七夕便り (1)

花火

前編
後編

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前編


「さようなら」
 七夕の夜になると思い出す。あの夏の痛み。あの日の体温。熱を帯びた彼の瞳。

 ――先生、七夕の夜、河原まで花火を見に行きませんか?
 地元の広い河原では、七夕の日に花火大会が毎年行われていた。河原は市内の中心部から離れた場所にあったけれど、私と同じ市内に住む彼の家があった最寄り駅からはバスで三十分程度だった。
 田舎の小さな町で行われる花火大会は、夏の一大イベントと言っても過言ではないほどのお祭りだった。
 商店街の主催で行われ、各店がこぞって店先を賑わせていたし、綿菓子やたこ焼きやりんご飴などのお馴染みの屋台も河原に続く道までいくつも並んでいた。翌日になれば、市内で一番の人出だと、地元の新聞やラジオで毎年のことなのに、飽きることなく報じられていた。
 東京に暮らしている今となっては、それほど盛大だったと思えないけれど、たいした行事がなかった地元では、初詣やクリスマスイブの催し物よりも、若者たちに楽しみにされていたのは間違いない。
 私は彼にそんなことを言われると思っていなかったから、参考書から視線を上げてまじまじと瞳を見つめ返した。彼は細長い真剣なめで睨んできた。
 彼は高校三年生の夏。受験真っただ中だった。彼には地元の国立大学に合格をして教師になりたいという夢があった。私はその同条件を満たす同年代の家庭教師として、ご両親に何人かの候補の中から選ばれ、家庭教師センターから派遣をされていた。彼のご両親は、派遣の契約前の相談日に「息子の希望を叶えてやりたい」と熱心に語っていた。まだ若い私にご両親のどちらともが会うたびに笑顔を向けて丁寧な挨拶をしてくれた。
 週末三時間に三科目を教えるだけでは、彼の成績で合格に導くまで苦しい状況だったけれども、全力で教えようと心に決めて請負った。
 ――いいわよ。息抜きになるからね。
 彼の目をじっと見つめ返した後、なんてことのない顔で笑って返した。
 ――そういう意味で誘ったわけじゃありません。
 彼は頬杖をついていた私の手首を強く握った。私の指からシャーペンが音を立てて落ちた。
 ――ずるい。僕の気持ちを知っているくせに。
 彼の唇は細かく震え、握り締められた手のひらにも伝わって来た。その手をどれだけ握り返したかったことか。
 ――冗談を言わないで。
 声が上ずらないようにするだけで精一杯だった。
 家庭教師になって三年目。二十五歳になるのに、八歳も年下の高校生の男の子に本気で惚れたなんて言えなかった。
 だって私は、お小遣い稼ぎのアルバイトで家庭教師をしているお気楽な大学生たちとは違う。派遣社員だ。いわばプロの家庭教師だ。私が高校生の頃には彼のような憧れの職業はなかった。大学受験をする頃、国公立大学でも学費が随分することに驚いた。電卓ばかり叩いている毎日が嫌だった。安定した職業として、すぐに思いついたのが教師だった。この仕事で一生を食べていく覚悟だと宣言をして、予備校に通わせてもらった。
 希望の国立大学の教育学部に合格をしてからも、勉強と塾の点数付けのバイトしかないような繰り返しの日々を頑張って来た。
 年長者が多いこの業界では、“まだ”三年目だ。事務所に顔を出すたびにそう言われる。仕事に慣れて来たばかりだから丁寧にひとつずつ仕事をこなせ。挨拶する時の笑顔や姿勢、報告書面の中身を細かく注意される。そんな私が教え子と恋に落ちるなんて。ましてや受験直前の彼にこの気持ちを伝えるなんて。絶対に出来ない。
 ――あともうひとつだけ……。先生にお願いがあります。
 真っ直ぐ私を見つめてくる瞳は、思いつめたかのように熱意を訴えていた。
 ――なあに?
 今にも泣きそうな潤んだ瞳を見て、私は平静さを装った。何を言っているのだと無表情に見返した。そうでもしていないと、教師の仮面をはぎ取り、もう少しで言ってしまいそうだった。私もあなたが好きなのよ、と。
 ――浴衣(ゆかた)を着て来て下さいよ。見たい。先生の浴衣姿。きっと似合う。
 彼の視線はいつからか熱を帯びたものになっていた。彼に触れられた身体の一部が特別な体温を持って残り、大事な場所にもなった。
 今のように手を握られたからじゃない。偶然に触れてしまっただけの部分すら……。
 帰宅後、ベッドの中でまで彼の固い肌の感触と共に残っていた。どれだけ否定をしても、その部分をそっと撫でたい衝動に駆られた。自分の奥底から湧き上がって来る欲望を止められなかった。誰にも気づかれる心配のない、確実に自分だけの暗がりの空間で、自分すら騙しきり、彼はそんな想像までするのか不明な年齢なのに、さびしい夜の慰めに彼を巻き込んだ。自慰(じい)と呼ばれる行為に落ちた。なんども、なんども。
 彼に笑いかけられたら、なにかを考える前に自然に微笑み返していた。
 彼のどんなにくだらない話でも真剣に聞いた。
 夜遅くの相談と称した雑談の多い長電話。家庭教師の授業のあいまの十五分間と決まっている休憩時間。派遣家庭教師は水しか貰わない決まりなのに、なにかのついでに買ってきたと差し出されるかわいいケーキ。
 笑顔に笑顔で返すことしかできずに食べた。時間外の質問も、彼の家からは直帰の派遣仕事だったから、十分間だけよ、と聞いていた。全部すべてが嬉しくて、自分の年齢や立場さえ完全に忘れてしまうことがあった。
 わたしは、とっくに家庭教師失格だった。

