曖昧ゾーン (24)

第八話 「忘れた?」


 翌日はシトシトと降る雨だった。満員のバスでみんなが長い傘を持って乗ると、空気がよどんで不快だ。
 洋服や鞄に触れて濡れてしまうことが多いし、ローファーの底が床に滑りそうで危ない。
 また頭に入っている平日のバスの時刻表に合わせて来てしまった。腕時計を確認する。予定より早く着ける。
 頭痛がする。左耳の上がズキズキとしている。耳鳴りのようだ。満員のバスに揺られたせいでも生ぬるい温度のせいでもない。朝早く部屋の水色のカーテンを開けた時から憂鬱(ゆううつ)だった。

 今朝、制服に着替えてリビングに行ったら、テレビを観ていた母に迷惑そうな顔をされた。
「土曜日でも学校なの? 昨日のうちにひとこと言っておいてくれればいいじゃない」
 ソファーから振り返った時の母の顔は、漫画なら“キッ!”と煽り(あおり)文句がついた。
「うちの学校はしばらく行事が続くから。休みに学校に行く日は自分で朝のパンと卵は焼く」
 返事をしながら対面式キッチンに入り、手を洗った。メイク前の母は顔中にしわを寄せて立ち上がった。
「そのくらい作ってあげるわ。可愛くないわね!」
 睨んで鋭く叫ばれた。手洗いの動作を止めて見つめ返していると、悪化をしそうだと心のどこかで思った。でも、不機嫌になるのは予想が出来ても、そこまで言われると思わなかった。
「水を流していたらもったいないでしょう!」
「ごめんなさい」
 慌てて蛇口をひねる。動き続けろと頭は命令をしていたのに、身体が言うことを聞かなかった。私はどうしてこうなのでしょう。
「なによ。そのとりあえずの態度は! 謝れなんて言っていないでしょう!」
 イライラと何かを探した後、テレビを手のひらで叩いてバチンと止めている。母は唇をかみしめて睨んで来た。今は時間がないのに。食べずに出かけても、ずっと不機嫌なくせに。そんなに悪いことを言いましたか? 学校に土曜日に行くことは珍しいことでないでしょう。何を怒っていますか? 分からなくなった。深呼吸だ。
「分かりました。とりあえずの態度はとりません」
「生意気ね! サトコは優秀な学校の生徒さんですものね!」
 恐ろしい顔で叫び続けないでください。この前は優秀な学校の生徒であることを妹の前で褒めていました。ご近所の主婦に自慢しているのを聞いたこともある。私がどんな態度を取ってもお気に召さないのは知っています。
「せっかく録画した映画を楽しんでいたのよ!」
 強い視線を見返せず、視線を落とした。私だって昨日はせっかく良い日でした。もう続けないでください。
 結局、向き合っている気力もなく、母に背を向けた。自分で冷凍庫から食パンを取り出した。
 食器棚から大きいお皿を出して、凍ったパンを一枚だけ置いて冷凍庫に戻す。目についた袋を引っ張った。とろけるチーズとハムをのせ、トースターに入れる。フライパンに油を垂らして卵を割入れて焼く。
 冷凍庫を開けた時に見つけた袋を開け、ほうれん草を投げ入れた。ガスコンロに乗った鍋のふたを開ける。夕べのワカメと豆腐のお味噌汁が残っていた。火をつける。私は食欲がなくなりました。これだけでいいです。
 母はその場で立ったまま黙って睨んでいた。モトコが起きて来たから、ごみ捨てに行って中断をされた。
「おはよう。モトコの分も焼く?」
 妹は不満そうにキッチンカウンター越しに見て来た。
「うーん。ジュースをくれる? トーストだけして」
 唇を尖らせている。モトコにしたら自分が起きて来たのに、母は何も言わず、勝手口から外に出て行きました。明らかに私と揉めていたせいであり、とばっちりです。
「今、飲もうと思っていたから。お母さんに登校をする日だというのを忘れていただけなのです」
