雲の下のポスト (2)

第二話


 香と駅で別れて家までひとり帰った。狭い一軒家の二階、四畳半しかない自分の部屋の勉強机の椅子に座り、机の上にあったノートパソコンや参考書を隣の本棚の上にどかし、彼が見たらファンシーだねと言いそうな柄の紙袋からレターセットとボールペンを取り出した。どれも値段はお安くない。けちる気にはならなかった。
 彼に会うと、うまく言葉にできないことを伝えるためにレポート用紙に下書きを何枚もして清書しようとした。
 きちんとまとめてきれいに書こうなんて考えているから、いつまで経っても手紙が書きあがらなかったのだ。
 ボールペンを握りしめてしばらく何も考えられず、目の前のベージュの壁を眺めていた。
 本気になってはならない恋だった。
 不道徳な関係の恋だったからではない。彼が一度経験した大恋愛は、自分の仕事や相手の体調等で思うようにいかなかった。彼女は他の男性を選び、彼とは結ばれなかった。二度と同じ思いはしたくないから、と言っていただけだ。
 彼は私に本気にならない。だから、私も彼に本気になってはならない。心から好きになってはならない。
 毎日会うことや結婚や同居。彼と付き合うのなら、そんな結果を望むようになってはならなかった。
 どうして……。その理由は聞いたのに。でも……。だったら、なになのだ、彼にどう伝えたいのだ、そんな風に考えているだけで。
 ボールペンを握りしめ、一行目を書いてもいないのに泣けてきた。
 ――それでも、君に毎週会いたい。僕も多くのことを望まないから。
 自分の知り得るすべての褒めことばをつくして、称え(たたえ)たくなる彼の微笑みを見ていたかった。
 だから、私は望まない。本気になんてならない。
 彼のマンションの部屋のリビングのソファーに並んで座り、笑って答えられた。
 青いボールペン。固くない芯でできている。便箋の上に落ちた涙に文字が流れて行く。
 本気になってはならない思い。はじめからそう決めて付き合い出したことが間違っていたのだろうか?
 ――僕に本気になってはならない。恋愛の本気というのは、雲がかかったように苦しい。分かってくれる?
 言っていること……。彼が言っていたこと。分からないってことない。
 私だけではなくて。かいつまんだ話を聞いてくれた香だけでもなくて。彼が言っていたこと、言わんとしていたこと、多くの人たちが分からないってことは絶対にない。
 分かれない、ということを自分に言わないで欲しい、求めないで欲しい、苦しくなってしまうから……。
 彼が言いたかったことのすべてまで分からなくても、それだけは分かったと私が思ったように、一般的に通じないってことない。休日の帰りの電車でにぎやかに笑っている人たちが同じ意見だと言うと思えなくても、私が彼といたいのだからいい。
 でも、期待もしていた。
 彼に会いに行くためだけに電車の往復だけで二時間、私は使う。最短の合計以上の三時間は欲しい。私と会ってくれるのは三時間以上、たいした内容でなくても、彼の顔を見て話していたいと思っていた。
 自分から惹かれて。はじめに彼の部屋でケーキと一緒にお茶を出して貰って。告白のようなことをして。彼からそうやって言われて、自分でそれでいいと決めてはじめたことだ。
 私が彼と付き合って行くことで、彼の過去の苦しかった恋愛の別れの記憶も時間をかければ薄れて、彼の考えが変わっていくことがあるかもしれないと。いや、あるだろうと思っていた。信じていた。勝手に決めていた。
 いつの間にか本気になっていたから。
 認めても泣かない。もう決めたことだ。ボールペンを握り締め直し、大学でノートをとるように書き始めた。


 竹下さんへ
 今までわたしと付き合って下さりありがとうございました。
 最後に色々と手紙に書こうと思いました。それでは約束が違うし、私は変わりたいのでやめました。
 さようなら。


