春に見た最後 (1)

第一話 熱いハート


 今日の質問は、帰りのバス停までに彼を捕まえて、絶対に聞かねばならない。
「はーい。冬休みの話はおしまいにして聞いて下さい。終業式の予定は……」
 担任の牧先生が両手を叩いて、黒板に今後の予定をカラフルにチョークで書いて行く。
 周りと同じように私もシャーペンシルを握り、スケジュール帳を広げていた。最前列中央の席の真野(まの)君は、親指と人差し指で挟んでくるくると回しながら聞いている。
 真似をしたら落とした。隣の席の佳代ちゃんが拾ってくれる。私は彼と同じに出来ない。
 春夏秋冬。気が遠くなるほど幾度の季節が巡った。この高校に入学をし、衣替えをし、似たような行事や遠足を繰り返し、自由席に揉めて来た。でも、既定の制服で校門をくぐるのは、次の桜が舞う春が最後だ。
 来年には、音楽で練習している校歌と合唱曲を歌い、卒業アルバムを受け取り、カラオケボックスで打ち上げをする約束を果たし、社会人になるためにそれぞれの道へ進んで行く。
 その前に。私には、大学受験が待っている。忘れてはいない。
 スケジュール帳を閉じてペンケースと鞄に仕舞いながら、斜め前の席の真野君の背を捕らえる。私の隣の席の市村君と話して立ち上がるのと同時に鞄を引っつかむようにして立ち上がった。まだ黒板を写している佳代ちゃんに手を振り、廊下に走って追いかける。
 担任の牧先生と並んで歩いて話している真野君の後ろになんとかつけた。後から来たクラスの人たちと一緒に下駄箱まで歩く。私の前で真野君は、仲よしの市村君と話している。
「牧先生、この時期にめでたすぎますね」
どんなにたくさんの人の声が聞えたって、真野君の綺麗な声は気が付くことが出来る。
 今、真野君は、牧先生にやさしく温かい笑顔を向けている。見なくても分かる。牧先生に話しかける時だけは、いつもよりワントーン高い声になるし、その時だけ見せる表情だからだ。その笑顔を永遠に記憶に留めておきたい。私に向けられることはないから尚更だ。
 細く息を吐いて視線を落とした。予備校の日だから斜め掛けの鞄が膨らんで重そうなのも知っている。今日こそ絶対に聞く。
「めでたいのだかなんだか。この時期だと、みんなに心配をかけてしまっているから」
 そう言いながらも牧先生は笑顔だ。大きいお腹を抱えて手すりにつかまり、生徒たちに囲まれながら、先にゆっくりと降りていっている。さっきのホームルームで副担任まで来て、みなさんに大事な話がありますと改まって教団に向かった時、目の前の真野君はどんな気持ちだったのだろう? 予想通りだった? そんなはずはない。真剣な顔過ぎた。私すら何を言い出すかどきりとした。出産が近いから、受験前直前でも終業式以降は産休だってさ。
 私にとっては、そんなことはどうでもいいようなものだ。無事に出産をして下さいと思うくらいのことだ。でも……。少し視線を上げた。真野君は模範生。みんな学校の規定通り。
 紺のブレザーにパンツ、アイロンが掛かった真っ白なシャツ、赤と緑と銀色のストライプのネクタイ。短く切りあげた髪は、黒く真っ直ぐ(まっすぐ)だ。自由な鞄も紺色だけで地味だ。
 でも……。牧先生に褒められたい生徒のため、受験後におめでたになるべきだ。
 唇をかむ。荒れている。スカートのポケットからリップクリームを出して塗りながら、真野君の真後ろで階段をのろのろと降りる。私は知っている。真野君が牧先生を好きなこと。
 誰かに何かを聞いたわけじゃないし、もちろん本人がそんなことも言わない。そうでも、彼の視線の先は、いつも先生だ。はじめに好きになった時から、牧先生だけを見ていた。
 英語のグラマーの先生。文法は成績順のクラス。当然、真野君は、牧先生の特進クラス。
 真野君は、結婚している牧先生と、どうなりたいと考えていなくても、誰も超えられない憧れの人だ。立派な教師だと尊敬をして好きなのだ。卒業しても変わらない。ずっと好きだ。
「卒業式には、みんなの勇士を絶対に見に来るわよ。気をつけて帰ってね」
 終業式前日のホームルームでおめでたの産休報告をして、この後は副担任に任せると黒板に予定をすらすらと書きあげた。本当に出来るか分からないくせに。そう言ったら、真野君は牧先生だけを待つのに。
 絶対に、卒業式にはみんなを見送りに来るなどと言うべきじゃない。無責任な約束をして、さようならとまで言って、職員室に笑顔で消えられる神経が分からない。真野君の好きな牧先生のままでいて欲しい。