 モトコはカウンターに並べてあったグラスを見下ろして頷いてくれた。妹は私の性格が分かっているし、察してもくれる。これが母だったら、ジュースは出してあげようと思っていたわ、何なの? と怒りかねません。短気な母のあしらい方は、姉妹共にうまくもないからいつも怒られている。連帯感はありますけども、自分が怒られたくないし、巻き込まれたくないと避けるのも事実だ。冷蔵庫からオレンジジュースのパックを出して注ぐ。
「パステルのプリンを買ってくれるのを忘れないでね」
「それとこれとは別。彼氏さんたちの過去問題集を解いてあげたでしょう」
 トースターがチンとなったので大皿に乗せる。フライパンの卵とほうれん草炒めも一緒に乗せて、お味噌汁を器に盛れば、朝食の出来上がりだ。
「お姉ちゃんの彼氏のことも黙っているし、お小遣いも私より多いでしょう」
「でも……」
 妹が首を振った。斜めに視線だけで振り返る。母がくたびれた顔で勝手口から入って来るのを見ていた。
「おはよう。私もパンで朝食は済ますよ」
 母は妹にも答えず、スリッパの足音だけ立ててリビングを横切り、乱暴にドアを閉めて廊下に出ていった。
「無視か! 私も出かけるのに」
 妹は舌打ちをして、グラスに一緒に注いであげたオレンジジュースを一気に飲みしている。忘れないうちに妹の分もトースターにパンを入れてタイマーを回しておいた。私のせいだと怒らないだけ感謝をしておきましょう。
「プリンはついでがあった時に買ってきてあげる」
「やったね」
 妹は軽く笑んだ。母がまだ洗面室にいるかガラス張りのドア越しに確認をして廊下に出た。私が玄関を出る時、母は廊下に出て来た。声を掛けられないうちに雨用のローファーを靴箱から出して履いた。妹は洗面室に入り、ドアを閉めた。妹は休日にこんなに早く起きてくることはない。デートにこぎつけられたらしい。
 父が珍しく土曜日が休みで寝ていて幸いした。起きて来たら母の不機嫌を見取り、私を攻める。そして妹のように揉めた内容に触れずにいてくれない。母親を困らせる子供が悪いと断じておきながら、理由を糾弾し、今後、揉めないためにどうすべきかをまとめる。たった四人の家族、仲良くあれ。お決まりの説教がはじまり、家族全体が同意をしないと更に怒り、今日は学校に行くのをやめなさいとまで流れかねなかった。
 いいえ。父親が珍しく土曜日に休みだったからこそ、母はゆっくり出来ると、ソファーに座り、テレビを観ながらお茶をしていたに違いありません。生徒会役員になったなんて言ったら、私は目立たない存在の生徒として、両親にもインプットされているし、就職組で忙しいはずなのに、どんな嫌味を言われるか分かったものではない。
 学校だけでも色々とありますのに。我が家すらストレスだ。早くひとり暮らしができるようになりたい。

 下駄箱の前で水色に水玉模様の傘をたたむ。昨日の楽しい気分は朝で吹き飛びました。私が唇をかみます。
「おはよう。いつも通りの時間に早く来ちゃった」
 磯さんがやって来た。ビニール傘だから校門の辺から歩いて来ているのは見えていた。笑顔で挨拶をされる。
「私も……。十時で良かったのに」
 笑顔をうまく返せない。キスシーンを見たせいです。磯さんは傘を丸めてこっちを見ていない。良かったです。
「うわ」
 下駄箱を開けた時、思わず声を上げて下がってしまった。ごちゃごちゃ詰められた紙に落書きの山だ。
 ――オオバカ。
 その文字だけが解読できた。下駄箱を開けた正面の壁に紙が貼られるようになっていたからだ。他は紙が丸まっている。赤いペンで乱雑に書かれ、にじんでいた。出血に見えた。上履きもなくなっている。またですか……。
 心臓がバクバクとして来た。手で拳をつくる。落ち着きましょう。くだらない嫌がらせではありませんか。
「許せない」
 呟きに視線を上げた。いつの間にか磯さんがこっちに来て覗き込んでいた。下駄箱の箱を慌てて閉めた。
「誰だ! 出て来い」
 磯さんが廊下の方に叫んでいる。今日は……。朝早いし、雨で運動部もない。誰の仕業(しわざ)なのですか。
