曖昧ゾーン (5)

第二話 - 3 頁


 会合が終わり、教室に戻ったら誰もいなかった。
 引き戸を開ければすぐ傍が自分の席なのがまだ慣れない。鵜飼の苗字で出席番号一番だったことはないからだ。
 フォルダーからプリントを出し、数学の課題に取り組んでいた。
 全く分かりません。どの公式に当てはめるのですか? 佐原君が解いていた式と同じですか? どこに載っていましたか? 教科書を捲る。担任に素直にそう言いに行って、職員室で教わった方が早く終わりそうです。
 でも、職員室内に立たされ、また振り返りもしてくれない担任の背中を見て、教えてくれる気があるのかないのかそわそわする自分を考えるだけで嫌です。
 そう言えば、お洒落なメモ帳を持って来るのもすっかり忘れていました。佐原君は、私に連絡をできるはずがありませんでした。生徒会の方たちともメールアドレスの交換をするのなら、洒落たメモ用紙を吟味して、本気のきれいな文字で書いて配れるようにしてきませんと。スマホ同士なら赤外線を利用して簡単に済むでしょうに。
 シャーペンの芯がボキリと折れた。指先だけでなく、胃まで痛い。ペットボトルの水を飲んだ。
 ストレスだ。お水までまずい。さっき自販機で買って来たばかりなのに変な味がするわけありません。なんてことなのでしょう。
 スマホがあれば、私も連絡事項はラインで一遍に済みますのに。ガラケーユーザーが私だけでなくて良かったですけど、磯さんは大村君に椅子を蹴飛ばされてまでいたので買いそうです。自分のためだけに面倒なメール交換を生徒会の方たちに頼むのですか? 佐原君がそれを請負うことになりませんか? 生徒会長の肥田さんがやるべき仕事になりますか? そのペアの女性の方かもしれません。お名前は……。肥田さんが簡単な自己紹介の後、なんとかヒトミさんと紹介をしていたのは覚えています。
 ああ、苗字の方を聞き取りなさい。自分に腹が立ちます。生徒会は毎週土曜日の同じ時間帯に会合を開催するとクリップで留めたプリントに書かれていました。今後、なにかの行事のたびに実行委員の方たちと自己紹介をしあい、交流を計り、そちらの会合にも一緒に参加するのですか? つまり、最低でも週に二回は生徒会と行事の実行委員の会合に出なければならないということです。
 なぜ、そんなに学級委員だけが忙しいのですか。私の公務員試験の勉強はどうなりますか。父に文句を言って貰ってもいいですか。なにも良くありません。くじ引きで平等に決まったことです。職員室に呼び出されでもしたら目立ち過ぎます。立候補で決めるべきです。最悪です。高校では少人数としか関わって来ませんでしたのに。
 ため息をついてシャーペンシルに芯を補充する。頭が痛い。こんなことでは公務員になれると思えません。
 目の前のドアがガラリと空いた。
「鵜飼さん。学級委員日誌は出して来た。居残りだっけ?」
 佐原君が微笑みかけて来た。なにも考えずに頷いてしまった。職員室に行ってくれた後は帰ったと思いました。
「俺でよかったら教えるよ」
「え、でも」
 隣の席の椅子を引いてプリントに屈まれる。さすがだなあ、女の子の手元を覗き込むのにも躊躇(ちゅうちょ)や迷いがない。自分に自信があるのだなあ。少し私に分けて欲しい。
「どこから?」
 佐原君は顔をあげた。うっ。目は合わせられません。
「あ、ここ。ここからが分かりません」
 芯を入れたばかりのシャーペンの頭で机の上を叩きつけた。こんな長たらしい数式が解答になると思えない。
「ため口で話していいよ。この前も言ったけど、鵜飼さんは真面目すぎ。大村を怖がり過ぎ。この問題も難しく考えすぎ」
 アハハと笑っている。佐原君はすごいなあ。いつ見ても男女ともに分け隔てなく笑顔を向けられちゃう。私は頷き返すことしかできない。
「どうしようか。ルーズリーフを一枚くれる?」
 言われたままにフォルダーから取り出した。今日は折ってもいない新しい用紙がありました。
 佐原君は水色のブラウスシャツのポケットにさしていたシャーペンシルを取り、カチカチと言わせ、公式を書いて行った。太いペンのようなボディのシャープペンシルは、確かドクターグリップのはずだ。
「この三問目、担任が新しく出して来たよね」
 頬杖をついて考えている。三問目は黒板で解かされた問題ではなくて、全く分かりませんでした。
 私側に斜めに傾けられた顔から息使いを感じる。ち、近い。また佐原君を見すぎ、考え過ぎ。そんなに騒ぐほどの距離ではないのです。うちの学校は男女の生徒数が同じくらいの共学だ。でも、私にとっては近い!
 佐原君は……。きっと恋愛事にも慣れているよね。思ったより良い人だし、嫌なことを言いもしないよね。変な噂話が先行をしているけど、頭が良くて恰好が良くて彼女がいたら、それだけで妬まれるでしょう。いつも彼女ばっかり作っているように私にも見えていましたけど、その時々で真剣だったのでしょう。
「後は、エックスイコールで出してみて。分かった?」
 耳元で囁かれる柔らかい発音にドキリとした。
「う、うん。ありがとう」
 私は、なにも頭に入っていなかったけど、視線をあげずに言った。
「やさしいよね。佐原君は……」
「どこが? 普通でしょ」
 陽気な声が返って来る。ここまで解いてくれたら、プリントに写してエックスイコールを出すのは難しくない。
「さて。帰るか」