 机の上の青い封筒をズボンのポケットに入れた。いつものリュックを背負って階段を降りる。
「ちょっと手紙を出して来る」
 あら、今日は起きるのが早いのねえ、と母の声が返ってくる。台所で朝食の準備をしている母しかこの時間には起きていない。大きめな声でそれだけ言って、スニーカーを履いて玄関の扉を開けた。
 家の前から続く住宅街の坂道を上りながら、空を見上げて歩いた。雲がかっている。太陽の光が指してはいても、出ていない。
 坂を登りきったところで信号のない横断歩道を渡る。車も人もまばらだ。左右をよく見ることもなく渡り、赤いポストの前に立ち、ズボンのポケットの中から出した便箋と同じ色合いの青い封筒を眺めていた。
 竹下さんの住所、貼った切手、裏に張ったカモメが描かれている金色の丸いシール。その下には、自分の名前だけがある。何も考えられず、裏表を何度もひっくり返してただ見ていた。
 本気になってはならない恋。
 自分に同じ思いの重さを求めて欲しくないし、過去の恋愛経験から自分に本気になって欲しくない人は他にもいるはずだ。
 でも、私と彼もその中の一組だったというのだろうか? 同じ部屋で何度も会ったり、お昼ごはんやケーキを食べながら色んな話しをしたり、抱きしめあったり。誰にも相談ができなかったことを話して泣いて。夕方まで一緒に布団の中で寝たこともあった。それでも、本気にならない、それ以上を求めない、決められるものなの?
 ポストの前に立ち、彼のために選んだ青い色の封筒を手にした今になって泣けて来た。
 そうやって言われた時には、竹下さんのことをとっくに好きだった。断われる?
 結婚、同居、大学生三年生で実家住まいの私がまだまだ望まない。でも、先は分からない。
 何年後だろうと、私たちは止まってなければならなかった。私が分からないままでいなければならなかった。
 いつかも、ずっとも、先の約束もなくても竹下さん。私とのことも恋愛だったと言ってくれるでしょう?
 香以外の人にこの話をしたら、私と彼との恋愛は、浅はかな関係でしかなかったのだろう。
 昔気質の専業主婦の母や公務員で固い頭の父に話せる恋愛では全くなかったのがその証拠だ。
 恋愛という名の行為に落ちただけだったのでしょう。それでも。そうだったと自分自身が認めても……。続くことばが見つかりはしない。
「ばかだな……」
 彼とのことを振り返って、思いのたけを吐き出すことばすら見つけられず、泣くことしか私というやつはできないらしい。決心したと言いつつ、ポストの前で別れを継げる手紙を強く握りしめて立っていることしかできない。
 泣いて、泣いてしまおう。彼が本気の恋に例えていた、雲がかかった日に。
 結局、朝方まで何回も書き直し、便箋はなくなった。封筒だけが三枚も残った。投函をして帰ったら、ファンシーな紙袋に入れて捨ててしまおう。彼に謝って欲しいのではないし、お礼を言われるのも違うと思う。
 私は、お互いが本気になる恋をしたいから、終わりにする。
 恋愛だったと言って貰えるのかどうかも分からない、彼とのことは思い出にもしてあげない。捨てるのだ。
 目に光がちかちかと反射したようになり、瞬きをして空を斜めに見上げた。
 白い雲が流れて行ったのだ。雲は止まっていなかった。
 太陽の下にいるままではなく、流れて行ったのだ。
 涙をトレーナーの袖で拭き、封筒をポストに投函した。小さな音を立ててふたが締まり、静まり返る。
 私の後ろを車が走って行く。白い雲も向こうからまた流れて来る。泣くのをやめよう。また太陽が雲の下に隠れてしまう前に。誰も私を見ていないうちに。太陽の光が降り注ぐ急坂を下り出した。
 今日、学校で香に会ったら、大好きだって言って抱きしめよう。
 来春には、大事な思い出がたくさん詰まったケーキ屋に勤める。彼はもう来てくれないだろうけれど、元気な笑顔で接客をしよう。
 そして、あきらめることなく、また誰かに恋をしよう。
 私の真上にちょうどある太陽と雲のような、好きな時も嫌いな時もあっても、無くてはならない関係になれる恋を選ぼう。
 誰かと出会い、止める必要のない思いを時に刻んで行く。
 太陽から一文字を取った、陽子という名前の私は、そうあるべきだ。

【おわり】
矢印過去サイト作品・2019改稿版(初稿2009-04)

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