「しょうがないなあ」って笑って言わせて欲しいの。
なにか私にもわがまま言ってよ。
私はそんなに頼りない奴なの? それともそんなに重要な存在じゃないの?
あと一歩。ううん、あと数十歩。一気に私に近づいてきて。
息つく暇もないくらい駆け寄って来て。私を抱きしめて。
店員の視線に追い出されるようにしてカップが乗ったトレーを戻し、重いトートバックを肩にかけて喫茶店を後にした。
私の住むアパートと彼の住む実家は、居酒屋がある横浜駅から反対側に三十分程度だ。それはまるで私と彼の距離そのもののようだ。近いようで遠い。三十分程度と言っても歩いては行けないし、最寄り駅から住宅街へのバスの本数が多いわけでもない。私が住むアパートは坂の途中にあるから疲れる道のりだ。彼は私の部屋に遊びに来たことが何度もあるけど、彼の実家がどんなか私は知らない。
だらだらと続く坂道を登りつつ、空を見上げれば夕焼けだった。その赤い色がひどく目に痛かった。
私の心の中みたい。どくどくどくどく血が流れる。
文句つけようのない、みんなに優しい彼だから、苦しくなる。なんて誰にも言えない。
私がこの本音を話せるのだって、結局、彼自身しかいないのだ。
職場が紹介をしてくれた賃貸アパートの階段を踏みしめるようにして上ると、彼のいつものリュックが足元に見えた。
「あ……」
私の部屋は階段脇の角部屋だ。玄関の前でスーツのジャケットを片肘にかけて下げ、ズボンのポケットに両手を入れて立ち、私と目が合うと、ミニタオルで汗を拭いていた彼がじっと見下ろし続けていた。
「お前、どうかしたの?」
私はあと二段で彼の目の前に着くという時点でピタリと止まった。
「どうって……?」
「だってメールも電話も全くよこさないから」
「あなただってよこさないじゃない」
はじめの頃はもっとメールをくれた。返事が来ないと電話をして怒って来た。もともと知り合いでもなかった私たちは、お互いを競うように自分のことを話し合った。
「俺は……。待っていたからだよ」
彼は目を伏せて呟いた。
「私だって待っていたよ」
同じ想いを抱えていたはずなのに、どうしてこうやってすれ違っていくのだろう。
「ねえ、覚えている?」
私はゆっくり階段をあがった。
「私が何度目の電話であなたに告白をしたか」
彼の目の前に立つ。彼をじっと見つめて私はちょっと笑った。
「十回目。決めていたの。あなたに十回電話が出来たら、告白するって」
彼は流れて来る汗をせわしなく拭きながら、ポロシャツにズボン姿で私を見下ろし続けていた。
「そんなに親しくない男の人に電話するって勇気がいることだよ? あなたの携帯電話の番号を呼び出して、最後のボタンを押すたびに指がふるえたよ。何回もコールしたりすると、忙しいの? もう寝ちゃった? やっぱり、こんな時間帯に電話をかけたりするのは迷惑だった? 留守電に切り替わったらどういう風に言おう? 留守電になにか入れて掛け直してくれなかったらどうしよう、って」
彼は、うんと言うようにうっすらと頷いた。強い視線に促されて私は続けた。
「だからね、留守電の最後に入れるの。また掛けますって。そうすればあなたからの折り返しの電話が待てなくなって、また自分から掛けたくなった時も大丈夫な気がして」
また電話をするね。またメールを書くね。
待っているね! とは言えなかった。優しい彼の重荷になる気がして。私は、彼が思っているような明るい女性では全くなくて、可愛い女の子でもなければ、親切でもない、ぐるぐると細かいことに拘って悩む、じめじめとした女なのだ。
「頑張れ。大丈夫。嫌われていないよ。もっと明るくなれ。わたし……。苦しくなっちゃった」
彼の胸におでこをつけた。彼の弾力があるあつい身体の温度が伝わってきた。
「くるしい」
もっと一緒にいたいよ。ずっと私のそばにいて欲しい。
でも、あなたにそんなことは言えない。だってきっとそのためにものすごく努力してしまう人だから。自分のなにかを削ってでも、私に合わせようとしてくれるような人だから。誰かのためにそうやって生きてしまう人だから。
私にそんな価値まであると思えないから。
彼の手のひらが私の頭を撫でた。彼が私に触れただけで身体じゅうがずきんと音を立てた。
「お前、この前くれた電話がいつだったか覚えている?」
「一週間くらい前かな」
「五日前だ! 俺は、そんなに黙って待っていないよ。だったら、それが何回目だったかも覚えている?」
私は顔を上げようとしたけど、頭に触れた彼の手のひらがそれをはばんだ。
「九九回目。お前が俺に告白してから、この前の電話で九九回目だよ」
手が離れて行って、私はそっと顔を上げた。
彼はちょっと決まりが悪そうに私を見て微笑んでいた。
「いつになったら百回目になる?」
「百回目になったらなんなの?」
「十回目がなんだった!」
いきなり叫ばれ、抱きしめられた。
彼のあつすぎる腕を、頬を、身体全体を。直に感じる。あつさだけを感じる。いつからここで待っていたの?