「誰か廊下で見ていた。捕まえて来よう!」
「大げさにしないでください」
 腕を取った。そんなことをしたら大事になるだけです。気にしないでいれば終わります。
「でも、兵隊なら喋るって。大村君が言っていた」
 兵隊って……。確かにひとりでやったと思えません。廊下で様子を見ているのは主犯格でないでしょうけど。
「犯人は分かっているから……」
「騒がない方がいい相手? でもさ、黙っていると図に乗るかもよ。つらかったら言ってね」
 顔を覗き込んで繰り返される。強い目で頷かれる。大村君がいるから……と思ったら、佐原君が悲しみます。
「ありがとう」
「ううん。私もね……。あ、おはよう!」
「早いね」
 その声。磯さんが傘立ての方に歩いていく。慌てて追った。佐原君に言うのもやめてください。
「佐原君、聞いてよ」
 磯さんの腕を取った。振り返られて首を振る。誰にも言わないでください。ノーセイでお願いします。
「大村に言えば? そこで一緒になった」
「はやーい」
「こんな時間に大村が来るのも珍しいよね」
 アハハと佐原君は笑っている。その笑顔だけで、みんな癒される気がする。磯さんの腕を取ったまま頷いた。
 大村君はビニール傘をたたまずに傘立てに入れていた。なに? というように磯さんを見降ろしている。
「おはよう! 早くて感心だな。男子たち、会合の前にちょっと来てくれる?」
 奥村先生が顔をのぞかせた。ポロシャツを着て随分とラフだ。佐原君にも同じように見られてしまった。
「なに?」
「た、たいしたことじゃないの。佐原君が気にしないで。後で話すから……」
 笑顔を作る。こういう時、私は家族の前でも笑える。言葉にしたら本当にたいしたことじゃないとも思えた。
「うん。時間がないね、せっかく早く来たのにね」
 頷き返すと、いつもの笑顔で頷かれた。下駄箱を開けてローファーを入れ、上履きに履き替えている。佐原君の方はなんともない。手紙が入っていてもラブレターでしょう。良かったです。
「先生、今行きます」
「佐原は手伝いでいい。大村、副学級委員の自覚があるのか」
「自覚があるから早く来た」
「今も、早くしろ!」
「あとでね」
 耳元で佐原君にささやかれて、後ろに下がってしまった。面白そうにクスリと笑われる。
「鵜飼、先に生徒会室に行って、男子は手伝えと声をかけて来い。資料室」
「……分かりました」
 奥村先生に腕を組んで頷かれる。なにか不満そうな視線に見えます。気のせいですか。私は名前を憶えられていたことに関心をしてしまいました。理科で当たったことがありませんし、目もあったことがありません。
「肥田さんに言えばいいよ」
 佐原君は気にしてくれた。そのくらいは伝えられます。顧問の先生が不満そうなのは気のせいでありませんでした。何度も頷き返す。
 先生の視線に促され、大村君と歩いていくのを見ていた。どれだけ見ても、佐原君は空気の全体が良い人です。
「私も代表のクラスだから手伝いに行ってくる。あとで平気?」
「こんなの本当に平気だから」
 磯さんは頷いて走って行った。佐原君はいつも笑顔の人だけど、今は満面の笑みだった。
 私にずっと笑いかけてくれていた。うれしかった。他に表現なんか浮かばないくらいだ。
 女子たちが騒ぐ面白い事件があったと勘違いしてくれた。楽しい会話をもっとしていたい。こんな被害を訴えたくない。
 ひとりになって助かった。雨が降っているのに図書館まで行って、購買で上履きをまた買わねばならなかった。
 下駄箱の中身は、新しい上履きを入れて貰ったちいさいビニール袋に無理矢理に詰め込み、手持ち部分を強く結んで廊下の隅のごみ箱に捨てた。
 ガコガコ。音を立ててごみ箱のふたが揺れていた。他は雨音しか聞こえない。雨で朝練は中止だからだ。
 男女の声が聞こえる。振り返る。下駄箱や職員室の方ではなく、階段の上だ。一階の廊下に居続けると変です。