 私が書き終わると佐原君は立ち上がった。頷き返し、リュックに机の上の物を目についた順番にしまい込んだ。
 佐原君、あの日のことは忘れてしまってくれた方が良い。でも、本当にうれしかった。佐原君とだったら素敵な恋愛ができるかもしれないって憧れていた。それが本当にならなくていい。佐原君を通して夢を見ているだけでいい。だって……。
 カタン。鞄を肩に掛けて立ち上がった途端、なにかが落ちた。自分のことばっかり考えていたらダメだって。
 転がって行った銀色の金具を拾い上げた。うわあ、銀の輪に鍵だけついています。佐原君と目が合った。
「ご、ごめん。この先についていたもの、探すから」
「えー」
 不満そうな顔を返されてしまった。
「すぐに見つけます!」
 大きく言って、慌ててしゃがみ込んだ。金具が転がって行った後ろの方の床を見る。目を細めて机と椅子の足の間を探した。それらしきものが見当たらない。掃除をした後だから、床もモップがけされていてきれいだ。すぐに見つかるはずだ。
「なにが先についていたの?」
 佐原君を見上げた。これはお家の鍵でしょう。両手をあげてのんびりと伸びをしていないでください。
「さっきシャーペンを出す時に邪魔だったから置いただけ。探さなくていいよ」
「壊れたよね」
 がっかりです。よく考えたら、探し出しても、このリングにくっつけられるかは別でした。
「でも、探せば見つかると思うから」
 佐原君に鍵を返しながら言った。壊れたかもしれませんけど、見つけられたらどうにかできるかもしれません。
「本当にいい。探さなくて」
 厳しい感じに言われてしまった。うわあ、もう目を合わせられません。でも、謝らないと。佐原君の方を見ると、表情は長い前髪に隠されてしまって見えなかった。
「ごめんなさい!」
 頭を下げる。私は役に立っていないどころの話じゃない。佐原君の足を引っ張って、迷惑をかけている。
「うん。そんなに気にしないでよ。適当に鍵につけていただけし、探して貰っても面倒な感じだったから」
 佐原君の目をやっとのことで見返した。無表情だ。めんどう……。
 今度こそは、お前のことがよく分からないとでも言いたげに無表情な顔を向けられて、そんなことは言われないはずでした。
「そ、それなら、そのキーホルダーの代わりが見つかるまでの代わり、私が適当に持って来る。電話番号と!」
 誰ですか。こんな大声を出しているのは。適当なキーホルダーが見つかるまでの代わりってなにですか。
「そうして貰えるの? お願いしようかな。変なやつでなければいいから」
 屈んで笑顔で言われる。近いです! 今後ろに下がってはならない。笑顔を返せ。それができないなら頷き返しはしなさい。
「は、はい……。うちになにかはあるから」
 ありますと言いそうになった。本当にあるのですか? 父が勤めるスーパーのおまけならあるはずです。
「女子って、そういうものをたくさん持っているよね。帰ろう」
 笑顔のままドアを開けている。いいえ、今私が思った適当なキーホルダーは、主婦が持っているものでした。
「鵜飼さんは、職員室によって帰るのだった?」
 頷き返しながら教室のドアを閉め、斜め後ろを速足でついて行った。佐原君は片方の肩にかけているいつもの鞄を斜めにかけ直している。お洒落に疎い私にはどこのブランドのショルダーバックか分からないけど、凝ったキーホルダーもそこのものなのは分かる。切り替えが早いなあ。
「そう言えば」
 くるりと振り返られる。いきなり私を見るのをやめてください。ドキリとして後ろに下がってしまいました。
「校則で変えて欲しいところ、鵜飼さんの意見は?」
 あ、生徒会長が言っていたことを思い出す。学級委員は日誌にそれも書いて出さねばならないのでした。
「髪のゴムの決まりまで誰も守っていないと思いました」
「俺も前髪が長いって肥田さんに言われた。それだけ切りに行かないよ。ゴムで括るのも面倒そう」
 アハハと笑っている。面倒。その用語にグサリとくるので繰り返すのをやめてください。しかも磯さんが言っていたことです。
「変えて欲しいというほどではないかと」
「鵜飼さんの案がなにもないままだと、女子同士で気楽に文句も言えなくなるよ。髪飾りの規定の変更をすべきだと足しておく?」
 えっ。私のその意見は、うちのクラスの女子の意見になってしまうのですか? そうならクラスで話し合う時間を取るべきではありませんか? 生徒会長の肥田さんに言うべきことでもムリです。特進クラスの一組にいて、常に成績は首席だ。きびきびとして厳しそうな方でした。
「磯さんがそう言っていたのです。ごめんなさい」
 人のアイデアを貰って良くないです。佐原君は頷いて壁に寄りかかっている。廊下で立ち止まると人目につきます。
「俺は制服のデザインを変えて欲しいと書いた。男子のズボンや女子のスカートに柄が入るくらい?」
 くらい? お洒落でない私に聞かれましても……。いえ、私が答えるべき学級委員の片割れなのでした。
「チェックですか?」
「ストライプを思っていた。柄も書いた方が良かった?」
「う、うん。似合うと思う」
 佐原君なら、ネイビーの上下でなく、ストライプでもチェックでもなにの柄でも着こなすでしょう。
「え?」
 うわあ、聞き返さないでください。思ったままを笑顔で言ってしまった。ダメだって、二人きりって良くない。

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