曖昧ゾーン (30)

第九話 - 2 頁


 鎌倉駅から江ノ電に乗れば、あっという間に江の島が目の前の橋の上に着いた。
「やーん。海ぃ!」
「なにがいやんなのよ」
「だって、湘南の海だよ、海」
 江ノ電が二両編成なので、他のお客さんの迷惑にならないようクラスを二分割して一組から順番に乗っていた。私たち五組の後半組は十回目だった。駐車場にいる時間が長かったけども、その後は待つことなく進んだ。
 駅の改札口を出たところで担任の先生が立ち、クラスメイトを集めて点呼を取っていた。駅前で集って騒いでいるのをやめて欲しかった。観光客がジロジロと見ていた。県内の近くに遠足に来たように見えない学生たちだ。
 学級委員はクラスの全体を見送り、最後を歩いて具合が悪い人や揉めている生徒たちがいたら、要所ごとに立つ教師に知らせるか、担任に電話をするように言われ、携帯電話が書かれたメモ用紙を佐原君と別に渡された。
「今日は携帯電話を禁止していないが、使用は必要最低限。社会勉強のための遠足だ。学級委員が見本になれ」
 強い視線で私を見て来て念を押された。担任にまた肩にポンと手を置かれたくないから出来るだけ遠くにいた。
 田村さんたちは副担任と話しながら先頭の方を歩いていた。江の島に着くまでの間にやたらとテンションが高かった。
 周りもガヤガヤと騒がしかった。教師たちは頂上にある展望台まで要所で注意を呼び掛けていても聞こえない。
 江の島に来るのは二回目だ。ちいさい頃に家族と来た。記憶よりも急坂だったし、細道に品を並べつくした小さいお店が出入り口もどこにあるのか分からないくらいにややこしく立ち並んでいた。
「頂上で展望台を見たらお弁当」
 佐原君が振り返ってさわやかな笑顔で言ってくれる。坂で息が切れ、うまく笑えなかったけど、笑い返した。
「日焼け止めクリームとか持って来ていない?」
 公香と並んで歩いていた秀美に聞かれて首を振る。
「帽子を持って来ればよかった。いい天気すぎる。日に焼ける」
 両手を太陽の方にやり、秀美は気にしている。公香も私も日焼けしている方だ。特に気にしていない。
「なんか暗いよ! 頂上で点呼、お弁当!」
 グループのリーダーのケンゴ君が先頭に立って歩いている。そう教師がお弁当を食べる場所は決めていた。
「明るくいることを強要されても迷惑でしょ」
「佐原はイイコちゃんだな」
「ケンゴも生徒会の誰かさんたちみたいでムカつく」
 新藤君と三橋君もそんなことを言いそうだと私が思ってしまいました。
「途中のお店も見られるよ。お小遣い三千円以内なら好きに買い物も出来る。覗いてみよう」
 佐原君にやさしく見下ろされる。促されるままに和小物が並ぶお店に入った。田村さんたちの声が遠ざかる。
「クラスの全体が行くまでこの辺を見ていよう」
 見上げる。さっきと表情は変わらない。“ありがとう”では変な気がする。ここでも私は頷くだけなのですか。
「記念になにか一緒に買う?」
「佐原君」
 考える前に呟いていた。和柄のマグカップを上の棚から取って見ていた佐原君に微笑まれる。その笑顔に逆に言いにくいです。
「この色好きそうじゃない?」
 手渡された青い色のカップを覗き込む。こっちは湯呑だ。底には花模様があり、万華鏡のようだった。
「きれい……」
 私の呟きに佐原君の笑顔が返される。そのやわらかい表情も綺麗です。他に言葉がないのかと思ってしまった。
「学級委員、向かいのお店にいる」
 傍にいた秀美に言われて頷く。永岡君が向こうにいるから行きたいのは分かります。公香が肩をすくめている。
「親友代表は?」
 公佳が向こうと見比べながら聞いている。
「隣の店に入っていった。あいつお茶が好きだから。山本って呼んであげて」
「えー。親友代表って呼んで欲しいと前に言われたよ」
「私もはじめに聞いた」
 佐原君に不満そうに見降ろされる。その話はしていませんでしたか? でも、私はそう呼んで欲しいと言っていると思いませんでした。親友がいることを自慢にしていたので、公佳はそう取ったのでしょう。