 だから、おめでたになるのは、教師として、受験生を見送った後であれ! 生徒たちに心配をかけていると本当に思うのなら、謝るべきだ。
「じゃあな! 俺は、最後まで青春して行く!」
 既にジャージ姿の市村君が手を振って先に校庭に走って行く。下駄箱を開けて見ていた。
「真野君、予備校に行くのでしょう? 私も、直前講習を申し込みに行くの。今日が締め切りだからね、一緒に行ってもいい?」
 学校内で彼と唯一並びになれる下駄箱が好きだ。後は全部、後ろか斜めからの角度だもん。
「いいけど。わざわざ言わなくても、バスで行くのは同じだろ」
 笑顔もなく私を見下ろしてそれだけ言うと、ローファーに履き替え、さっさと歩き出した。
 彼の後ろを駆け足になってついて行った。そんな風に言うことないじゃない。
 私の気持ちは分かっているし、答えられるものではないし、重いかもしれなくても、迷惑までかけないからさ。一緒にこんな風に歩ける時間は残り少ないかもしれないのだから。

 バス停に人はいなかった。肌寒いのを超える。冬休み前だ。規定のマフラーを巻き直した。
 真野君は、隣に立ってさっきまで時刻表を見ていたのに、既に参考書を開いている。私はそれに合わせるようにして英単語の本を鞄から出して捲った。今、熟語なんて頭に入らない。
「あのさ、真野君は、予備校でも特選クラスだよね?」
 学校の近くにある大手の予備校は、入会時に試験があり、成績順で分けられているのは、友だちが話していたから知っている。でも、直前講習は分けられない。同じ教室に通える。
「そう。小牧(こまき)は直前講習を一週間だけ受けて、センター試験を迎えるの?」
 淡々とした、あるいは呆れたというような声。でも、めげない。笑顔を向け続けること。
「うん。私も真野君を見習って最後は頑張らないと」
 斜めに見られて少し視線が合う。背が高めの真野君。黒ぶち眼鏡がよく似合う真野君。成績が常に上位の真野君。背は小さく、セーラー服が似合わず、成績もイマイチ。反対の私。
「俺を見習ってどうするの? さっきの市村の言葉を貰えば、受験も青春だろ」
 受験も青春。真っ直ぐな目。それを本気で言っている真野君は、かっこいいです。
「市村君たちとは、大学が離れちゃうの? あ、私、話すなってね」
 口に手を当てる。参考書を読んでいたのだった。でも、ここで話させて欲しい。バスで隣の席にまで座るほどの度胸はない。そもそも真野君が私に空席を教えてくれても座らない。
「あいつは体育大に推薦入学が決まっている。他の仲いい奴は志望校を決め切れないらしい。小牧もそうだったりする?」
 バスが向こうからやって来る。パスケースを鞄のポケットから出す時、目が合った。今だ。
「私、真野君と同じ大学の学部を受けちゃダメかな?」
「別にいいけど」
 あ、良いのか。悩まず返されてほっとした。それだけで見下ろしていないで欲しい。
「どこを受けるか教えて貰える?」
「国大の教育学部だよ。俺は、教員を目指しているから」
 受かるの? というように見下ろされる。教員を目指している。牧先生のような?
「ふうん」
 今日のメインの質問を出来て安堵した私の頭は、それ以上回らなかった。
「今から二次試験の対策をするの?」
 頷く。眉間にしわを寄せて黒ぶち眼鏡をかけ直して参考書を顔に近づけないで欲しい。
「私大も受ける予定だからさ。真野君も滑り止めはどこか受けるのでしょう?」
「一応。外語大はね。上智だと滑り止めにならないから」
 やっぱり。牧先生と同じ英語の先生を目指すのか。外語大でも滑り止めでなくないの?
「偏差値どのくらい?」
「学部に寄るけど、英語の関係なら、五十五前後。あそこは、センター試験と併用が出来るから、気が楽だし、入試の費用も最低限で済む。最寄り駅が神田でアクセスも良いし、留学生が多いから、奨学金制度も整っている。小牧のお家は、お金をちゃんと出して貰えるの?」
「え?」
 眼鏡の奥から見下ろされ、思考が止まった。
 ちゃんと? 高い私大の学費でも? 漠然と真野君と同じ国公立大学と滑り止めの私大を受けると決めていた。何校でも試験費用を出して貰えるか? 違う。真野君がその大学の二本に絞っているのだったら、同じ大学内で受けられるいくつかの学部の受験の費用も?