「百回目になったら、そんな風に数えるのをやめてもらう。こんな関係は、たまんないよ」
分かっている。心臓の音が大きく聞こえる。私だって同じだったから彼との連絡を絶ったのだ。
「いつになったらお前、こんなことしたら迷惑だろう、重荷になるじゃないかとか色々とひとりで考えてしまわずに、俺といられるようになるの?」
それは……。私が好きになれない自分のために、今後の自分自身ために、考え続けなければならないことだ。彼が悩むことなんかない。
「私には先生でなくていいよ。そんな風に電話の回数を数えたわけでもないよ」
「その数え方はどう重要だったの? お前からの俺への電話の回数で数えたら悪かったの? 俺には言いたくないの?」
「そっ!」
言い返そうとしたのにキスをされ、あつい唇でことばを抑え込まれ、痛いくらいに強く抱きしめられた。
「だから、俺はいいの! ぐだぐだと悩むお前が好きだから! もう数えるのをやめてもらう。そんなことしなくてもいい関係になる」
彼の腕の力が緩んだので、私は抱きしめられたままそっと顔だけを上げた。おまえをすきだからって。
「だって……。あなたにはたくさんの人から電話が来るし、メールだって来るから。今は数えていないよ」
「お前もそいつらと同じだって言うの? そんなわけがないだろ? お前が十回目までしか数えなかったというのに、俺は九九回目まで数えたぞ」
困ったような、照れているような顔をして、彼は私を見つめ返した。
九十九回目。十回目からあとなんか数えようとも思わなかった。
その後に続いたのは、プラスじゃない、マイナスの指数だ。一回のダイヤルを押すごとに悩みが、一回の連絡ごとに不安が、彼と会ってもいないのに、彼の声を聞けるだけのことなのに、彼が打った“おやすみ”の文字を見られるだけなのに。信じられないほどのうれしさと一緒にマイナスの気持ちが増えて行った回数だった。
私は、ズボンのポケットにねじ込んであった携帯電話を取り出した。
リダイヤルで彼の名前を選択する。やっぱり最後の送信ボタンを押す時は指がふるえた。
すぐそばでバイブの音がした。彼がそっと携帯電話を耳につける。
「これで百回目だよね?」
「そうだよ。一緒に暮らそう」
彼を見つめ返した。手首を引っ張られ、抱きしめられる。手から携帯電話が音を立てて落ちた。
「ずっと好きだからね」
彼が耳元であつい息を吹きかけながら囁いた。
「もう一度いうから、ちゃんと聞いて。俺と一緒に暮らそう?」
十回目の電話で、私から告白した。
――まだ一度しか会っていなくても好きになってしまいました。
百回目の電話で、やっとちゃんと繋がれた。
――俺と一緒に暮らそう。
「うん。わたしも……」
うまく続けられない。でも、一緒に暮らせば、今までに溜まったマイナスの指数をプラスに変えて行けるよね。
これから重ねられていく数字は、未知数だ。