 その次の週の平日の七夕の夜。私は彼のお願い通り、浴衣で行った。
 仕事帰りのたびにあちこちを見て回り、結局、近所のスーパーで浴衣セットを買って身につけ、美容院にまでよって完璧なお洒落をして、彼と待ち合せたバス停の傍の自販機前に時間通りに着いた。彼にジュースのペットボトルを買って貰い、手を繋いで河原に着いた。
 まるで恋人のようにじゃれあってはしゃいでいても、誰も私たちのことを疑わなかった。
 狭い町では、私が彼の家庭教師だと多くの人たちが知っていたけれども、彼らが少しのことで私たちを疑わないのは分かるのだ。当事者の私ですら、彼が私になど興味がないと信じて疑っていなかった。
 年齢差やお互いの立場の問題だけではなくて、彼には同じ学校の彼女がいた。同じ学年で同じ映画鑑賞部だという話を、まだ家庭教師派遣がはじめの頃、お互いの自己紹介的な雑談を交えていた話題の中で聞いていた。
 私には、彼のお気に入りのアニメーション映画の良さが分からない。彼が夢中で話す内容を楽しい気持ちで聞けても、具体的に付いていけないテンションだった。後でそのDVDを借りて来て観てみても、どこがおもしろいのか、彼がどの部分を頭の中に描いて、あんなにわくわくと繰り返し語れていたのか、私には分からなかった。
 でも、彼女が話し相手だったら時間をかけて話を聞かなくても分かれるのだ。自分たちは同じだと喜び、笑いあえる。最寄り駅のファミリーレストランのフリードリンクがあれば、共通の好みの映画や学校行事や受験の話題だけで、何時間でもお店で粘って盛り上がれるのだ。
 彼の勉強机の傍の壁には、コルクボードにカラフルなピンで張られた、たくさんの写真が飾られている。その中の一枚のふたりのように、家庭教師の私と彼では写ることが出来ない。
 なにの迷いもなく、カメラを見つめVサインをして弾けるように笑い合う時間すら共有することを許されない。
 記念写真の一枚どころか、その片隅にも写ってならない。
 どちらかというと不真面目な学生に入るだろう彼には、三つ編みと制服がよく似合う彼女がお似合いだ。
 その彼女が彼の部屋に何度か来たことがあるのも分かっていた。彼が選ばないだろう小物たちがあったからだ。
 彼が私を家庭教師としてではなくても、姉のように慕ってくれていると思っていた。恋愛対象として好きになってくれているとは思わなかった。