「お昼を食べていた時は、名前を覚えられないって気にしていたのに!」
 あ、佐原君にそんなことを言っていた気がします。名前を女子に憶えて貰えないとかいう悩みは、本気だったのですか? そんな風には見えませんでした。
「ふざけているのだと……」
「私もそう思ったよ。親友のカテゴライズが難しいのだね」
「カテゴライズではないと思う」
 視界の端にピンクが入り、向こうを見た。永岡君のシャツの色だ。こっちに歩いてくる。
「佐原、大学を受けもしないの?」
 お土産の棚越しに永岡君が聞いている。秀美は追って来難いです。振り返ると山本君と箱を持って話していた。
「公務員試験を受ける」
「もったいない。佐原の成績なら奨学金生を狙えるだろ?」
「それここで話さないとならない?」
 二人は見合っている。いえ、睨み合っているように見えるのは気のせいですか? 奨学金。考えませんでした。
「あれ、鵜飼さんじゃない?」
 その明るい声がした。なにも考えずにクルリと振り返った。登って来た急坂。残っている生徒は少しのはずだ。
「ほら鵜飼いさん!」
 話し掛けて来た相手が振り返り、坂を上って来る普段着の学生たちを見て体温が一気に下がっていく。
 なんでこんなところに……。
「あ、ホントだ、鵜飼さんだ」
 うちの最寄り駅の高校に通う男女の面々だ。リュックに水筒。どう見ても遠足の格好だ。笑顔が浮かんでいる。
 このお店に入って来て、あの調子で話しかけられたら困る! 湯呑を目の前の棚に置いて慌てて外に出た。
「ひさしぶりだね」
「元気だった?」
 あっという間に数人がお土産物屋の前に登って来て囲まれた。どうして親しげに話してきて、そんな風に笑えるの?
「偏差値が高い高校にいっちゃってさ」
「県内トップでしょう?」
「うちらびっくりだよ」
 口々に私に向かって話される。あの頃と同じだ。その視線は私の上辺で通り過ぎる。お互いを見合って声もなく笑い合う。後ろにいる私が知らない人たちとまで交わされる笑いがいやらしい。こそこそ声の会話。それが友だち同士の証拠であり、自分たちの側の優越を確認しているかのような連鎖する同じ反応。この前の田村さんたちと被った。
「そんなに気にしていたの?」
 数歩前に立っている男を見上げた。笑っている。鈴木君……。
「サトコ?」
 呼ばれて佐原君を振り返った。紙袋を下げてお店から出て来ている。他の人たちも清算をしたら出て来る。
「今行く」
 そっちに足を勧めようとした時、腕を捕まれた。鈴木君と目が合う。信じられない思いで見つめた。
 あんなことがあったのに。触って来るなんて。
「待ってくれる?」
 首を振る。怒りの気持ちを隠せず、私が睨みつけてもなににもなっていない。面白がられているだけだ。
「俺ら、鵜飼さんに謝らなきゃならないと思っていた」
「そうそう。この前のクラス会でも鵜飼に謝れって担任に言われたから」
 隣で笑っている女を睨みつけた。周りに賛同を求めて見回し、頷かれている。当時の担任? もう思い出すな。
「私たち友だちだった時もあったのにね、ケンカしたからってやりすぎたなって言っていたの」
 なにをクスクスと笑って、勝手なことを言っているの? こんな女の名前は忘れた。友だちだったなんて微塵も思ってもいないくせに。
「もう昔のようには言えないね。オオ」
「やめて!」
 叫んだ。ここで言わないで。うちの学校の生徒たちにまでそんなことを広めないで。
「私に触らないで! 謝ってなんかちっとも欲しくない」
 強く言い続けた。握られた手首を振り払ってまた捕まれる。目の前の男に水筒の紐を肩から外して投げつけた。
 鈴木君の胸に鈍くあたって転がっていった。手が離れた瞬間を逃さず、鈴木なんて名前も忘れてやる。他は輪を作って笑っていても、見知らぬ顔だらけの顔だ。両手で押しのけた。笑い声を背に下り坂を走った。