 特に親にそんなことは聞いていない。夢や進路に関してあれこれと食卓で聞きたがる我が家は、ひとつ年上のお姉ちゃんが嫌そうに先に答えているから、それに合わせるようにして返して来た。でも、私立の女子校を受験したお姉ちゃんは、中学校から短大までエスカレーター式に進路は決まっている。
 私は、家からバスで通える近所の公立中学校から高校まで進学をしたから、センター試験を受けるとは言っておいた。その結果により、志望大は変動もするよな、ゆっくり考えろ、大学四年間は長いからというようにお爺ちゃんに返された。
 中高共に公立を希望したのだから、国公立大学に進学希望だと思われているのだろうか。
「分からない。直前講習は行って来いって応援して貰えたから、夜に聞いてみるね」
 頷かれる。呆れた顔を向けられてしまった。私は、受験生の年末の自覚に欠けたのか。
「小牧と仲いいチア部の三人って、大学受験をしないの?」
「ああ、短大か専門学校だから」
 私がいつも一緒の四人組と覚えてくれましたか? でも、私だけを見てくれませんか?
「そっちを滑り止めにする方が現実的じゃない?」
「受けるだけは受けても良いでしょう?」
「別にいいけど。小牧なら、受けるだけ受けてみるのが国大の方だ。センター試験で足きりにならない点数を出せれば、国大も受けられる。でも、それだと二次試験は厳しい。運だけで受かれるほど甘くない。直前対策で自分がどこまで出来るようになるかで、結果は決まってしまう。外語大を第一志望にする方が向いている。うちの高校で普通にやれているのだから、偏差値五十以上はある。余裕があるなら、女子大を足すのが無難だろ」
 文系の私に三科目で受験が出来る女子大を勧めくれていることは分かる。でも、真野君と同じ校舎に通えることは絶対にない先に行けと言いますか。
「上智大学も受けるかもしれないの?」
「ううん。俺も、もう一つ増やすかは、直前対策後の模試がセンターと二次試験対策だから、受けてから決める。お金の問題だけでなくて、試験日の間隔も考えた方が良い」
 なるほど。直前講習後の模試ってどれだ? 最終進路決定のためのセンターと二次試験なのか。予備校に行ったら聞いて、自腹で申し込もう。多めにお金を持て来てよかった。
「私、丈夫なのだけが取り柄なの。勝負事は、身体のコンディションがいちばん大事だよ」
 お父さんたちがいつも言っていることだから、間違いない。
「分かっている。お前って、なんかえらそう」
 ごめんなさい。真野君にそんな態度を取ったつもりはありません。もっと精進します。
「小牧にも別の夢があるだろ?」
 なにその、私も一緒に教師を目指したいとまで言ってくれるなという睨みは。別の夢?
「そんなのないよ。どうして同じじゃダメなの? 私のお父さん、日研の先生。国大の教育学部だったら、母校だよ! お前も夢がないなら、同じ職業を目指せといつも言うよ」
 嘘ではない。特に夢を持てないなら、教師を目指しなさい、やりがいがある仕事だからと。
「変な親。似た者同士。お前もってなに」
 笑っている。どうして? 夢がないなら自分と同じ職を目指せと言ってもおかしくない。
「お爺ちゃんも教員だったの。昔ながらの塾で教えていたのだって。だから、私も将来の夢は、教員だと進路指導の紙にもちゃんと書いて出したよ。残念だったね!」
 牧先生のような教師になりたい真野君と、お爺ちゃんやお父さんのような塾教師になりたい私。勝負あったでしょう?