 その七夕の夜、私たちはたわいのないことに笑いあい、ふざけあい恋人ごっこを続けた。
 ――天の川ってどれかな?
 ――あれじゃないかしら?
 ――えー。そうかな? 先生は知らないの?
 ――星なんて知らないわよ。天文学なんて学問まで、大学受験の家庭教師にあまり関係ないじゃない。
 星なんてよく知らないっていう私を嬉しそうに見上げて彼は笑った。
 ――先生でも知らないことがあるよね。
 ――そりゃたくさんあるわよ。
 ――そっか。
 ふたりで降って来るような花火を見上げた。
 空全体に広がり輝き続ける贅沢な星たちをバックに咲く一瞬の花。
 人混みの中、黙って手を繋ぎ、空を仰いで握りしめ合った。握り締めた手のひらから伝わる彼の熱めの体温は、私のためだけにあると思えた。同じ方向をじっと見上げていれば、一緒にどこかに行けってしまえる気がした。
 少なくとも綺麗な花火のように私と彼でも輝ける気がした。今、世界には二人だけしかおらず、花火さえ終わらなければ、この関係が許されると錯覚をしそうだった。このまま時が止まればいい。それだけを願った。
 ――やっぱり先生。浴衣が似合うよ。
 はにかんでそう笑った彼は、私より数センチ背が低かった。まだ伸びるわよ、と言っても気にしていた。
 ――ここでお別れしましょう。
 七夕の夜。満点の空の下。私たちはお互いの両手を握り合って、正面で見つめ合っていた。
 周りからは音が消え去り、通り過ぎていく人たちのことなんか視界に入らず、ちっとも気にならなかった。
 そのくらい好きだった。
 ――家庭教師は他の人に代わってもらうから、第一志望の大学に絶対に受かるのよ。
 無表情に私を見返していた彼は、勘違いをしただろう。
 私が彼の気持ちに答えられないから、彼の気持ちが迷惑だから、受験生にとって勝負時の夏の途中で家庭教師を辞めるのだと。
 私は自分の立場なんか捨ててしまいそうなほど、彼を好きになってしまったから辞めるのだなんて夢にも思わなかっただろう。

 初めて会った日。
 ――今日からビシバシしごくからよろしく!
 そう言って微笑んだ私に。
 ――お手柔らかにお願いします。
 照れたようにはにかんで、あなたは手を差し出した。
 家庭教師として派遣先を訪ねて、自己紹介の挨拶で教え子から握手を求められるなんて。初めてだった。
 ――あ、こちらこそ。
 私が彼の手のひらを弱く覆うと、ぎゅっと強く握り返された。
 ――すごく……細い手ですね。
 私を見つめて笑った顔が眩しくて。
 力強い腕や手やその指先が、圧倒されるくらい男らしくて。
 私は初めて手を握り合った時から、あなたのことが好きだった。

「さようなら」
 あれから毎年七夕になると、この河原にやって来た。
 同じ美容院に予約をして行って、同じ金魚柄の浴衣を着て、髪をお団子にして、地味でも大人っぽくお洒落なメイクに仕上げて貰った。
 暑い中でも肩を並べて河原で寄り添う恋人たちを眺めながら、あなたのことを思い出した。
 夜空に花火が浮かび上がって行く。この場所で同じ格好をして首が痛くなるほど見上げていると、あなたが隣で笑っているような気がした。七夕の夜の花火の時間だけは、私と彼だけのものだと何度でも思えた。
 あなたと過ごした時間を合計してみれば、たったの九回の授業だ。十回にも満たなかったから二十七時間。こんなにも今も私を縛り付けて放さない。
 あの日、あなたは振り向いて言ったね。
 ――僕が大人になってもまだあなたのことが好きだったら、本気で考えてくれる?
 ――そんなことないよ。数ヶ月もしないうちにあなたは私のことを忘れるから。
「さようなら」
 七夕の夜。この日だけ私は泣く。あの恋を思い出して涙を流す。
 金色の星のように降ってくる花火を首がいたくなるほど見上げ、誰もいない隣を感じて涙を流す。
 あれからもう三度目の夏が来るというのに。ちっとも思い出なんかにならない。
 思い出になるどころか、七夕の夜が来る度に記憶は鮮明になり、新しい傷となって心に刻み込まれる。
「さようなら」
 何度も心の中で呟いても。
「さようなら」
 去っていくあなたの背中をどれだけ思い出してみても。
「さようなら」
 忘れられない。
「だめ。……忘れられない」
 声がした。振り返ると背の高い男の人がいた。その人は私の目の前に立って、
「やっと迎えに来られた」
 そう言って笑った。

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