 向こうから担任が歩いてきてしまった。ダンボール箱を抱えている。確か数学クラブの顧問のはずだ。
「おはようございます」
「おー。鵜飼、頑張っているな。数学のノートもその調子で出し直せ」
 肩にポンとまた手を置かれ、階段を上がって行く。出し直せるわけがありません。
 担任の姿が見えなくなった後、階段をわざとゆっくりと上がった。何を考えていたのか忘れました。
 磯さんも大村君の彼女だったから、嫌なことをされたことがあったのですね……。
 でも、今日の嫌がらせは、それと関係があるでしょうか。田村さんたちが今日来ていると思えません。彼女たちは何かの委員になっていませんし、私たちが入っている家庭科クラブより、楽な活動の映画鑑賞クラブです。
 映画鑑賞クラブには、田村さんが中心のいつもの五人組だけではなく、他にもよく輪になっている仲のいい子たちが揃って入っているのを知っています。佐原君のファンの人たちは多いのです。でも、他の人たちがやるのでしょうか。磯さんが言っていたように、一人の仕業だと私も思いません。しかもあの言葉は……。
「兵隊さんか」
 思わずつぶやいて生徒会室のドアを開けた。早く来ていた女子たちの視線を浴びる。お花見の会で写真を撮ってあげた下級生たちが輪になってささやきあい、後ろの席に行く私の背中を見て笑っている。
 後ろの壁には年中行事の予定が模造紙に書かれていた。そっちに視線を向け、再び見ないようにした。二年生の女子の皆さんが集まって愉快そうに話している。私のことではないようにも見えます。でも、感じが悪いです。
 彼女たちは、佐原君のファンクラブの兵隊ではないでしょうけど、それに近いです。今まで考えませんでした。
 他の人たちでもあんなことをやる、なんて……。
 いつもの席は空いていた。指定席でなくても、同じ席に座るようになっている。椅子に腰かける。
 全体を見回すと、新藤君たちとまで目があってしまった。視線を落としてリュックから文房具を取り出す。
「佐原は?」
 椅子に横向きに座っていた三橋君に聞かれる。笑いあっていた下級生の女子たちが同時に振り返り、私を見た。
「さっき下駄箱で会いました。大村君と一緒にいたので、奥村先生の手伝いを頼まれていました。男子は資料室に来て手伝って欲しいと言っていました」
「マジかよ! 誰が行く?」
「肥田さんにそう伝えて貰えませんか。私、スマホを持っていないので……」
「早く言えよ。説明が遅すぎ」
 三橋君の隣の新藤君にも振り替えられて怒られてしまった。手にしていたスマホを見せられて、頷くと、頷き返された。
「ごめんなさい」
「五組が謝ることでもない」
「肥田と井野に言おう」
「なにであいつら遅いわけ?」
「肥田さんたちは、分かりません」
「カップルだからじゃねえ?」
「マジ? お前らだけでまとめるなよ」
「下駄箱で話していた時に奥村先生が来ただけで、生徒会長を抜きにしてまとめていません」
「長い!」
「敬語、いらない」
 頷き返した。うわあ! この私が目立つ男子たちと話せている。
 特に新藤君は、バレー部のアタッカーで、いかつい外見でも人気はある。佐原君と成績を競っているだけでなくて、役員を歴任して来ているのも分かりました。肥田さんと井野さんがカップルだから遅いと言ったのは三橋君なのに、私が言ったように記憶しないで欲しいですし、敬語のいらない理由は、三橋君と同じで、“説明が長い”あるいは“ウザイ”とか言いそうですけど、そんな風に話しかけられるようになっただけでも、私にしたら大変なことです。お花見の会に喧嘩までして生徒会の輪に入れました。あんな嫌がらせに他の誰も巻き込みたくはない。
 平気。たいしたことじゃない。以前の私だったらそう思い込もうとしていただけでした。今は本音でそう言えます。

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