「なにが残念? 進路希望の紙だろ」
 目の前に来たバスに気を取られていた真野君にどさくさ紛れのようにして聞いた。
「高校の教師を目指しているの?」
「うーん。まだそこまでは決めていない。でも、塾に勤めるイメージは持っていなかった。日研って、中学校のお受験か。俺、小さい子供たちと合わなそうだよな」
 参考書に緑の下敷きを挟み、首を傾げている。真野君も赤いマーカー線の上にそれを乗せて、英単語を覚えているのか。真野君が小さい子供たちに教える? 想像が出来ない。
「お前、そこで笑うのは失礼」
 少し笑って真野君は、先にバスに乗って行く。同じクラスになれたこの二年間、いつもそっけなかった真野君が私の目を見て笑った……。しかもお前だって。慌てて後を追う。
 やった! 今日は混んでいて座れない。真野君の隣でつり革を引っ張っていられる。
 彼が参考書を読んでいる隣でバスのアナウンスが流れて出て行くのを聞いていた。
「小牧。俺の方が偉そうだった気がして来たけど。うちの学校、大学進学希望者が半分くらいだし、志望を絞り切っていない同級生は他にも多いから、予備校に行くとやる気が出るよ。俺も仲いい奴らと高校卒業後は別の学校に通うことになると思うけど、関係は同じだから」
 参考書から視線を私におろして真野君が喋っている。
 同じだから……。なにですか? 私と真野君の関係も今となにも変わらないと言ってくれていますか?
 小牧。真野君が呼んでくれる時の声は前よりもやさしくなった。
 私にだって小さかろうが“牧”はつく。苗字だけで競えないけどさ。私のこともみんなが牧先生を気楽に呼ぶ時のように、マキちゃんでいいし、Miss Makiと呼んでくれも問題はないと思うの。牧先生は、穏やかだし、長いウェーブの髪がきれいだし、すらりとした大人の色気があるだろうけどさ、私にだって将来性はあると思うの。牧先生は、私たちより十歳も年上の既婚者じゃない。
 左肩の上でみつあみにした髪を引っ張る。このゴムをほどいたら、牧先生と似たような感じになるのだけどな。ウェーブだけだけどさ。少し茶色く染めるのも大学生になれば出来る。
「雨が降りそう。傘を持って来た?」
 真野君が参考書との世界に入ってしまい、私のつぶやきに何も答えなくても気にしない。
「無理だろうなあ……」
 つり革を無理やりに引き寄せ、流れていくグレーのビル群だらけの風景を見て呟いた。
 私がどれだけ牧先生の真似をしたって、真野君がずっと見ていてなどくれない。
 一緒に帰っているとクラスの人たちは噂をしていたけど、私がいつも下駄箱の辺で英語の丸暗記本を読んで待っている。真野君が入っているバレー部情報は、中学校までは映画鑑賞クラブだったのに、チアバトン部に無謀にも入って仲間から貰って来た。
 真野君話のおかげだ。高校一年生の時も、クラス替えがあった二年生の時も、同じ中学校からの友だちが少なくて、同じクラスになれなくても、同じ部活繋がりの友だちが出来た。
 お互いの彼氏と帰るために掃除当番も変わって来た。真野君は私の彼氏でないのだけど、そう解釈されている。真野君は牧先生ひとすじの真面目な人で、彼女が出来る心配はないから、肯定も否定もせず、そのままにして代わって貰って来た。校舎からバス停に向かって歩いている真野君を見かければ全力で走り、時間を合わせている。私がバス停まで追いかけなければ先に行っちゃうし、私から話しかけないと参考書を読み続けている。
「落ち込み過ぎ! 自分の頭を天気のせいにしない」
 頭を軽く叩かれて笑った。真野君は、私相手でもたまにふざけてくれる。笑顔が大好きだ。
「着いたよ。早くして。一緒に申し込むのだろ?」
 うん、頷くまで聞かれなくても全く平気だ。さっき小突かれた頭を抑えるだけで、一緒にと言ってくれただけで、うれしい。
 バスの階段を飛ばしており、ピンと伸びた同じ紺色の制服の背中を小走りに追いかける。
 予備校に入り、受付で書類を受け取る。予想外に混んでいた。今日申し込む受験生だらけ。
「俺は、授業が始まる。また明日」
 一緒に受付カウンターに並んで書き方を悩んでいたのに、手続きをして行ってしまう。
 彼の後ろ姿を見ているだけでも幸せになれてしまう私はゲンキンでしょうか?
「真野君、これ!」
 直前講習のパンフレットの上に置き忘れていたちいさい紙を持ち上げると、振り返った真野君はひらひらと手を振り、同年代の制服に囲まれエレベータ―の中に消えて行った。
 あ、領収書。置いて行ってくれたのか。これを見て書けば、同じ進路なのだから……。
“ラストスパート! がんばろう”
 備考欄に書かれた四角く几帳面な字がとてもやさしくて愛おしい。
 大学の受験より何よりかによりも、彼のことだけをずっと同じに見続けていたい。

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