第二話 キス
彼を捕まえて言うことは決めた。昨日はできたのだから今日も出来る。
最後の終業式は体育館で行われていた。
ここでも真野君の斜め後ろをキープした。
そうは言っても、真野君がいるのは遠めの斜め前だ。真野君が私の斜め前に立ってくれるわけもないし、教室の座席取りのようにうまく行かず、男女別の二列は到着順になっている。模範生の真野君は登校も早い。寝坊をするダメな私は自由に並べる列なのに、真野君のちょうど斜め後ろに並べてもいない。
壇上のマイクの前で喋っている校長先生の話は、頭に全く入らない。
皆さんそれぞれの……。最近になって頭がはげて来てしまった校長先生は、二度とない学生生活の時間を大事にしましょう、という内容を語りたいのは分かった。
特に高校三年生の皆さんは……。年明けには始業式があって、卒業式の最後の練習日が終われば、すぐに入試期間の自由登校になる。その後は卒業式の本番だ。だから高校の終業式は、私たちに二度とない。なにでも今回で最後とついて来る。残り少ない貴重な高校生活の時間、真野君の真っ直ぐな姿勢は、最後の終業式も前にいる牧先生を目の端で捕らえている。
言わないもん……。
後ろを見もしない真野君には、私が呟いたって聞こえない。消極的でも絶対に言わない。
私の気持ちは、真野君にとっくにばれていようと、ちゃんと言ったら終わるものなの。伝えることが大事だとは思わないの。振られたくなんかない。結果は分かっているもの。
またバスに並んで乗ったり、ふざけて頭をぶってくれたり、バレーの試合の応援に行ったり、みんなと一緒に色々と出来た方が良い。真野君との思い出がひとつでも多くあった方が良い。そのために学校だけでなく、予備校の接点も作ったの。それも、直前講習だけ。勉強は出来る方じゃないから。最初で最後。今よりもう少し親しくなりたいだけなの。しつこいと嫌われたくないの。
真野君、私たち、ただの同級生ではないよね? 友だちではあるよね。
校歌を斉唱(せいしょう)して終わった。後ろの方でチアバトン部の仲間と話していた佳代ちゃんに帰りにハンバーガーを食べて行かないか聞かれたけど、真野君の背中を指さした。ああと笑顔でガッツポーズをされる。別のクラスの部活の仲間も同じように笑顔をくれた。
こぶしを返して走り、振り返りもせず、歩いて行ってしまう背中に追いつき、声をかけた。
「真野君、一緒に帰ろう!」
最後の終業式なので、お願いします。そう続くはずだった。背中にぶつからなければ。
ごめんと言おうとして、立ち止まっている真野君の視線の先を背中越しに眺めた。
体育館からみんなが帰って行く校門の向こう、黒塗りの高級車が停まっていた。真野君の背中でよく見えない。賑やかな笑い声が聞こえる。なに? どうしたの?
「あ」
お腹を抱えて校門へ歩いて行く牧先生が見えた。クラスの生徒たちに囲まれてひやかされながら、もう! というように笑い返している。背の高いスーツの男性に……。
「どこか一緒に行こうか」
真野君がいきなり振り返った。無表情に見下ろして来る。なにも言えない。
スーツの男性に手を取られて、車に乗って行った牧先生の姿は、真野君のせいでよく見えなかった。
「寒い! なんでこんなところに来たいわけ」
屋上へのドアを開けた途端、真野君は叫んだ。チェックのマフラーを巻き直している。
怒った顔で文句を言っていても、ドアを開けて待っていてくれた。それだけでうれしい。
「屋上。青春の青(あお)」
「くだらない。校則違反だろ。風邪をひくから少しだけだ」
受験生としての自覚がない、続く言葉は分かっている。同級生のカップルたちを見て注意をしだしそうだ。
「スポットなの」
「なにの?」
「真野君は知らなくていいよ」
「またえらそうに」
「五分間だけでいいよ」
やっと笑って頷いてくれた。恋人のスポット。並んで柵に手をついて青空を見上げる。
「良い天気だな。青春の青?」
頷く。雲ひとつない晴れた空。冷たくにごりのない風。青春の青。見上げるスポット。
校舎の屋上にカップルで来て、そんなことを語り合いそうだと思う真野君が好き。
「教師になったら、こんな風に見下ろすのかな」
呟いて見下ろせば、ちょうど校門から帰って行く生徒たちが見える。隣の真野君と目が合った。
何か言いたそうな顔。目の端を黒い車が走っていく。磨き上げられた高級車。え?
