七夕便り (1)

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前編


「さようなら」

 七夕の夜になると思い出す。あの日の痛み。あの日の体温。彼の熱を帯びた瞳。

“先生、七夕の夜、河原まで花火を見に行きませんか?”

 同じ市内に住む彼の家があった最寄り駅からバスで三十分程度、離れた広い河原では、毎年七夕になると花火大会が行われていた。
 田舎の小さな町で行われる大会だから、それほど盛大ではなかったけれど、商店会主催で行われるから屋台は出ていたし、人の出も多かった。たいした行事がないこの辺りでは夏の一大イベントといってもいいほどのお祭りであったのは間違いない。

 私は彼にそんなことを言われると思ってもいなかったら、参考書から視線を上げてまじまじと彼の瞳を見つめ返した。彼は細長い目で私を睨むように真剣に見ていた。
 彼は高校三年生の夏だ。受験真っただ中だった。私は、家庭教師派遣センターに勤める、自分が卒業した地元の国立大教育学部に合格したいという彼の夢のため、彼の希望を叶えたいという人の好さそうな、いつも笑顔を向けて声をかけてくれるご両親の願いのために春から受験前までの契約で雇われた、週末三時間の家庭教師。

“いいわよ。息抜きになるからね”
 私は笑って言った。
“そういう意味で言ったわけじゃありません”

 彼は頬杖をついていた私の手首を強く握った。
 私の指からシャーペンが音を立てて落ちた。

“ずるい。僕の気持ち知っているくせに”
 握り締められた手のひら。震える彼の唇。その手をどれだけ握り返したかったことか。
“冗談は言わないで”
 私は声が上ずらないようにするだけで精一杯だった。
 家庭教師になって三年目。二十五歳にもなるのに、八歳も年下の高校生の男の子に本気で惚れたなんて言えなかった。
 だって私は、お小遣い稼ぎのアルバイトで家庭教師をしているお気楽な大学生たちとは違う。派遣社員だ。いわばプロの家庭教師だ。教師になるのは私の夢だったし、この先、社宅のちいさな部屋でひとり暮らしをしつつ、何年も、何十年も、この職業で食べていかねばならない。大学受験をする頃、将来は教師になり、その職業で一生食べて行く覚悟をして、頑張って来た。なのに、年長者が多いこの業界では、まだ三年目で慣れて来たばかりとも言われる頃に教え子と恋に落ちるなんて。ましてや受験直前の彼にこの気持ちを伝えるなんて。そんなことは絶対に出来ない。

“あともうひとつだけ……。先生。お願いがあります”
 真っ直ぐ私を見つめてくる瞳は、思いつめたかのように熱意を訴えていた。
“なあに?”
 今にも泣きそうな潤んだ瞳を見て、私は平静さを装った。何を言っているのだと無表情に見返した。そうでもしていないと、教師の仮面をはぎ取り、もう少しで言ってしまいそうだった。私もあなたが好きなのよ、と。
“浴衣を着て来て下さいよ。見たい。先生の浴衣姿。きっと似合うから”
 彼の視線はいつからか熱を帯びたものになっていた。彼に触れられた身体の一部が特別な体温を持って残り、大事な場所になった。
 偶然に触れた部分すら。帰宅後、ベッドの中でまで彼の固い肌の感触と共に残っていた。誰にも気づかれる心配のない、確実に自分だけの空間の暗がりで。自分すら騙し、彼はそんな想像までするのか不明な年齢なのに、どれだけ否定をし続けても、自分の奥底から湧き上がって来る欲望を止められなかった。自分のさびしい夜の想像に彼を巻き込んで、そっと撫でたい衝動に駆られ、自慰(じい)という行為に落ちた。なんども、なんども。
 彼に微笑まれたら、なにかを考える前に自然に微笑み返していた。
 彼のどんなにくだらない話でも真剣に聞いた。
 夜遅くの相談と称し雑談の多い長電話であっても。家庭教師の授業のあいまの十五分間と決まっている休憩時間、派遣家庭教師は水しか貰わない決まりなのに、なにかのついでに買ってきたと差し出されるかわいいケーキも、笑顔に笑顔しか返せず、断われずに食べた。時間外の質問も、彼の家からは直帰の派遣仕事だったから、十分間だけよ、と聞いていた。
 すべてが嬉しくて。立場さえ忘れてしまうことがあった。
 わたしは、とっくに家庭教師失格だった。

