春に見た最後 (3)

第二話 - 2 頁


 温かいものなど奢ってくれなくていい。真野君のお家が見たい。
「ホットドックで良かった?」
 トレーから生クリームが浮かぶカップを前に置かれる。私の飲み物の好みまで覚えてくれた。
「ケチャップ」
 大きいお皿に並べられたホットドックを見て呟く。真野君の方にはマスタードもかかっている。
「からいのはダメなのだろ」
 ちいさい喫茶店の窓際。向かいの席に座った真野君におしぼりを差し出される。
「ありがとう。真野君はコーラだよね」
「今日は寒いからコーヒー! ハンバーガーが食べたかったのではなかったの?」
 首を振る。それは友だち。真野君の前でハンバーガーを大口あけて食べられはしません。
「うち一軒家じゃないし、たいしたマンションでもないだろ」
「そういうことでもないの。これも青春の青」
 どれだけ時間がかかったことでしょう。真野君を知り、好きになり、クラスメイトになり、向き合って座り、同じホットドックを一緒に食べられるようになるまで。
「ちょっと違うと思うけど。お腹が空いた。食べよう」
 いただきます、小さくしか言えなかった。頷き返した真野君は、ホットドックの周りの包み紙を器用にめくって食べ出している。私はそんなにきれいに食べられるかな?
「私のうちは一軒家だけど、ぼろいよ。真野君のお家の場所を知りたかっただけなの」
 頷いている。分かっていたよね。なのに、奢ってくれてもしまうの? 私が泣いたから?
「あ、国大のパンフレット。忘れないうちに渡しておく。最新の過去問題と解説も一年分はついている。三年分は対策としてやった方が良いと言われている。あとは予備校で買って」
 斜め掛けのバックから出される。予備校のロゴが入った封筒。過去問もついてくる?
「え? 買ってくれたの?」
「そういうことを言わない。参考書や解答を見ずに直前講習までに解いて来て。点数くらい付けてあげる。予備校で講師の手伝いのバイトをしている大学生たちがいるから、帰りに申し込めば、その日は無理かもしれないけど、個別の相談も出来る」
 え。解いて来るの? 私、出来そう? 自分の部屋でも出来なければ、本番に解けるわけがないよね。
「時間まで気にすることはないから、全問を正解するつもりで頑張ってみて」
 前に置かれた白い封筒を手に取ると、“国大 教育学部”とパンフレットに印刷されているのがすけて見えた。真野君が帰りに少しは勉強を見てくれる、と言っているのは分かる。だから、解いて来るね、と言い返したかったけど、言えなかった。声が出て来なかった。
「うん……。ありがとう」
 食べている真野君の目を見て言えた。封筒を持った手が震えて来た。
「さっきも聞いた」
 そうだけど、さっきのありがとうと、今のありがとうは違うよ。
 真正面に座って話すの、はじめてなの。バスではつり革を引っ張って隣にいても、正面から真野君の顔を見たことはなかった。その真っ直ぐな目が好きなのに。知らないでしょう?
「また泣く」
 ため息をついてコーヒーをかき混ぜている。だって、真野君。今日までコーヒーにお砂糖とミルクを入れるのも知らなかった。私はしょっぱいよ。高いロイヤルミルクティーを頼んで来てくれたのに。
「いつもボスのブラックを飲んでいるでしょう?」
「バス停のところの自販機、他にない。屋上、寒かった。いつもと変えたら悪いの?」
 笑っている。そういえば、ミルクと砂糖入りのコーヒーは売っていないのかな?
「ううん。ここは特等席だね。真野君のマンションを眺めるの」
「眺めてどうするわけ?」
 分からない。こんな話自体、二度と出来ると思えない。今日は特別。自分で真野君のお家を見たいと言っておいて、その後にどうしたいとも考えていなかった。この展開について行けない。
 でも、一日で叶えられてしまった。真野君とやりたいって思っていたこと。
 学校の屋上で青空を眺めて、帰りの喫茶店で語らって、何かで泣いたら慰めて貰うの。
 真野君のお家の前に喫茶店があったら、ずっとでも眺めていると思っていた。ここに居座ってうまく情報を貰って、真野君のお部屋はあそこかな? ベランダからひょっこり顔を出してくれないかな? 私に気が付かなくていいから、少しでいいから変わらず真っ直ぐな姿が見たい、と願って眺めている。
 そう思う私はおかしいの? 聞けない。ううん、それいいと思う、なんて答えてくれないでしょう? それでどうなるわけ? って、どうにもならないから、眺めているの。気が付かれなくていいの。気が付かないで欲しいの。そんな私に気が付いたら、ここでのふざけた話もなくなりそうだ。とっくに学校で私がそんなことをしていると知ったら……。悪いの?
「小牧。どうした?」
 分からない。今すごく泣きたいの。真野君がやさしいから。こんなにそばにいられるから。
「ごめん。情緒不安定だから」
 ホットドックを頬張りながら、手の甲で涙をぬぐう。おかしい私は嫌いになるでしょう?
「みんなそうだって」
 真野君も不安で泣きたくなることがあるの? 牧先生が結婚をせず、自分を選んでくれたらと考えもした?
「今日は予備校の日だから、一旦(いったん)、家に帰らないとならないし、ゆっくり話を聞けない。直前講習を受けた後なら、一時間くらいは自習して帰るから少しは聞ける」
 いいえ。あなたのことで悩んでいるのであって、入試のことで悩んでいません。
「お前は女友だちと笑っている方が似合う」
 どきんと指先にまで響いた。今の“お前は”という言い方に。だって違った。
 いつもよりトーンが低い声としか言えないけど、一気に距離が縮まったような言い方だ。
「うん。邪魔しないよ」
 分かっている。国大も外語大も私に無理そうなこと。担任の牧先生に勧められた女子大の受験も、ラストスパートで頑張らないとならないこと。だから、本当に邪魔はしないよ。真野君の友だちのひとりでいいとか、なにの関係でもいいとか思えなくても、傍にいたいの。
「一時間くらいは大丈夫。俺がそう言ったことは信じてくれる?」
 真顔できつく言われたせいで思わず頷いてしまった。何を信じると言われたの?
「でも、私が平気だと言ったことは、信じてくれないのでしょう!」
「どう見ても平気でないだろ」
 そうかもしれません。頬へのキスのせいで涙腺が緩んでしまって涙が止まらないし、どういう展開なのかよく分からないし、心臓も頭の中も全く平気でない。でも、真野君といれば平気なの。
「零点を取らないように頑張って解いて来る」
 ごめんね、今迷惑をかけている。でも、他のお客さんも見ず、私だけを映す目から逸らしたくない。
「うん。零点は取らないで欲しい」
 少し笑って片付けている。それはさすがに冗談だけど、合格の七割の点数が取れるとは思えない。