「オオバカ。人の話を聞けよ!」
「山道を登って来たのに下ってどうするの? バカですよ」
 乱暴な男女の声が追って来た。走り続け、振り向きもしなかった。どうせバカとしか言えないバカな連中だ。
「総合高校の人にバカってなくない? 県内一位さんだよぉ?」
 中央にいた女子が言って、まだどっと笑われている。田村さんにそっくりだ。なにが面白いのかも分からない。
 振り替えるな。目が合ったっていいことはない。こんな奴ら最低だ。絶対に謝らせもしないのだから……。
 日光に照らされたコンクリートが足の裏に響いた。スニーカーの紐を踏んでしまい、前のめりに転びそうになるのをこらえたら、左足だけが脱げてしまった。
 思わず振り返ってしまった。あの男にまた笑われる。ドッと周りが合わせて笑う。
「逃げるだけしかできません!」
「可哀想だって」
 キャハハ。あの三人組。鈴木君と仲が良かった二人。笑い顔と声がグルグルとして気分が悪くなりそうだった。
 彼らから目を逸らして視線を落とす。また走り出した。
 自分に自分で言い聞かせている思いとは裏腹(うらはら)に彼らが発される言葉にいちいち傷ついている。後ろでけたたましく笑う集団に怯えて、足元から震えてくる自分がいる。でも、なぜ……。
 理由もなかったのですか。学校が同じで顔見知りでもなくて、全く知らない西高の生徒たちまで笑う。
 学校名を聞いただけでも偏差値の差がありすぎるでしょう! 誰も彼もの声が遠のくまで走り続けた。

 足が痛い。靴下の下からコンクリートに混じった石が足にのめりこんだ。取るためだけに止まれない。
 逃げてなにが悪い。今、足を止めれば誰かが坂の上から追って来て、また笑いだしそうだった。他の人のことも目に入らない。彼らにとって教師や親の評価が重要でもなく、どうとでも言い訳するのも知っていた。
 謝りたいなんて言っていても、また自分たちが中心になって、なにかを仕掛け続けて来る。人が失敗をするのを待っていて、期待通り以上の結果を出せば、ここぞとばかりに罵り、その場の全体で笑うに決まっている。
 彼らは悪かったなんて微塵も思っていない。謝りたいなんて言葉も信じなくてよかった。教師に言われたから、優等生でいるために実行をしたいだけ。誰かが言い出したほんのちょっとのやましい気持ちをなくしたいだけ。
 たった一回だけ謝って、なにもなかったことにしたいだけ。自分たちはたいしたことはなかったし、私の性格も悪いのだし、多数決によって正しいことをしたと言い合い、私の問題の意見交換を終わりにしたいだけ。
 私の中ではずっと残って行く記憶なのに、彼らは今日のことだって明日になれば忘れてしまう。
「サトコ」
 腕をつかまれて強引に振り返らされた。息を切らせた佐原君がいて強く言われた。
「坂を下り切っているよ。少し話して!」
「ひとりになりたいの!」
 かすれた声で叫び返した。気が付かないうちにさっき江の島を見上げた橋の目の前だった。江の島から出たのも同然だ。でも、待機の教師は駐車場にいる。確か各クラスの副担任のはずだ。小池先生だけでも会いたくない。
「一緒に回ろうって約束をしたでしょ」
「そんな気分じゃなくなったの! お願いだから……」
 手を引っ張る。またびくともしない。わざと同じに痛い左手首をつかんだの? 明らかに表情が怒っている。
 鋭い眼が痛かった。佐原君も怖い。いつも機嫌を気にしている。目を逸らすとまた怒り出しそうだ。これ以上、傷つくことを言われたくない。想像するだけで震えてきそうだった。足の裏がジンジンとしていて感覚がない。
 もう震えているのかもしれなかった。今はどれも考えたくない。弱い自分が嫌い。泣きそう。泣きたい。しゃがみ込んで泣き叫べたら、少しは楽になれる気がした。ひとりになりたい。ひとりきりにして欲しい。

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