「ちがう」
牧先生のことを言おうとしたのではない。真野君の目をうまく見返せない。あの車がそうなの? さっき乗っていたのに遅いじゃない。そうじゃないの。考えてもいなかったの。
「わ、私は、ほんとうに真野君と屋上に来たかったの! 青春の青、したかったの!」
大声で言ったら、頬にキスされた。
今、したよね? 手を頬に当てようとしたら、上から手を重ねられて柵に押さえつけられる。
「大丈夫だよ」
やさしいかすれた声に顔があげられない。覗き込まないで。いつもはそんなことしないくせに。
「その青春の青って、お前が考えているような純粋なことを他が言っていないよ」
真面目な顔でそんな風に言われても困る。言い返せない。ここはカップルスポットで、キスをするための場所なの?
「おれは分かっているから」
なにも分かってない。そんなことを違うと言ったのではない。牧先生が。今考えたくない。
「……うん」
嘘ばっかり。真野君に手を握りしめられたまま、その腕にキスされた頬をくっつける。
青春の青。私にはこれで目一杯だ。大丈夫だよ。何も言われなくても、これ以上は追いかけない。卒業式には、ちゃんと笑える。次の春に見る最後も決まっているの。
「キスして欲しいなんて誘っていない」
泣けてきた。真野君はどう思って一緒にここまで来たのだろう。
屋上? と聞き返して、私が頷くと、校門の方を見ることなく、先に歩きだした。下駄箱で並んで上履きに履き替えて、階段をぐるぐると登っていた間、ぴんと真っ直ぐに伸びた背中だけをずっと見つめていた。
牧先生の結婚相手が周囲に見せつけるようにして迎えに来て、妊婦は手を引かれて一緒に帰って行ったことを考えていたのではないの? ここは、カップルがナニするところだなんて考えていたの? 私もそんなことを悩んでなにも言えず、真野君の後ろをついていたと思っていたの? そんな女だと分からないで欲しいの。
「今、泣くなよ。普通、他の男ならおそう」
ここで真野君に寄りかかっていたら、普通は襲うのなら、今すぐ襲ってしまって欲しい。
「ひどい」
出来ないくせに。そんなこと私と考えてもくれないくせに。しかも私は、襲って欲しいどころか、キスをして欲しいとも考えていなかったのに。本当にひどくない? 私は、学校の屋上での青空を真野君と一緒に見上げた思い出が欲しかった。それだけのことだったのに。
「だから、こんなところで出来ないって。出来る方がおかしい」
誰もそんなことをひどいと言っていない。成り立っていない会話。正す気にもなれない。
片思いだった牧先生に、結婚相手を見せつけられた真野君は、失恋をする私にやさしい。
「小牧、温かいものを奢ってやるから」
頭を手のひらで撫でられる。大丈夫。不安そうな顔をしなくても、いつも通りに笑い返せる。
こんなところだから、私にキスを出来ない。他の男なら、泣いた私を襲っていた。今でなかったら、他の場所だったなら、違ったかもしれない。それでいいよ。
「お前の気持ちは分かったから行こう」
手を引っ張られる。うつむいて首を振る。なにも分からなくていい。私の気持ちのなにがしも。この真っ青な空のように、純粋なことを考えている? 違うよ。
真野君が牧先生たちを見送らなくて済むように選んだのなら、屋上ではなかった。真野君は、私に振り返ってくれたのに。自分が真野君と行きたかった場所を答えただけで、そんな思いやりは少しもなかったの。真野君は頬にキスもしてくれたのに。
「泣くなって。お前の分も国大のパンフレットを持って来てあげた。少し話そう」
やわらかい声に頷いて歩きだした。真野君は速足だ。あまり話さないし、頭が固いし、なにを考えているのか表情から読みにくい。でも、いつもやさしいの。約束の五分が経ったから行こう、とも言わないの。
同じ大学に一緒に行けたら、毎日、どうにかして真野君情報を得る。校舎の窓や木陰から、その真っ直ぐな背中を見つめ続ける。友だちや先生たちと笑っているところを見つけられたらラッキーな日だ。今度はこっそり追いかける。それで幸せ。
でも、きっと無理なの。学校という接点がなくなったら……。
「さむっ」
横から冷たい風が吹いて来て思わず叫び、真野君の腕を両手でつかんだ。ちょっと待ってくれ。
「さっきから言っているだろ。早く歩いて! またチャラいのが増える」
他のカップルが開けたドアの傍でキスをしている同級生を睨みつけて引っ張られる。
風上に立っていてくれた。今も、私の前を変わらず手を引いて歩いていてくれる。
真野君。私は友だちじゃないかな? もう少しだけ、この恋を頑張ってもいいかな。