 真野君の住むマンションの前のバス停で並んでバスを待っている。
 一緒に待ってくれることまではないのに、すぐに来るからって、時刻表を見て隣に立っていてくれる。
 その事実だけで涙も吹き飛ぶ私は、やっぱりゲンキンなのでしょうか。
「送れないけど。もう泣かない?」
 手をつながれて見上げる。じっと見降ろされる。今日の真野君は、同級生の男子ではなく、男の人だ。
「真野君もひとりで泣かないでね」
 みんなと同じなら真野君も泣きたいはずだ。学校で教師の顔をしておいて、あんな光景を見せつけるなって、ひとりで悲しまないでね。私がいるよ、とまで言えないけど、真野くんが怒りも出来ないことくらい分かっているよ。手を強く握り返した。
「お前が一緒に怒ってくれたから大丈夫」
「え?」
 向こうから来るバスを見ている。私が怒った? 態度に出した覚えがないよ。はっきり言って、牧先生は教師失格だと思っていたけど、そんな風に言ったら真野君が怒るのでもなくて、悲しみそうだった。
 真野君の分まで怒っていると思ってくれていたの? 自分も同じに思うって、私の方を振り返らなくても見ていてくれたの? 今の台詞は、真っ直ぐ見て言ってくれませんか。
「もう言わない」
 恥ずかしそうに見下ろして来る真野君を抱きしめたい。言葉に出来なくて、下手をすれば、嘘をついていることになりそうな会話も、このまとまりのない思考もみんな真野君のせい。
「あの領収書、貰ってもいい?」
 スケジュール帳に挟んで持って来た。渡し忘れていただけだけど、返さなくてもいい?
「別にいいけど。ほら!」
 繋いだ手をゆすって向こうを見られる。運転手が覗き込むようにして見て来る。手を離された。目が合うと視線で促される。このバスに乗る人は、私しかいないのだった。階段を駆け上がる。
「小牧、嘘だよ。帰ったらメールをして」
 カード清算をして、振り返った途端、バスのドアが閉まる。なにがうそ?
 バスががくんと揺れて手すりにつかまった。小窓の向こうで真野君が手をあげて携帯電話を指さしているのが見えた。あ、メール。別にいいけど、じゃないの。
「うん!」
 みんな真野君のせいがいい。絶対に、今までで一番の笑顔で手を振り返した。

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