 その次の週の平日の七夕の夜。わたしは彼のお願い通り、浴衣で行った。
 仕事帰りのたびにあちこちを見て回り、結局、近所のスーパーで浴衣セットを買って身につけ、美容院にまでよって完璧なお洒落をして、彼と待ち合せたバス停の傍の自販機前に時間通りに着いた。彼にジュースのペットボトルを買って貰い、手を繋いで河原に着いた。
 まるで恋人のようにじゃれあってはしゃいでいても、誰も私たちのことを疑わなかった。
 狭い町では、私が彼の家庭教師だと多くの人たちが知っていたけれど、彼らが少しのことで私たちを疑わないのは分かるのだ。だって当事者の私ですら、彼が私になど興味がないと信じて疑っていなかった。
 年齢差やお互いの立場の問題だけではなくて、彼には同じ学校の彼女がいた。同じ学年で同じ映画鑑賞部だという話を、まだ家庭教師派遣がはじめの頃のお互いの自己紹介的な雑談を交えていた話題の中で聞いていた。
 年齢差がある私には、彼のお気に入りのアニメーション映画の良さが分からない。彼が夢中で話す内容を楽しい気持ちで聞けても、具体的に付いていけないテンションだった。
 後でDVDを借りて来て観てみても、どこがおもしろいのか、彼がどの部分を思って、あんなにわくわくと繰り返し語れていたのか、私には分からない。でも、彼女なら、時間をかけて話を聞かなくても分かれるのだ。自分たちは同じだって喜び笑いあえ、最寄り駅のファミリーレストランのフリードリンクがあれば、お互いに共通する好みの映画や学校行事や受験の話題だけで、何時間でも粘って盛り上がれるのだ。
 彼の勉強机の傍の壁には、コルクボードにカラフルなピンで張られた、たくさんの写真が飾られている。その中の一枚のふたりのように、家庭教師の私と彼では写ることが出来ない。
 なにの迷いもなく、カメラを見つめVサインをして弾けるように笑いあうような時間は、私と彼が共有をすることは絶対に許されない。写真の一枚どころか、その片隅にも残してはならない。
 どちらかというと不真面目な学生に入るだろう彼には、お似合いだろう三つ編みと制服がよく似合う彼女がいるのも知っていた。その彼女が彼の部屋に何度か来たことがあるのも彼が選ばないだろう小物たちから分かっていたから……。
 彼がわたしを家庭教師としてではなくても、姉のように慕ってくれていると思っていた。恋愛対象として好きになってくれているとは思わなかった。

 その七夕の夜、私たちはたわいのないことに笑いあい、ふざけあい恋人ごっこを続けた。

“天の川ってどれかな?”
“あれ?”
“えー、あんなのなの?”
“先生は知らないの?”
“星なんて知らないわよ。天文学なんて学問まで、大学受験の家庭教師にあまり関係ないじゃない。”

 星なんてよく知らないっていう私を嬉しそうに見上げて彼は笑った。

“先生でも知らないことがあるよね”
“そりゃあるわよ”
“そっか”

 ふたりで降って来るような花火を見上げた。
 空全体に広がり輝き続ける贅沢な星たちをバックに咲く一瞬の花。
 黙って手を繋いで同じ方向を見上げていれば、世界には二人だけしかいないようで。
 握り締めた手のひらから伝わる彼の高めの体温は、自分のためだけにあるような気がして。
 このまま時が止まればいいのに、って、思った。

“やっぱり先生。浴衣似合うよ”
 彼は私より数センチ背が低くて。
 まだ伸びるわよと言っても気にしていた。

“ここでお別れしましょう?”

 七夕の夜。
 満点の空の下。
 私たちはお互いの両手を握り合って、見つめていた。
 周りからは音が消えて。通り過ぎていく人たちのことなんか気にならなかった。
 そのくらい好きだったのに。

“家庭教師は他の人に代わってもらうから、第一志望の大学に絶対に受かるのよ”
 無表情にわたしを見返していた彼は、勘違いをしただろう。
 私が彼の気持ちに答えられないから、彼の気持ちが迷惑だから、受験を制するために大切な夏の途中で辞めるのだと。
 私は自分の立場なんか捨ててしまいそうなほど、彼を好きになってしまったから辞めるのだなんて夢にも思わなかっただろう。

 初めて会った日。
“今日からビシバシしごくからよろしく!”
 そう言って微笑んだ私に。
“お手柔らかにお願いします”
 照れたようにはにかんで、あなたは手を差し出した。
 家庭教師として派遣先を訪ねて、自己紹介の挨拶で教え子から握手を求められるなんて。初めてだった。
“あ、こちらこそ”
 私が手のひらを差し出して弱く握ると、彼にぎゅっと強く握り返された。
“……細い手ですね”
 私を見つめて笑った顔が眩しくて。
 力強い腕や手やその指先が、圧倒されるくらい男らしくて。
 私は初めてあなたに会ったあの瞬間から、あなたのことが好きだった。

「さようなら」

 あれから毎年七夕になると、この河原に私はやって来た。
 同じ金魚柄の浴衣を着て、同じ美容院に寄って、同じように髪をお団子にして、お洒落にメイクをして。
 肩を並べて寄り添う恋人たちを眺めながら、花火を見上げた。
 この場所から花火が散っていく夜空を眺めていると、あなたのことを思い出す。
 あなたと過ごした時間は、合計してみれば、たったの九回の授業だ。十回にも満たなかったのに。
 こんなにも今も私を縛り付けて放さない。

 あの日、あなたは振り向いて言ったね。
“僕が大人になってもまだあなたのことが好きだったら、本気で考えてくれる?”

“そんなことないよ。数ヶ月もしないうちにあなたは私のことを忘れるから”

「さようなら」

 七夕の夜。この日だけ私は泣く。あの恋を思い出して涙を流す。
 金色の星のように降ってくる花火を首がいたくなるほど見上げ、誰もいない隣を感じて涙を流す。
 あれからもう三度目の夏が来るというのに。
 ちっとも思い出なんかにならない。
 思い出になるどころか、七夕の夜が来る度に記憶は鮮明になり、新しい傷となって心に刻み込まれる。

「さようなら」

 何度心の中で呟いても。

「さようなら」

 どれだけあなたの去っていく背中を思い出してみても。
 忘れられない。

「……忘れられない」
 声がした。
 振り返ると背の高い男の人。
 その人は私の目の前に立って。
「やっと迎えに来られた」
 そう言って笑った。

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